帰郷
◆5GkjU9JaiQ




316 名前:帰郷1 ◆5GkjU9JaiQ :2006/09/10(日) 07:34:16.21 ID:NHY6N0ekO
蝉が鳴き、緑の匂いが満ちる林。
滲む汗を気にすることもなく、僕らは走り回った。
それだけで、良かったのだ。

車内のアナウンスにハッとして、僕は夢から目を覚ます。
脇にある暗い窓を覗くと、冴えない男が映っていた。僕、だ。
この暗さは夜の闇なのか、トンネルの中なのか。
ぼんやりする頭を振り、傍らの生温くなった缶ビールを喉に流し込む。

随分、懐かしい夢を見た。
記憶の奥底に追いやられていた、夏の思い出が。


317 名前:帰郷2 ◆5GkjU9JaiQ :2006/09/10(日) 07:35:18.75 ID:NHY6N0ekO
小学生の時、僕の友人の一人に、浅見という男の子がいた。

「神社の裏の林に、秘密基地を作ろうぜ」

受話器越しに、浅見の枯れた声が耳に響く。
お盆の頃のことだ。
皆田舎に帰省していて遊ぶ相手が他にいない僕に、断る理由はなかった。

道路に面していない、切り立った崖の縁。
下からは見えないし、立入禁止の林の中だ。秘密基地を作るには、おあつらえ向きだった。
浅見が何処からか持って来た、ボロボロで大きな木板が四枚。僕が親に黙って持参した、釘と金槌。
それを三日かけて試行錯誤し、歪んだ立木にもたせかける形で僕らの基地は完成した。
頭を下げ、腰を屈めてようやく二人が入れるようなスペースだったけど、それだけで十分だった。

林が、僕達の王国になった。
漫画を持ち込み、蝉取り網を置いた。蚊取り線香だって用意した。
崖から街を見下ろして訳の分からないことを叫んだり、蝉取りに一日中駆けずり回った。
夕立に鳴る雷にびしょ濡れになりながら狂乱したりもした。林に紛れ込んだ野良犬を追いかけ回したこともある。
ただただ、楽しかった。
どこまでも、満ち足りていた。


318 名前:帰郷3 ◆5GkjU9JaiQ :2006/09/10(日) 07:36:31.82 ID:NHY6N0ekO
窓に映るやつれた男に、そんな少年時代があったなんて思いつく人はいないだろう。
浅見だって今の僕を見て、昔を思い出すことなんてことはないと思う。
もっとも、それを確かめる術はもう失われてしまったのだけど。

浅見の訃報を聞いたのは、一週間程前のことだ。
長く病に伏せっていたので、ある程度覚悟はしていた。
だから亡くなったのを聞いても、泣きはしなかった。
ただ、やるせない気持ちだけが、重しのように心にのしかかった。
それだけである。
帰郷し、焼香でもあげれば気は晴れるだろうか。
そんな淡い期待を持って、今こうして新幹線に乗っている訳だが――


唐突に、車内に自然の光が溢れる。
トンネルを抜けたのだ。眩しさに、思わず手で遮光する。

ゆっくりと手を下ろして窓の外を見た瞬間、僕は思わず息を呑んだ。


319 名前:帰郷4 ◆5GkjU9JaiQ :2006/09/10(日) 07:38:17.92 ID:NHY6N0ekO
溢れる緑の山。雲一つない、青い空。
電柱がまばらに立ち、その下で田んぼの中で人が機械を動かしている。
何処かの田舎の、何気ない昼間の風景が流れていた。
見覚えがある訳じゃない。感動する程、雄大な風景でもない。

だけど、僕はそこにはっきりとあの夏を見出した。
あの緑の山中、青い空の下に、少年の日の僕と浅見を感じることが出来る。
無知で、粗野で、純粋な暴君達が、そこにいる。
そのことに驚かずにはいられなかった。
今、夢に見るまで思い出しもしなかったのに。

軽い耳鳴りと共に、僕の居る車両が再び暗いトンネルに突入した。
同時に、窓の向こうに今の僕が帰って来る。
驚いているけれど、どこか嬉しそうな表情をした僕が。

瞼を一度だけ指で拭うと、僕は再び目を閉じる。

昔に。
あの、小さな林の王国に帰る為に。


―了―




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