【 愛の形 】
◆dx10HbTEQg




896 名前:愛の形1/5 ◆dx10HbTEQg :2006/09/03(日) 22:26:58.42 ID:ioB8Ykhf0
 ここは、どこだろうか。
 荒涼とした大地を踏みしめ、私は頭を掻いた。白髪交じりの髪から、はらはらとフケが落ちる。
 汚い。身なりに気を使わなくなったのはいつからだったろうか。そろそろ美容院に行くべきか。そういえば、以前
化粧をしたのはいつだったろう。
 ……いや、待て。私は今まで何をしていた?
 あれ……?
 買い物に出かけた所までは覚えている。そう、確か大根がなかったのだ。そしてスーパーを出て、私はどうした
のだったか。家に帰った記憶はない。
 両手を確認するが、大根はおろか財布さえなかった。何処かで落とした? まさか。代わりに、リュックを背負っ
ていた。白く、軽い、少し暖かみのある荷物。これは一体何なのだろうか。私の持ち物ではないし、子供に買って
与えた覚えもない。夫の物だろうか。だが、あの人は白が嫌いだ。
 服装は、出かけたままだった。白のシャツに、ジーンズ。飾り気もなにもないが、私は白が好きだ。
「おばさん、早く歩いてよ」
 振り返ると、少女が立っていた。十歳程度であろうか、パジャマを着ている。痩せこけた頬が痛々しい。何かの
病気でも患っているのだろうか。
 周囲を見渡すと、私と同様に白のリュックを背負った人々が、列をなして歩いていた。服装も年齢も、人種さえ
も様々だ。リュックの大きさも、大きかったり小さかったりと、それぞれに違っていた。
 何処へ行くのだろう。皆、一方方向を見つめている。目的地を知っているのか、ただ人の後ろに続いているだけ
なのか。迷惑そうな視線を背後から感じ、とりあえずのろのろと歩き出す。どんどんと、後ろに並ぶ人が増えてい
るようなのは気の所為か。
 何も分からないことに不安を覚えた。説明が欲しい。何よりも、この沈黙が怖い。大勢の人々が一列に並んで黙々
と歩く、この状況が心地悪い。耐え切れずに、私は後ろの少女に話しかけた。
「ここはどこなのかな。ねえ、この荷物は何なんだろう。君、分かる?」
 少女は、このリュックはよく分からないけれど、と前置きして言った。
「あたしたち、死んだんだよ。ここはきっと地獄」
「え?」

897 名前:愛の形2/5 :2006/09/03(日) 22:27:31.58 ID:ioB8Ykhf0
 死んだ?
 まさか。私は買い物に行っただけだ。死ぬはず、が。
 ああ、しかし。
 なぜ死んでいないと言える。この少女が嘘をつく必要があるとでも。
 死んだ。私は死んだのか。
 どうしてかほとんど疑問を抱くことなく、すんなりと受け入れることができた。諦めるのは得意だ。それに、心
のどこかで既に理解していたようにも思う。死んだ。何が原因だったのかは分からないが、私は死んだ。
 大きすぎるリュックを背負いなおして、少女は続ける。
「あたしね、病気ですぐ死ぬはずだったのにこんなに生きちゃった。ママもパパも、きっと本当は早く死ねって思っ
てたはずなのに」
 そんなことは、と言いかけて私は口を噤んだ。
 地獄に堕ちるほどの事をした覚えはない。だが、天国に行けるほどに善行を積んでもいない。私がした事といえ
ば、夫に尽くし、子に尽くし、ただただ愛しただけだ。中途半端な私が、何処へ行けるというのだろう。私と少女
は同じ列に並んでいる。少女の辿り着く場所が私と一緒であるならば、少女は天国には行けないように感じられた。
 だが、と私は思い直す。
「大丈夫。君は絶対に愛されていたよ。絶対」
 子を愛さぬ母がいるものか。子が地獄に堕ちることを望む母がいるものか。子の出来が如何に悪くても、憎む母
がいるものだろうか。
 少女の闘病生活を支えるのは大変だったろう。精神的な負担も勿論あるが、金の工面は愛だけではどうにもなら
ない。自分自身と子の不運に泣いた日も、少なくないはずだ。
 それでも、と私は思う。
 子を愛さぬ母など、母ではないのだ。

898 名前:愛の形3/5 ◆dx10HbTEQg :2006/09/03(日) 22:28:06.48 ID:ioB8Ykhf0
 ぼちゃん、ぼちゃん――。
 どれだけ歩いたかは分からない。あれ以上の会話のないままに私たちは歩み続け、どうやら目的地に辿り着いた
ようだった。前方には川が流れている。あれは、三途の川なのだろうか。
 そこでは、誰もが例外なくリュックを放り投げていた。ずぶずぶと沈んでいくものもあれば、浮かんだまま流れ
ていくものもある。そして、投げ終わった者から一人づつ、小舟に乗って向こう岸へと渡って行った。
 私も、これを捨てるべきなのだろうなあ。結局これは何だったのだろう。
 周りを見習ってリュックに手を伸ばした瞬間、川辺に立つ、妙に間延びした男の声に私は固まった。
「はいはーい皆さーん。ちゃきちゃき愛を捨てて下さいねー」
 愛?
 何のこと?
 私の前の、太った男が低い声で呟いた。
「愛、だって? この中身は何なんだ?」
「だーからー愛ですよ愛。あんたが生きてるときに貰った愛が入ってるんですよー」 
 このリュックは、愛。人によって大きさが様々なのはその所為なのか。
 太った男はふ、と下品に笑ってそれを目の前に掲げた。今にも破裂しそうなほどに大きい。
「中を見てもいいのか?」
「とんでもない。愛の正体を知ろうなんーて、罪深いこと許されません」
 少しだけ不満そうな顔をして、肥満男はリュックを抱えた。ちらりと私を流し見て、やっぱり世の中は金だな、
といった様な事を一人ごちていた。この人は、金で愛を得たのだろうか。
「では捨ててくださーい」
 ぼちゃん。
 肥満男の番となり、その大きなリュックは川へと投げられた。ぷかぷかと風船のように、川を流れて行く。

899 名前:愛の形4/5 ◆dx10HbTEQg :2006/09/03(日) 22:28:39.91 ID:ioB8Ykhf0
 さて、私の番だ。
 リュックを抱える。小さな、惨めな、私の愛。
 早く早くと催促する男に、私は尋ねる。
「どうしても、捨てなければならないんですか?」
「ええ。生まれ変わるためにはー余計なしがらみは捨てなければならないんですよー」
 余計、か。
 確かに私は、愛を与えられていなかったかもしれない。夫とはここ何年も会話らしい会話を交わしていなかった
し、息子はめったに帰省をしない。両親は既に他界し、私には永遠に愛される機会など訪れないように思えていた。
 だが、だが。
 私はリュックを抱きしめる。
 なんにもないわけじゃなかった。愛には変わりないのだ。どんなにちっぽけでも、これは大切な私の愛だ。
 捨てる、など。
「ほーら早く! まだまだ沢山人はいるんですよー。流れを乱さなーい!」
「あっ」
 ぼちゃん!
 逡巡する私の腕から、男は愛を無理やり奪い取り、川へと投げ捨ててしまった。
 ずぶり、ずぶりと沈んですぐに見えなくなってしまった。私の、愛。愛が。
 呆然とする私に、よかったですねー、と声がかけられた。
 ……よかった?

900 名前:愛の形5/5 ◆dx10HbTEQg :2006/09/03(日) 22:29:13.68 ID:ioB8Ykhf0
「あんたはー愛されてたんですね。傍目には分からんかもしれませんがー、重ーい愛だったってことですね」
 さっきの男は、本当には愛されていなかった。きっと、男自身ではなく、男の持つ財産が愛されていたから、沈
むことなく流されて行った。大きく見えても、軽い愛だったのだ。
 そして、私の愛は。
「確かに愛は捨てちゃいますがねー。重い重い愛は、流れないでずっとここに留まるんですよー?」
 どうして、忘れていたのだろうか。
 私は、あの人の優しさが好きだった。友達に、どうしてあんなのがいいの? と聞かれるのが嬉しかった。
 あの人の愛情表現は私にしか分からない。それが、とても幸せだった。子供が生まれ、忙しさにまぎれ、私は大
切なことを忘れてしまっていた。
 息子は父親に似て、口下手で照れ屋だった。とても、優しかった。
 コミュニケーション能力が低い、と担任に言われるのが嫌だった。
 人を大切にするあまり、自己の主張が下手なだけだったのに。音信不通が不満なら、私から連絡を取るべきだった。
 死んでから気付くなんてね。なんて情けない。愛の形は人それぞれ。当たり前のことなのに。
「はい、じゃあ船に乗ってー」
 先立って、ごめんなさい。あなた達は悲しむのだろうね。
 全てを捨てて生まれ変わっても、私はあの人の妻であり、あの子の母であろう。
 愛の川を眺めながら、私はそう誓った。





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