【 桂男 】
ID:V9YW0aSu0




26 名前:No.8 桂男 1/5 □V9YW0aSu0 投稿日:06/09/16 03:09:48 ID:LbjpQKTV
 秋の十五夜、中秋の名月。風流という言葉のよく似合う十月のある日。
「景山は月にいる男って知ってるかい」
いつも珍妙なことばかり言っている友人の臼井が、今日もこんなことを吐かした。
「またテレパシーか」
「失礼な。俺は何も受信したことなんてない。純粋に俺のこの非凡に優秀な脳が
言ったのだ。月にいる男を知ってるかと聞いてる」
「お前の異次元脳ミソの中の男なんて知らねぇよ」
俺は呆れた顔をして、頭の中を見透かすように友の広い額を睨んだ。デコっぱげのようである。
臼井は俺の暴言を気に留めるでもなく、脳じゃなくて月だよと言った後、こう続けた。
「月には黒いところがあるだろう。言い伝えでウサギと呼ばれてるところだ。
だが実はもう一つ言い伝えがあって、あれはどうやら男の姿らしい」
「男?どこが」
「よくは知らないが、とにかくそうらしい。それでその男というのが、人がじっと月を見てるとだな、
腕を伸ばしてその人を捕まえてしまうんだ」
「おまえはつまらんことに博識だな」
呆れてそう言った後、俺は尋ねた。
「――で、そいつが何だ」
「いや、確かに単なる言い伝えで、そんな男がいるなんてリアリティも何もないはずなんだが――」
臼井はふふ、と笑ってそう言うと、 「ただ、『捕まえる』ってところが、なぜだか――怖くてな」
と結んだ。

27 名前:No.8 桂男 2/5 □V9YW0aSu0 投稿日:06/09/16 03:10:16 ID:LbjpQKTV
 その一時間後に臼井と別れ、帰路に就いた。腕時計を見ると、夜八時を少し過ぎたところだった。
――それにしても。
さっきの奴の言っていたことが気になる。
臼井という男は、たとえどんな話をしようとも、なぜか必ず自作の落ちを付けるという馬鹿馬鹿しい
癖を持つ男なのである。どうしても笑いに走らなければ気が済まないらしい。そして受けようが
受けまいが、決まって勝ち誇った笑みを浮かべる。意味不明だ。
しかし、あの話にはそんな落ちが結局なかったのだ。ということは。
――本当に怖いと思ってるということか。
そんなことを考えながら歩いているうち、公園の傍に差し掛かった。俺は何気なく空を見上げた。店や
街灯の光に負けてはいるが、ほぼ快晴の夜空には、星がいくつかぽつりぽつりと瞬いている。もしも
月が出ていたならば、きっとほとんど見えな――
「ん?」
違和感が。
おかしい。でも何が? そうだ、確か。昨夜は、空高く煌々と、見事に丸い銀色の――
じゃあなぜ今夜は。


「もし」


「うぉう」
不意に声をかけられたので、思わず珍妙な呻き声を上げてしまった。
慌てて声のした方に目をやる。
すると、公園の入り口に、歳は七十ほどかと思われる、灰色のスーツ姿に杖をつき、ソフト帽をかぶった
老紳士が立っていた。黒目がちの柔和そうな面持ちである。
28 名前:No.8 桂男 3/5 □V9YW0aSu0 投稿日:06/09/16 03:10:31 ID:LbjpQKTV
「あ、は、はいなんでしょう、か」
驚きが尾を引いていたせいで、返事まで妙である。 「これは失礼。驚かせてしまいましたかな。いや申し訳ない」
老人はすこぶる柔らかな表情と口調でそう言うと、ソフト帽を取り、深々と礼をした。
すると、現れた頭部は見事な禿頭、一本の頭髪も生えていない。
さらにその頭皮は病人のように青白い肌に、火傷の痕とも少し違う、灰色の染みのようなものが
半分近くを覆っていた。こちらも慌てて礼を返したが、ふとあることに気付いた。
人様の頭、ましてや気にしているかも知れない禿頭をまじまじと見るのは失礼である。
だが、よくよく見ればこの老人の頭、心なしかやたらと闇の中に浮き出て見える。決してその青白い肌が
街灯の光を照り返しているせいだけではあるまい。
おまけに、灰色の部分が、あの、月のウサギのような、というか、毛髪の生えていたであろう領域の全体が、
まるで満月の形をしているような――。
そして思わず。
「かつら――あ、ああの、すみません、すみま」
これは失礼だ。自分の方こそ正真正銘に失礼だ。間違いなく誤解された。謝罪の言葉もおぼつかず、
なんと弁解するべきか、完全に無秩序と化した頭の中を必死で回転させていると、

「おや――私をご存知でいらっしゃる。ならば話が早い」

「な」
何のことですか、と俺は言おうとした。しかし、なぜか開きかけた口が動かない。
何だ。この老人は何を言ってるんだ。
「十年に一度、この日に――作り直さなくてはなりませんでな。本当にあなたにはご迷惑でしょうが――」
そう言いながら、老人は黒目がちの目を細めながらこちらをじっと見つめ、ゆっくりと歩み寄って来た。
やめろ。近寄るな。声に出したいが口が動かない。それどころか手も足も、体中が固まって動けない。
どんなに力んでも無駄である。妙な汗ばかり出てくる。
一体どうなってるんだ!そんな絶叫を俺が心の中で響かせた時、満月のような老人はすぐ目の前まで近づいてきて
歩みを止め、ゆっくりと俺の頭に手を伸ばした。そして。

29 名前:No.8 桂男 4/5 □V9YW0aSu0 投稿日:06/09/16 03:10:44 ID:LbjpQKTV
ぐっ。
前髪の数本をつかんだ。何をする気だ。まさか抜く気なのか。やめろ。何するんだ。やめろって。
「痛くはありませんでな」
老人は相変わらず、微笑んだように目を細めて俺の目をじっと見つめてそう言うと、前髪をつまんでいた手を
俺の目の前に持ってきた。
抜けていた。いつ抜けたのかまったくわからなかったが、俺の髪の毛が小さな束になって、紳士の手にあった。
そして老人は、懐から古びた橙色の巾着袋を取り出した。そして抜いた髪をそれを入れると、再び俺の頭に
手を伸ばし、
「残念ながら、一度にはできませんでな」
と言って、また少し、俺の髪を抜いた。そして、秋も深まる月見の十五夜ァ、などと替え歌を歌いつつ、実に
楽しそうに、少しずつ少しずつ俺の髪の毛を摘み取っていった。瞳の奥にはいつの間にか、この世のものとは
思えぬ青白い鬼火がゆらめいていた。
俺は心の中で震え上がった。得体の知れぬ老人に、身動きが取れぬままに己の髪を抜かれているせいだけではない。
考えるための、頭の中の大切な部分が少しずつなくなっていくような感覚に襲われたからである。

30 名前:No.8 桂男 5/5完 □V9YW0aSu0 投稿日:06/09/16 03:11:01 ID:LbjpQKTV
どうしよう。なくなる。あたまがなくなる。どうしようどうしようどうしよう。
もはやそんなことしか頭に浮かばなくなってきた時、俺は臼井の言葉を思い出した。
――人がじっと月を見てるとだな、
――腕を伸ばして、
――その人を捕まえてしまうんだ。
じっと月を見てると。
俺は、それを思い出すとほとんど反射的に、動かないはずのまぶたを閉じた。
なんと、できた。閉じられた。すると。
「おや――よもやそんなことまで伝わっていようとは。小賢しいが――これではな」
そして、口惜しや、という消え入りそうな声が聞こえたのを最後に、俺は意識を失った。

 気が付くと、もう夜明け前だった。あの恐ろしい老人の姿はどこにもない。
夢だったのか。額に手をやる。良かった、何も変わって――
いや。
前髪が明らかに若干なくなっている。ということは。
「臼井――」
あいつのおかげで命拾い、ということか。あいつは無駄に博識なのだ。
「これじゃもう、あいつのデコっぱげを笑えないじゃないか」
参ったな、と言って、俺は苦笑した。
育毛剤でもおごってやろうかな。あいつはハゲじゃないと言うだろうが。
白み始めた空には、光を失いつつある満月が浮かんでいた。









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