【 ちょこっと愛 】
◆8vvmZ1F6dQ




521 名前: ◆8vvmZ1F6dQ :2006/09/02(土) 22:43:20.34 ID:L4auyvYz0
恋がしたい。そして楽しいデートがしたい。ゆくゆくは豪華な結婚式を挙げたい。
愛が、愛がほしい。
真夜中に寝苦しさから目覚めた私は、ふと強くそう思った。

夢を見たのだ。夢の中で私は、一匹のハエになっていた。
自由に飛び回り、ハエといえども開放感に包まれていた。
そこで私は、もっと高く飛ぼうとした。体を傾け羽を強く動かした。
しかし、頭に何かがコツコツとあたり、上昇することが出来ない。
数度頭を打ち付けたところで、頭の上にあるのが天井だということに気がついた。
私がいたのは室内だったのだ。そこで下を見ると、ベッドがあった。
ベッドには、人間が横たわっていた。一人だけだ。
暗い室内に一人のそいつは、抱き枕を抱き、寝言を呟いていた。
「ああん、ダーリン、ご飯粒がほっぺについてるわ……」
寝言からして、恋人とのひと時を夢見ているのだろう。
見ればそいつは、婚期を過ぎたぐらいの歳に見えた。抱き枕を握る左手に、指輪はない。
孤独な中年が、結婚生活の夢を見ている。なんとも滑稽で、私は嘲笑うかのようにそいつの頭上でぶんぶんと飛び回った。
そうだ、顔をしっかりと見てやろう、と私は意気地の悪さから思いついた。しかし、そんなことは思いつかなければよかったのだ。
そいつの顔を見たところで、開放的な夢は悪夢へと変わった。そいつは──私自身だったのだ。
羽を動かす気力の失せたハエが、くるくると床に向かって落ちていく。ああ、そうだ、私は未婚の寂しい中年だった。
失意のうちに、私は目覚めた。

522 名前: ◆8vvmZ1F6dQ :2006/09/02(土) 22:44:08.18 ID:L4auyvYz0

強く抱きしめていた抱き枕を、思わず投げ出す。手汗を掻いていた。
手だけじゃない、全身が汗でびっちょりだった。喉もカラカラである。
水を飲んで、落ち着こう。私はキッチンに向かおうと枕元のライトをつけ、ベッドから立ち上がった。
その時、足元に落ちているハエの死体に気がついた。私は苦々しく思いながら、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てる。
きっと、コイツのせいで変な夢を見たのだ。
キッチンで水を飲んだ後、洗面所で顔を洗った。
水を飲むと大分落ち着いたが、洗面所で自分の顔を見ると、ふたたび変な汗を掻いた。それは紛れもなく夢に出てきた顔だったのだ。
私は頭の中がぐるぐると回るような、不快感に襲われた。飲んだ水も吐き出してしまいそうだ。よろよろと洗面台に手を付く。
『愛、愛が欲しい』
心の中でなんども呟く。一人身は嫌だ。孤独はいやだ。だれか愛をちょうだい。
ふとその時、ハッとある男のことを思い出した。私はいわゆる水商売をしているのだが、よく私を指名する男がいるのだ。
名前は高志。あの男は、尋常じゃないほど私に入れ込んでいる。そうだ、ちょっと迫れば、そういう仲に簡単になれる男だ。
思い出した途端、妙に高志が愛しくなった。ああ、マイダーリン、会いたいわ。私は不快感も忘れ、晴れやかな気分に浸った。
ベッドに戻り、抱き枕を高志と思って抱きしめた。これでいい夢が見れそうだ。
──だがしかし。むしろ逆に興奮して、眠れなくなってしまった。私は再びベッドから起き上がり、考え事をして夜を過ごすことにした。
高志との将来設計も考えつくした頃、ふと部屋の本棚に置いてある辞書が目に入った。
そうだ、辞書で“愛”という字を引いて、そこに高志の名前を足しておこう。何年か前、アイドルの歌でそんな歌詞があった。
ずっしりとした辞書を手に取る。何年も開いてなかったそれは埃にまみれていた。何ページもめくらない内に、“愛”を発見する。
愛とは──かわいがり大切におもう心。愛情。異性を恋しく思う気持ち。
まさに私の心にしっくりと来た。嬉々として鉛筆を取り出し、高志の名を刻む。そうだ、私の名前も書こう。
水商売の私には“みるく”という源氏名がある。高志も、私のことをそちらで呼ぶ。しかし、親から貰った名前は大切にしなければ。
私が真剣だという証拠も兼ねて、“高志”の横に“哲夫”が刻まれた。二つの名前は“愛”を挟んでいた……

〜fin〜



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