56 名前:No.14 月光に誘われて1/2 ◇oGkAXNvmlU 投稿日:06/09/17 19:02:22 ID:nkI7IBDo
寂れた観光の街。石畳の商店街の広場にポツンと佇むピアノ。
無性にそのピアノに触れたいという欲求が沸いてきた。
出張先のくだらない接待で、適度にアルコールが回っているせいだったのかもしれない。
いや、夜空の下で艶めく、そのピアノは明らかに俺を誘っていた……。
湿気を含んだ独特の潮風は、優しく体を吹き抜けていく。
俺の腕に頭を乗せた女は、まだ荒い吐息を胸にかける。
まどろむ意識の中で、ゆっくりと女の髪に指を溶かした。
「ねぇ、私、運命を感じちゃったの……。あなたとならきっと良い家庭を作れるわ」
それもいいかもしれない。俺もそろそろいい年だし、収入も安定して余裕がある。
闇が脳の一部を引き抜く感覚を味わいながら、結婚しようかと呟いた。
古いビジネスホテルの独特の臭い。有線から似つかわしくない音楽が聞こえてきた。
ベートーヴェン ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2『ほとんど幻想曲風に』
昔取った杵柄か、指は思ったよりも動く。全ての音符は覚えていないが、第一楽章なら耳が覚えているだろう。
なぜここにピアノがあるのか、なぜ弾ける状態で放置されているのか、そんな「なぜ」はどうでもよかった。
月明かりの下で奏でる『月光』。誰かに咎められようが、知ったことではない。
夜空は全身を侵食し、指先からピアノと混じる。
夢中で、感じるままに動くこの行為は、まるでセックスのように俺を夢中にさせる。
第一楽章を弾き終えると、後ろから控えめな拍手が聞こえた。
「お上手ですね……。『月光』ですか?」
振り向き、苦笑いで謙遜する。シャツが汗ばんだ背中に張り付いた。
57 名前:No.14 月光に誘われて2/2 ◇oGkAXNvmlU 投稿日:06/09/17 19:02:49 ID:nkI7IBDo
通年を通して同じ厚さの掛け布団のせいだろうか、汗がうっすらと全身を包む。
「さっきの話だけど、本気にしていいの?」
化粧を直しながら、女は鏡越しにチラリと視線を向ける。
何のことを言っているのか瞬時に理解していたが、俺は少しとぼけてみせた。
「だから、さっきの結婚の話……」
女は椅子の上から上半身を伸ばし、まだルージュを引いていない唇を俺に押し当てる。
本気だよ、と答えながら頭を抱く。女は幸せそうに微笑んだ。
俺はピアノの蓋を閉じ、女と向き合う。20代後半だろうか、少し疲れた微笑みを浮かべている。
一人旅の最中だと言い、良ければと俺を遅い夕食に誘う。夕食はすでに済ませていたが、俺は誘いを快く受けた。
先ほどまで消えていた街灯が、フッと頼りなげに広場を照らす。
そのわずかな光が、月明かりをかき消すと、艶めいて見えたピアノはもうそこに無かった。
ピアノに背を向け並んで歩き出す。俺は整った女の顔を見つめ、弱くも美しい蝶を思い浮かべた。
月光に誘われた蝶……。思ったより俺は酔っているのかもしれない。
女との連絡が取れなくなって7日。
1Kの自宅で一人、ウィスキーが俺の足先まで酔わせた頃に突然、真実に気付いた。
結婚式費用に200万円を彼女の口座に振り込んだ日から、電話は繋がらなくなったのだ。
女は蝶では無く月。月光に誘われたのは俺……。
窓を開けてみたが、月は見えない。都会の臭気と湿度が、俺の部屋に流れ込む。
今、ピアノがあるならあの曲を弾こう……。
ベートーベン ピアノソナタ第8番ハ短調作品13『大ソナタ悲愴』
おしまい