スイート・キングダム
◆2LnoVeLzqY




484 名前:スイート・キングダム 1/4 ◆2LnoVeLzqY :2006/09/10(日) 19:45:49.72 ID:FL5atwsj0

“そいつ”は突然、我が家にやってきた。

始業式を午前で終えた僕は、特にすることもなく、机に座って漫画を開いていた。
季節は、春。
机の上には、まだ真新しい教科書が所狭しと並んでいる。

ふと、小さな音が聞こえて顔を上げる。
僕の部屋は二階なので、机の前の窓からは、屋根の軒先が見える。
そこに、小さくて茶色い、何かがあったのだ。
鳥の巣ではないな、と僕は思う。小さすぎるからだ。
けれど他に思い当たることが無くて、諦めて目線を漫画に戻そうとして――
窓の外に、一匹のハチを見つけた。

「はぁ、ミツバチのちっちゃな巣?そんなの放っときなよ」
いいかげんな姉から、やっぱりいいかげんな回答が返ってきた。
母親に聞いても同じ答えが返ってきそうだと思っていたら、やっぱり同じ答えが返ってきた。
とにもかくにも、ミツバチなのだ。
それも、女王だ。一匹で巣を作るなんて、女王しかいない。
それにしても、スズメバチじゃなくて良かった、と僕は思う。
そうして、それなら放っておいても問題ないかな、と家族全員が同じ考えに至ったのだ。
家族全員、いい加減だ。

そんなわけで、ミツバチの巣はしばらく気にせずにいた。
気にせずにいたと言っても、無視していたわけじゃない。
晴れた暑い日も、じめじめした雨の日も、“彼女”はせっせと巣の周りを動き回っていたのを、僕は知っている。
ところが巣がある程度大きくなると、女王ははたと姿を見せなくなってしまったのだ。
女王の様子を眺めるのが楽しみになっていた僕は、そのとき大いに落胆した。
それ以来、しばらくハチの巣のことは忘れていたのだが――
数週間後には、窓の外を働きバチたちが元気に飛び回っていた。


486 名前:スイート・キングダム 2/4 ◆2LnoVeLzqY :2006/09/10(日) 19:46:54.52 ID:FL5atwsj0

女王は母になっていた。
思いついた表現に、僕はニヤリとする。
彼女の息子たちは忠実な働きバチとなり、どれも負けず劣らず元気に飛び回っていたのだ。
彼らはどこからともなく足に花粉をつけて帰ってきては、せっせと巣の拡張にも励んでいた。
そんな彼らを、僕は漫画を片手にぼんやり眺めていた。
事実、そうやって見ているだけで、面白かったのだ。
そうしてさらに一ヶ月が経ち、その巣は、立派な大きさになっていった。
女王陛下、万歳。
「これはまた、よく作ったねぇ」
いい加減な家族たちは、いい加減に呟く。
ハチたちはいい加減どころか、生真面目中の生真面目なんだろう。
ぶんぶんぶぶぶんぶぶんぶん。
羽音は止むことなく聞こえていたが、僕はといえば部屋では漫画ばかり読んでいたので全く気にしていなかった。
窓の外ではハチたちがせわしなく飛び回っていて、それを見て僕はふあぁと欠伸をする。
立派な女王の立派な部下たちは、僕を見て笑っているだろうか。
窓と漫画ばかりに目線をやり、ちっとも動かない僕を。
ぶんぶんぶぶぶんぶぶんぶん。
それは嘲笑にも、叱咤にも、忠告にも聞こえそうだった。

「あの巣にも入ってるのかね、これ」
朝食のパンに蜂蜜を塗りながら、父親があたりまえのことを呟く。
あのハチたちも、この父親にだけは蜂蜜を食わせたくないだろうなと勝手に思った。
この蜂蜜だって、どこかで働きバチたちが集めた努力の結晶であるはずなのだ。
それを、いとも容易く人間が奪い、そして食べてしまう。
父親はのそりと立ち上がり、カバンを持って家を出る。
僕も姉も、続いて家を出る。
父は今日も会社の中で、せわしなく、あくせくと働くのだ。
僕や姉も、いずれはそうなるのだろう。
現代社会に王はいないけれど、働きバチは、たくさんいる。


487 名前:スイート・キングダム 3/4 ◆2LnoVeLzqY :2006/09/10(日) 19:48:12.98 ID:FL5atwsj0

ハチの巣が駆除される。
その知らせを聞いたのは、残暑もまだ厳しい九月のある日だった。
ハチの巣ができてから、およそ五ヶ月が経っていた。

付近の住民も、最近はやけにハチが多いと思っていたらしいのだ。
そんな中で、誰かがミツバチに刺されたという。
そうして我が家の巣はついに発見され、住民によって役所に通報された。
何故今まで放置していたのかという彼らの厳しい問いかけに、母親は、
「放っておけば大丈夫ですよ、あれ」と、さらりと答えたという。
実際、うちの家族は一度もハチに刺されていなかったのだ。
けれどもたった一度だけ、働きバチは、人を刺した。
きっと、大げさに追い払おうとしたのだろう。
相手はミツバチなのに。じっとしていれば、まず大丈夫なのに。

巣が駆除されるその日、僕は学校を休んだ。
母親も「自分で学校に連絡しなさいよ」とだけ言って、理由は聞こうとしなかった。
つくづくいい加減な家族だな、と毎度ながら思う。
電話を掛けてから、自室の机の前に座る。
漫画を手にとって開くけれど、内容は頭に入らない。
王国の最期は、静かに迫っていた。

ぴんぽんと玄関のベルが鳴って、保健所職員が現れた。
白い服装に身を包んでいて、その白さが僕にはやたらと嫌味に感じられた。
「駆除します」
「はい」
交わした会話は、いわばこれだけだった。
すべては、もう決定されているのだ。
それは抗いようがなくて、けれども自然の摂理とは、どこかが決定的に違う。
僕は自室の机に戻り、窓からぼんやりと外を眺めていた。


488 名前:スイート・キングダム 4/4 ◆2LnoVeLzqY :2006/09/10(日) 19:49:04.57 ID:FL5atwsj0
しばらくしてハシゴが掛けられ、窓の外に職員が現れる。
それから彼はごそごそと、何かを取り出した。
白い霧が巣へと吹きかけられる――きっと殺虫剤だろう。
その霧に炙り出されるように、働きバチたちが一斉に飛び出してくる。
窓の外いっぱいに、飛び出してくる。
羽音が、否が応でも耳に届く。
それはこれまで聞いたことがないくらい、大きな音になる。
職員ががつり、と巣の根元をナタで叩く。下に網を構えながら。
がつり、がつり、がつり。
その周りを、まるで泣き叫ぶように、働きバチたちの羽音が囲む。
がつり、がつり、がつり――

そうして、巣は網の中へと沈む。
王国の、あっけない最期だった。

日が暮れるまで、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
夕日が部屋の中を染めるけれど、昨日までそこにあったハチの巣を染めることは、もうないのだ。
羽音も、もう聞こえない。
逃げ延びた働きバチたちは、どこかへ行ってしまったのだろう。
だが彼らも、生きるあてなどないはずなのだ。
待っているのは、地面に無残に転がったハチたちと同じ運命のはずなのだ。
あの女王は、どこかで生きているのだろうか。
自らの巣と、運命を共にしたのだろうか。
その運命が、本来の運命だったかどうか。それは、僕の決めることじゃない。
けれど、このやりきれない気持ちは一体、何だろう。
ふと、窓を開けてみる。夕日がどことなく、切なく見えた。
すっと、部屋の中へ風が舞い込んでくる。その風は少しだけ、殺虫剤の匂いがした。

ぱたん、と窓を閉める。
あの巣の中に、蜂蜜は入っていたのかな。そんないい加減なことを、僕は思った。




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