【 未だ愛されない日々 】
◆D8MoDpzBRE




679 名前:未だ愛されない日々 1/5 ◆D8MoDpzBRE :2006/09/03(日) 12:51:04.08 ID:4wTG3vdR0
「センセー、私、漢字得意なんだよっ」
 センセーってのは俺、安東文也、大学二年生。そしてその声の主は逢坂桃香、高校三年生だ。
 桃香の家庭教師を頼まれたのは桃香が高校三年生に上がったときだ。およそ八ヶ月前。人づてに紹介さ
れた仕事だったので、仲介料は発生しない。おいしいバイトだ。
 だが今、俺がこのバイトに燃えているのは、給料がいいからとか、そんな単純な理由ではない。むしろ、給
料などいらないくらいだ。
「ねえ、聞いてるの? センセー。ほら、バラって書けるんだよー」
 確かに、紙には見事な『薔薇』の字が小踊りしている。女の子文字で。
 こういうとき、俺は彼女の頭をなでてあげることにしている。よしよし。
「あー、馬鹿にしてる。じゃあセンセー問題出してみてよっ」
「うーん、仕方ないな。じゃあ、レモン」
「えー無理。もっと簡単なやつ」
 おいおい、そんなあっさりと音を上げるな。つっても、出題者である俺にもレモンの漢字は書けねー。
「じゃあ、アイマイ」
 すると、桃香はスラスラと文字を書き始めた。ハートマーク付きの『愛昧』。惜しい。
「ブブー。こうでした」
 俺が、ハートマークの上からニチヘンを書き加えて『曖昧』の文字が完成した。
「えー、合ってるじゃん。このハートはそういう意味なんだよ」
 嘘つけ。
「あー、馬鹿なことやってると時間がもったいない。今日やるのは数学じゃん。センター試験まであと少しだ
し。八割取ると息巻いてたのはどこの誰だ?」
「私でーす」
「じゃあ、この前出した課題見せて」

681 名前:未だ愛されない日々 2/5 ◆D8MoDpzBRE :2006/09/03(日) 12:52:09.31 ID:4wTG3vdR0
 桃香は、ひとたび勉強に集中すれば真面目な生徒になる。学校から出される課題のほか、俺が出す課題
もしっかりこなす。性格も素直で明るいので、教え甲斐がある。
 ガリガリと響くシャーペンの音。桃香が問題を解くときの姿は真剣そのものだ。そんな華奢な腕で、センター
試験のマーク、最後まで持つのかな……。桃香を見ていると、ついつい余計な心配をしてしまう。
「できたっ! センセー、お昼食べに行こ」

 桃香に告白されたのは半年くらい前。家庭教師をやってると、こういうことは決して珍しくない。だが、そうす
んなりと役得とはいかないのがこの世界だ。
「いや、桃香ちゃん。家庭教師は、生徒と付き合ったらクビになっちゃうんだ。ご両親にも迷惑かけちゃうしね」
 いかにも押しの弱い断り方だった。桃香の方も、そう簡単には諦めなかった。
「じゃあ、受験が終わったら付き合ってくれますか?」
 これも常套句だ。モラルの面からは、受験が終わったとたんに教え子と付き合う、なんてのはあまり褒めら
れたものではない。だが、俺はそれを断れなかった。
「黙ってるってことは、いいってことですよね?」
 こうして、俺と桃香の曖昧な関係が始まった。

 俺が桃香を教えているのは、ほぼ毎週日曜日の午前から夕方くらいまで。あと、祝日や長期の休みのとき
なんかも頼まれることがある。
 いつもなら、桃香のお母さんが俺たちの分の昼食を用意してくれるのだが、その日はあいにく不在だった。
年頃の娘と俺のような若い男を、二人きりで放置して平気なのだろうか。まあ、それだけ俺が信頼されてるん
だな。
 実は、いっそ内緒で付き合ってしまえばいいと、何回考えたか分からない。だが、結局それはできなかった。
秘密の交際がバレたとき、俺は桃香のご両親の信頼を失って家庭教師をクビになるかも知れない。
 じゃあ、桃香が合格したら付き合ってもいいのか。それもダメと言うなら、俺たちは永遠に結ばれない運命だ
ったということになってしまう。
 最終的に俺は、当初の義理を果たしたら、桃香のご両親に交際することを申し出ようと考えていた。ここで
の義理とは、桃香を志望大へ合格させることだ。

682 名前:未だ愛されない日々 3/5 ◆D8MoDpzBRE :2006/09/03(日) 12:52:56.32 ID:4wTG3vdR0
 クリスマスシーズンを目前に控えた表通りは少し肌寒い。冬になると、陽射しがあたることがやけにありがた
かった。歩行者たちも、日なた側の歩道を選んで歩いていた。
 俺たちが昼食に選んだのは、近所のイタリアンレストランだ。
 こうしてテーブル越しに向かい合わせに座っていると、俺たちは普通のカップルのように見えても不思議は
ない。事実、桃香はこのシチュエーションに少し浮かれているようだ。
「ねえ、センセー。私のこと好き?」
 いきなり何てこと聞いて来るんだ。
「好きだよ、生徒としてね」
「私のこと愛してる?」
「うん、生徒としてね」
「じゃあ、愛してるって言ってみて」
 ぶはっ。鼻からパスタを吹くところだった。調子に乗りやがって、そんなことが言えるか。いや、そう言いたい
のも山々なんだ。
 俺がしばらくむせ込んで押し黙っていると、ふと、桃香の顔が曇ったように見えた。
「はぁー、未だ愛されない日々か」
 桃香がため息混じりにつぶやく。ようやく呼吸を落ち着けた俺が聞き返した。
「何それ?」
「さっき『曖昧』って漢字を見て思ったの。分かる? 漢字をバラバラにしたらそう読めるじゃん」
 頭の中で曖昧という漢字を思い描いてみる。確かにその通りだ。
 目の前で軽く落ちこんでいる桃香に、ゴメンと心の中でつぶやいた。

683 名前:未だ愛されない日々 4/5 ◆D8MoDpzBRE :2006/09/03(日) 12:53:31.48 ID:4wTG3vdR0
 午後の授業は比較的スムースに進行した。桃香も、見た目には明るさを取り戻したようだ。
 桃香が志望している大学は、現在俺が通ってる大学だ。最初は、合格するにはちょっと足りないと思ってい
た。だが、ここ数ヶ月というもの、桃香の成績はグングン伸びてきている。最近の模試でA判定が出て、二人
で盛り上がったな。
 思わず、愛の力を信じたくなる。
「センセー、終わったよっ」
 桃香がシャーペンを放り投げ、だらしなく背もたれに寄りかかった。
「じゃあ、ちょっと休憩したら答え合わせと解説ね」
「うん」
 桃香の部屋は、ピンク系統の色で綺麗に統一されていた。本人の名が示すとおり、桃色が好きなのだ。暖
房が心地よく効いた部屋を、緩んだ空気が支配していた。
 春を迎える頃、俺たちはめでたく恋人同士になれるのだろうか。

684 名前:未だ愛されない日々 5/5 ◆D8MoDpzBRE :2006/09/03(日) 12:54:11.47 ID:4wTG3vdR0
「ねえ、センセー。ナゾナゾです」
 桃香の言葉が、考え事の世界から俺を現実に引き戻す。
「どうぞ」
「じゃあ、行くね。『曖昧』って漢字から邪魔モノが消えたらどうなるでしょう?」
――邪魔モノ?
「『愛』って漢字が残る、かな?」
「そんなにいっぱい消しちゃダメだよ。ヒントね。その邪魔モノは、愛を阻んでいる壁のような、二本の縦の棒
です」
 俺は、手ごろな紙に書きながら考えることにした。ます『曖』から二本の縦棒を取り除いてみる。すると、三本
の横棒と『愛』が残る。三・愛・昧。
「ブー、時間切れです」
「ちょっと待って、もうすぐできるから」
「答えは、『恋愛三昧』です」
 ああ、もう少しだったのに。
 あれ、恋愛三昧? どう『曖昧』の漢字をいじっても『愛三昧』にしかならないはず。
「おい、恋って言う字はどこから出てきたんだ?」
「それは、私とセンセーの間に漂ってるじゃん」
「うわー、なんか無理やりだな」
 俺は大げさにのけぞってみせる。そんな俺を見下ろすようにして、桃香の顔が勝ち誇ったような満面の笑み
に包まれた。
「今、認めたでしょ。私たちの間に恋が芽生えてるって」
「ちょっと待て、俺をハメたな」
「いいじゃん、認めたんだよー」
 初歩的な誘導尋問だ。しかも、きちんとした形で認めたわけじゃない。
 それでも、こんなことで精一杯喜んでくれる桃香を裏切るわけにはいかないな、と思う。俺の仕事もあと一息だ。
「合格したら恋愛三昧だ。さ、答え合わせするよ」
 桃香が力強くうなずく。
 ピンク色の部屋には、一足早い桜の予感がただよっていた。
  <了>



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