森の王
◆HVzqEIcQBs




500 名前:森の王1/5 ◆HVzqEIcQBs :2006/09/10(日) 20:32:34.18 ID:2ywWvC8I0
 鬱蒼とした森。むっとした濃緑の匂いが立ち込める。
 幾重にも絡み合った枝葉が陽光を遮るそこは、薄闇と静寂を纏ったある種の異界。
 湿り気を帯びた土は緑の匂いに希釈されて混ざり合い、極めて濃密な森の匂いを作る。
 その最奥。周囲の木々を抱き込むように枝を伸ばす一本の巨木があった。
 それは他の木を支えているようにも、肩を貸してもらっているようにも見えた。
 地球を繋ぎ止める太い杭。そんな印象を受ける。
 聳え立つ姿には圧倒的な力を備えつつ、ただ黙して何も語らない。
 時間の流れは忘れ去られ、動的な存在はそこにありはしなかった。
  
 そこが俺達の溜まり場だった。
 神聖で貴い場所。

 誰が見つけたのかは覚えていない。
 大人がそこに行けば俺達とはまた違った所感を抱くだろう。
 悠久をその身で体現した神木を、原始的な情趣として受け止めるかもしれない。
 しかし俺達は違った。
 『自分達の国』
 人間社会で生きていくのは難しい。
 息を潜めても衝突は避けられない。大声を出せば腫れ物のように扱われる。
 指一本動かすだけでも煩わしさが付き纏う。
 しかしここは喧騒と隔絶された世界。すべてが自由だった。
 ここでは、俺達は何をしても赦される存在だった。


501 名前:森の王2/5 ◆HVzqEIcQBs :2006/09/10(日) 20:33:13.32 ID:2ywWvC8I0
「拓くん」
 声がした。
「ああ、夕子か」
「ん、今日も来てたんだね」
「お前もな」
 集まる約束はしない。来たい奴だけが好きに来ればいい。
 それでも一日少なくて二人、多くて十人くらいがここに集まった。
 何をするでもない。他愛の無い会話や散策に時間を使った。
 ときにはキャンプ道具を持ってきたりもした。
「拓くんは高校どこに行くんだっけ?」
 太い枝に腰をかけながら陽子は唐突に言った。
「外に出るの?」
「んー、悩んでる」
 外。つまりこの町を出て進学校に行くという選択肢は俺にはあった。
「拓くんは勉強ができるから、ここに残るのは勿体無いよね」
「でもここに愛着はあるからな……正直、ここを離れたくない」
 そう言って太い幹を撫でる。俺達はここで育った。
 この町を出て郷愁にかられたとき、真っ先に思い浮かぶ情景がここだろう。
 土に、草に、岩に、木に、静寂に、様々なものに思い出が染み込んでいる。
 陽子が可愛がっていたペットも、この巨木の根元で眠っていた。
 ここは様々な価値が付加されて、もはや手放すことはできないものになった。
 人間社会からぽっかりと空いた虚構に、俺達はあらゆるものを詰め込んてきた。
「あれ? お前らもう来てたのか」
 次々と仲間達が集まってきた。
 ふらりとやって来てふらりと帰っていく。少しの寂寥感と安心感が入り混じる。
 俺はまだ、このゆっくりとした時間の中で生きていたかった。


502 名前:森の王3/5 ◆HVzqEIcQBs :2006/09/10(日) 20:33:48.49 ID:2ywWvC8I0
 俺達の与り知らないところで、確実に終わりの時間は迫っていたらしい。
 だからそれは、俺達にとって唐突と言える。無知であることが悪い。そういうことだろう。
「なんだよこれは……」
 呻き声が落ちる。俺達の国が侵略され蹂躙されていた。
 閑寂とした空気は圧倒的な騒音で満たされ、褐色の原始風景は人工的な色に埋め尽くされていた。
 重機によって倒されていく木々。木材が軋んでいく音が、断末魔となって森に響き渡る。
 いつの間にか夕子が隣にいた。呆然と、その場に頽れる。
「なに……これ?」
 信じられない光景を目の当たりにした反応。
「拓くん、どういうこと?」
 縋るような目で俺を見た夕子は、笑っていた。悪い冗談を聞かされたときのように。
 唇を噛んだ。理不尽さに目頭が熱くなった。
「やめろよ!」
 ちらりとこちらを向いた殺戮者。眉をひそめて、また作業に戻っていく。
「なにするんだよ!」
 走った。こいつらを全員殴り飛ばせるものならそうしていただろう。
 作業員の制止の声を千切り、俺はあの大木の元へ駆け出した。 
「はぁ……はぁ……なんだよこれ……俺達が何したって言うんだよ!」
 いつもの場所。いつもの風景。そこに一つだけ異物が混入していた。
 俺達がいつも腰掛ける太い根に、周りの風景とは浮いた姿で、慣れたように座っていた。
 剥き出しの敵意を男に向けた。俺は猛犬のような形相をしていただろう。
 許されるなら飛び掛りたかった。


503 名前:森の王4/5 ◆HVzqEIcQBs :2006/09/10(日) 20:34:22.91 ID:2ywWvC8I0
「そうか、今は君達がここの住人か」
 黄色いヘルメットをかぶった男が言った。その目は、悲しそうにも見える。
「すまないな……本当にすまない……」
 眉を寄せて悲痛な顔をする。
「だったらこんなことはやめてくださいよ!」
「例え僕達がやめても、誰かがここを開発するために伐採する」
 男はヘルメットを取り去り、ぞんざいに捨てる。「馬鹿げているよな」そう呟いて。
「大きな木だろ……僕達も子供の頃はここで遊んだよ。ここは秘密基地のようなもんだった。
いや、そんな安易な言葉で言い表せるもんじゃないな。何だろう……一つの国だったのかな」
 遠く、何かに思いを馳せるような吐露。自分達の国。それは俺達と同じだった。
「僕達はこの木を『王』って呼んでたよ。ほら、いかにもって感じだろ? 多くを語らず、
多くを求めず、ただここに立って僕達を守ってくれるような存在。無償で愛してくれた」
 作業していた何人かがゆっくり追ってきた。その瞳にはどこか寂寞とした光が宿っている。
「僕達の親父もここで遊んだらしい。この町の子供の何人かはここを遊び場にするそうだ。
そしてその子供は大人になっても、必ずこの町に戻ってくるという」
 そう言って、薄暗闇の中でも眩しそうに目を眇めて『王』を見上げた。
「皆こいつの元に帰ってきちゃうんだよな……」
 その場の全員が仰いだ。遠くの方から重機の音が聞こえてくる。
「俺は……認めない……」
「ああそうだな、僕達を恨んでも良いよ。君達の場所を壊しているんだから恨んで当然だ。
それに……僕達だけじゃ自分達を恨み足りない」
 抑揚の無い言葉。諦念に近いそれが、さらっと自嘲的なことを言わせたのだろう。
 奪われる者。それが俺達なら、彼らはなんだ?
 彼らもまた、奪われる者。
「ちくしょう……」
 世界は、誰にも優しくない。


504 名前:森の王5/5 ◆HVzqEIcQBs :2006/09/10(日) 20:35:04.78 ID:2ywWvC8I0
 思い出が、記憶の欠片が、少しずつ掘削され暴かれていく。
 俺達の過ごした年月は平らに均されて、躯となってその辺に転がされた。
 夕子が泣く。それらを弔って。俺も泣く。ただ悔しくて。
「王様は崩御されましたってか、ははは」
 茶化したように言った奴も、泣いていた。みんな泣いていた――――。

 俺は一人、外の高校へ進学した。
 電線に囲まれた内側では、充溢した排気ガスが肺を灼く。
 あの頃は感じることができた空気の張り詰めたような澄んだ音は、もう聞こえない。
 都会らしい淀んだ音素が、ただ無遠慮に撒かれている。
 その雑音に混じって、携帯の着信音が鳴る。夕子からのメールだった。
「マンションが建つようです」
 と一言。
「そうか」
 止まっていた時間はようやく動き出したのだ。
 始原の王国は滅び、少しずつ人間の世界に馴染んでいっている。
 変化。万物は流転する。あの場所だけが例外過ぎた。
 俺達はその切り取られた時間に迷い込んだのだろう。
 変化を拒んだ。社会に呑まれることを拒んだ。
 情けない俺達を見て、自らが朽ちることで俺達を元の世界に戻したのかもしれない。
 王として。統治するものとして。今では俺は、そう考えることができるようになった。
「そろそろ、俺もちゃんとしなきゃな」
 怒られてしまう。
 移ろっていく時間を甘受したあの王に。

 王の意志は、その国に生きる人達の総意。だから俺も変わろう。
 あの雄大な王の姿は、今も尚、俺達の中で佇んでいる。
 ひっそりと。
          <終>




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