【 月の妖 】
ID:QEb/Xf3H0




37 名前:月の妖 1/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:42:19 ID:kRt9Tdy5
 迎えの牛車が天上から舞い降りた。
 いつか来る別れとは覚悟の上。
 かぐや姫を乗せた牛車は、籠を揺らして月の世界へと、歩むように昇っていく。
 天上からは、雨の如く綺麗な鈴の音がいつまでも響き渡っていたと云う。


 提灯の無い夜の道は、真丸お月様の明かりだけが、私を導いてくれる。
 この先の小川に架かる朱色の橋を渡り、その前方に広がる竹薮を抜けると、
 鬱蒼と茂る木々に囲まれ、大層立派なお屋敷が建てられている。
 私が仕えるご主人様のお屋敷である。
 ご主人様のお屋敷は、人里離れ、遥か遠く街の明かりが、星々の様に揺らめいていた。
 私は、明日の食の材料を調達しに、隣の街まで遠出していた。
 原因は材料を切らしてしまったことに始まる。しっかり、確認しておけばよかった。
 迂闊だった自分を戒めた。二度と、こんな失態は犯さないだろう。

 私がご主人様の下に仕えてから十七年が経とうとしている。
 現在のご主人様は、両親を亡くし、身寄りの無かった私を引き取ってくれた先代の一人息子で、
 まだ幼かった私を妹のように可愛がってくれた。
 先代は五年前に先立たれ、このお屋敷の当主を一人息子であるご主人様が御継ぎになった。
 物書きをやっているご主人様の身の周りの雑務一般を、私が代わりにやらせて戴いている。
 私はこの御恩を、身を尽くし、生涯返し続けることを心に決めている。

38 名前:月の妖 2/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:42:46 ID:kRt9Tdy5
 肌に触る風が、日毎に少しづつ冷たくなっていくのを感じていた。
 静寂世界の中、鈴虫達の演奏会が始まりを告げた。
 後ろを振り返れば、朧げに輝く人工的な星々が私に街の喧騒を思い出させる。空を仰げば、綺麗なお月様と夜空に輝く満天の星々が
 天上から覗き込んで、壮大な世界へと私を誘う。
 いけない、早く戻らなくては……。ご主人様が御心配なされる。
 両手に下げた食料の沢山入った風呂敷を揺らしながら、ご主人様のお屋敷へと向かった。
 この先には、細く柔らかい水の流れを讃え、その流れの少し上に朱色の橋が架けられている。
 月下橋。まだ幼かった私に、ご主人様に教わった。
 その昔、かぐや姫はこの世界での服役を終え、忘却の秘薬を飲み、記憶を残すこと無く月の世界へと戻っていった。
 しかし、かぐや姫は迎えの来る日の朝、この小川に首に着けたていた宝玉を投げ込んだと云う。
 この世界に居た事の記憶を、失う事を悟ったかぐや姫は、精一杯、この世界に居た証を残していったのだと。
 幼かった私は、この事についてご主人様に尋ねたことがあった。

「なんで忘れてしまうのに、大事な首飾りを川に投げちゃうのですか?」
 ご主人様は私の頭を優しく撫でながら、その話の続きを教えてくれた。
「かぐや姫は全てを忘れて月へ行ってしまったのだけど、満月の日になると、
この小川で、不思議なことが起こるようになったのだよ」
「不思議なことってなんですか?」
 私は、まるで好奇心の妖怪だった。
「かぐや姫が月へ帰った後の話。ある満月の夜、お爺さんお婆さんはかぐや姫を思い、この小川で満月を見ていた。
でも、水面には満月ではなく幸せに暮らしているお爺さんお婆さんの幻が映っていた。
その後、お爺さんお婆さんは、幻通りずっと幸せに暮らしていたそうだ。
これを月の妖と云い、この橋を月の下に架かる橋。月下橋と呼ぶ様になったのだよ」
「つきのおよ……お、およれ?」
「つきのお、よ、づ、れだよ」
「えっと……、つきのおよれづ?」
 暖かい日差しの下、赤い橋の上、小川のせせらぎと私達の笑い声が響き渡っていた。

39 名前:月の妖 3/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:43:05 ID:kRt9Tdy5
 幼い頃は立派な橋に見えたのだが、改めて見ると木造の可愛らしい赤い橋だ。
 でも、この橋は先代の生まれた時よりもずっと、ずっと、昔から存在していたらしい。
 月下橋、月の妖。月に由来した名前がこの周辺には多い。
 竹取物語の舞台となったと言われるこの地は、どこか幻想的な雰囲気を漂わせる。
 こんな夜深くに、この場所を通るのは初めての事だった。
 月明かりが妖艶に世界を彩って、いつもと違う景色のように見える。
 肌寒い夜風を浴びながら、私の足が橋の中央で止まった。
 静かに流れる水の音が心地よい。それに耳を傾けていると、そのまま眠ってしまっても不思議ではない。
 澄んだ水は鏡の様に、在りのままの世界を映し出していた。
 私の顔が水面に揺れ、ぐにゃぐにゃと形を変えていくのが可笑しい。
 幼い頃、ご主人様と共に遊んだ日々が蘇る。
 暫く感慨に浸っていると、又、現実の世界が私を引き戻した。
 私達はもう兄妹の様な関係ではなく、当主とその召使の関係になってしまったのか……。
 私はずっと、ご主人様のことを愛している。もちろん、兄の様な存在として。
 でも、それ以上にもっと、胸を締め付けられる様な儚い感情が心に溢れている。
 ご主人様も私のことを愛してくれてはいるだろう。しかし、それは一召使として、妹の様な存在として、唯、それだけだろう……。
 私とご主人様の愛は恐らく別の形で存在している。
 仕方ないことだと十分に承知しているつもりだ。
 ご主人様との距離を改めて遠く感じた。
 心の底から悲しみが津波の様に押し寄せてきた。
 鏡の様に在りのままを映す水面が、微かに光輝いていた。
 私は、ふと、水面に目をやった。
 そこには私の顔も、綺麗な真丸お月様も映ってはいなかった。
 私は自分の目を疑いながらも、その水面をただ見つめていた。
 秋の寂しさ漂う風の匂いが、更に私を悲しみの底へと落としていく。

40 名前:月の妖 4/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:43:23 ID:kRt9Tdy5
 静かな水面に映る、ご主人様の幸せそうなお顔。
 染め抜きに五つ紋付きの黒羽二重の羽織……。
 少しだけ、はにかんだ笑顔を見せるご主人様。
 そのご主人様のお相手方のお顔を拝見する事は出来なかった。そして、私の世界に黒い幕が落とされた。
 いいえ、これは喜ぶべき事なのよ。一召使である私が何を夢見ていたの?
 私はいつか、ご主人様とその奥様のために身を尽くし、御二人の幸せな家庭を見守る。
 そう、それが私の仕事。 
 でも、そんなの、嫌だ。それは仕方がない事だって分かっている。
 小川に映る光景を、これ以上見つめていることは出来なかった。
 止め処なく流れる小川に私の涙も流されていく。
 私は嗚咽を交えながら、冷たい風を引き裂くように竹薮を駆け抜け、ご主人様のお屋敷へと足を進めた。
 水面には、綺麗な満月だけが妖しく映し出されていた。

41 名前:月の妖 5/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:44:19 ID:kRt9Tdy5
 石畳の道を進み、大きな門を開け、綺麗に手入れされた砂利の敷き詰められた庭へ抜けた。
 勝手口の食料保存庫に向かう途中、右の離れに明かりが点いているのを確認した。
 ご主人様のお部屋だ。こんな夜深くにもご主人様は万年筆を執っているのだろう。
 今、ご主人様のお顔を拝見するのは辛い。しかし、帰宅の報告だけでもしなければ……。
 ジャリ、ジャリと、砂利を踏みしめながら、ご主人様のお部屋の前の廊下へと近づき、襖の前に立っていた。
「失礼い、いたします。ただいま戻りました……」声の震えを抑えることが出来なかった。
「おかえりなさい。どう致しました? どうぞ、お入りなさい」
 声の震えに異変を感じ取ったのか、ご主人様から、入室の許可が下った。両手に下げた風呂敷を廊下に置き、
 そっと私は襖を開けた。
 行灯の光が部屋を明るく照らしている。ご主人様の優しいお顔が私を覗き込んだ。
「随分と遅かったですね? ご苦労様です」
 ご主人様の柔らかい声に、私は、涙を堪えることがとうとう出来なくなっていた。
 急に、駄々っ子の様に泣き伏す私。ご主人様が私を優しく抱き寄せ、膝の上で頭を撫でてくれた。
 細く白いご主人様の指には筆タコが出来ていた。
 だが、その手はとても温かかった。
 優しい声が私の耳元で響く。
「何があったのですか? 僕にお話して御覧なさい」
 私は在りのままを震えた声で伝えた。
「私、月の妖を、見て……。ご主、ご主人様が……。紋付袴を……」
 ご主人様が、そっと囁く。
「そうですか。月の妖を……。落ち着いて。大きく息を吸って御覧なさい。
僕の話を聞いてくれますか?」
 ご主人様の膝の上、私はコクリと頭を上下に動かした。
 ご主人様のお召し物に、私の涙が沁み込んでいた。
「月の妖には、未来を映し出すという話があるのです。
その映し出された未来は、それを見た者に関わる事柄だ、と。
紗江子、貴女の見たものは、貴女自身の未来です。僕のものではありませんよ。もし、僕が貴女と同じ状況であったなら、
僕が見るのは、美しい花嫁姿の貴女だったでしょう。それは、僕にとって、喜ばしい光景です。
僕は、その時の満月を思い出し、未来を見せてくれた事にお礼をするでしょう」

42 名前:月の妖 6/6 □QEb/Xf3H0 投稿日:06/09/16 23:44:38 ID:kRt9Tdy5
 ご主人様のおっしゃっていることを理解するのに、少し時間が掛かった。
 その言葉の意味を理解した時、真丸お月様に感謝し、ゆっくりと目を閉じてみた。
 瞼の裏、まだ鮮明にご主人様の少し、はにかんだ笑顔が映されている――

          終



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