【 無題/愛 】
◆1pWiavQuVw




929 名前:愛 1/3  ◆1pWiavQuVw :2006/09/03(日) 22:58:38.88 ID:egnonpul0
あるところに夫婦がおりました。
 夫婦は毎朝きまったように起き、決まったように働きに出て、決まったように食事を取り、決まったように家に帰り、決まったように寝ていました。
 やがて夫婦は子供を授かりました。子供は名づけられませんでした。子供は成長すると自分の名前をほしがりました。そのたびに夫婦は口をそろえて言いました。
「自分の名前は自分でつけるんだよ」

 ある日母親が交通事故にあいました。5台の乗用車の玉突き事故でした。母親は手術室で息を引き取りました。
 父親は、死に目にも会えませんでした。子供はその日から家に閉じこもるようになりました。
 ある日父親は子供にハイキングに行くことを持ちかけました。子供もこのままではいけないと思って、それに応じました。
 ハイキングの当日空は快晴でした。山林のハイキングコースを父親と子供は懸命に歩き続けました。
 途中で天候が怪しくなり始めました。父親と子供はこれ以上歩くのは危険だとして木陰に身を休めました。
 雨音が激しくなり、近くの川の水が増水しているのが見えました。子供と父親はただ雨音を聞いて静かに座っていました。
 やがて雨がやみ、雲が晴れてきました。父親が立ち上がり歩き始めたので子供はその後に続きました。

930 名前:愛 2/3  ◆1pWiavQuVw :2006/09/03(日) 23:00:44.29 ID:egnonpul0
突然前を歩いている父親が視界から消えました。その後何かが滑り落ちるような音と同時に何かが折れる音が聞こえました。
子供はさきほど父親がいたところに駆け寄りました。父親がハイキングコースから外れたがけの下10メートルほどのところに仰向けになって倒れているのが小さく見えました。
 子供は父親の苦しそうな声を聞きました。とっさに子供はがけを伝って壁面の木々を頼りに慎重に降り始めました。先ほどの雨で地面の土はぬかるんでいて危険でした。
 子供は泥だらけで父親の近くによっていきました。そしてあっと悲鳴を上げました。父親のおなかから鋭い木が突き出していました。
足はおかしな方向にねじれ、頭からは血を流していました。父の携帯電話が二つに折れて傍に転がっていました。
子供は大声で泣きました。それに気づいた父親が子供に声をかけました。こどもは嗚咽をかみ殺して父親の言葉に耳を傾けました。
 泣き顔でいた子供は突然目を大きく見開き父の要求に何度も首を振りました。子供は近くの木の根元に後ずさって、木に体を預けながらずるずると腰を下ろし縮こまるようにしてなきました。その間も父の苦しそうな声が聞こえていました。


931 名前:愛 3/3  ◆1pWiavQuVw :2006/09/03(日) 23:01:46.63 ID:egnonpul0
 何時間がたったでしょうか。日が落ちて辺りは暗くなり木々の間から月明かりが漏れていました。
子供は今はもう声を上げて泣くことを止めて、いまだ苦しみ続ける父親の様子にうつろなまなざしを向けていました。やがてふらふらと立ち上がり、傍らに転がっていた父の登山用ナイフを手にとって、父の元へゆっくり歩み寄りました。
 父は子供の気配を感じたのか硬く閉じていた目をうっすらと開けました。そして子供の手の中のものを視線の先に捕らえると、額に汗を浮かべて微笑みました。そして子供のほうへ手を伸ばしました。
子供はその手を見ると目を閉じ首を振りました。
 子供はしずかにナイフに両手をそえて握りしめると父親の首筋にナイフの切っ先を向けました。
父親は子供の目を見ました。今にもなきそうな目でした。そして小さくうなづくとすべてを理解したように静かに目を閉じました。最後に父親は目を閉じたまま微笑んで言いました。ありがとう。と。子供の頬からしずくが流れ落ちました。
 また雨が降り始めました。すべてが終わった後で子供は父親のそばで両腕をだらりとたらして泣いていました。
 雨の中で子供はこれまで名前のなかった自分につぶやくように名前をつけました。
 愛と。



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