【 病的な人たちと一匹の猫 】
◆8vvmZ1F6dQ




350 名前:1/3 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/27(日) 23:44:23.79 ID:vn1qnulO0
忠志は、その白衣を身に纏った人間たちを、病んでいると思った。
部屋の中央で試験管をじっと見つめる女。本棚からしきりに本を引き抜いては戻している男。
歩き回りながら、手に乗せた何かを嗅いでいる──髪が長いが女性的な顔ではない、性別の判断が付かない──奴。
白衣を着ているのは四人居て、それぞれが違う行動をしている。
そのはずなのに、皆の区別をつける事が、忠志には出来ない。
皆同様に、顔が青ざめ、歩く姿はまるで地に足が付いていなかった。
忠志は、軽蔑を含んだ眼差しを彼らに向けながら、早くこの場から立ち去りたいと思った。
その為には、手早く用件を済まさなければならない。
忠志は、改めて、自分の前に立っている白衣軍団のリーダーに向き直った。
「それでですね、僕は」
「あなたは猫を引き取りたいと、そう申すんですか」
リーダーが、異様に高い声で忠志を遮った。忠志はそれに、ええ、と応えた。
「そうです。調査の結果、あの猫はあまり良い飼育条件下に置かれていません」
あの猫──とは、この部屋、『研修室3』で飼われている猫のことだ。
忠志の立っている入り口からでは見えないが、部屋の隅に置かれたガラスケースに入れられている。
何故忠志がそんな猫を引き取るのかといえば、それは忠志が動物愛好会だからに他ならない。
大学生が、ほんのごっこ遊び程度でやっている会だ。しかし、集っているのは大の動物好きばかり。
科学同好部で、猫が実験材料にされていると聞けば、放っておくわけにはいかなかったのだ。
「分かりました。是非引き取ってください」
忠志は、え、と小さな声をあげた。顔をあげ、リーダーの表情を確認する。
確かに、今の言葉を言ったのは、この男のようだ。無精ひげの生えたポーカーフェイスが、忠志を見据えている。
何か屁理屈を付けられるだろう、と身構えていた忠志は拍子抜けしてしまったのだ。
「あ、はい。すでに、こちらでは飼育準備が整っていますので、今すぐにでも」
「引き取りは明日にしてください。こちらでも準備があるので」
やっとの思いで搾り出した言葉も、すぐに遮られてしまった。
忠志が何かを言い返そうとするうちに、音を立てて扉が閉められる。バタン。
忠志は苦々しく思った。あっさりと申し出を認められ、動揺してしまった自分を反省した。
とにかく、猫を引き取るのは認められたのだ。
忠志はとりあえず肩の力を抜いて、仲間たち──動物愛好会の所へ向かったのだった。

351 名前:2/3 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/27(日) 23:45:12.39 ID:vn1qnulO0

その猫は他の猫に会ったことがなかった。だから、自分が猫ということを知らない。
会った事があるのは、いつもガラス越しに猫の前を行き来する人間だけ。
しかし彼らは食べ物を与えてくれるし、遊び相手になってくれた。猫は彼らが好きだった。
自分は彼らと同じように、立つことも喋ることもできない。しかし、きっと自分は彼らの仲間だ。いつか彼らと同じ体になれる。
猫はそう信じていた。猫は皆の名前も、性格も知っていた。
優しい性格の秋子は、猫に餌を与えてくれた。科学本オタクの健太は、一番猫に構ってやっていた。
実は一番年下の義之は、猫に新しいおもちゃを作ったし、リーダーの浩二は、猫に元気が出る注射をしてくれた。
その注射というのが、実は毎回中身が違う。しかし、色の判別が付かない猫は知ったことではない。
猫が毛づくろいをしていると、今日も浩二が注射器を片手に近づいてきた。
光る針先に怯えないこともないが、刺す瞬間に痛い以外、注射器で嫌な思いをしたことはない。
猫は黙って、浩二が注射を刺すのを待っていた。しばらくして、猫の身体が宙に浮く。腕にチクリと痛みが走る。
「今回のは、特製だ。もう、お前への注射はこれで最後だ」
注射器を抜き取ると、浩二が猫に囁いた。完璧ではないが、猫は多少人間の言葉を理解することが出来る。
今浩二が言ったことも、注射がこれで最後、という部分だけなんとなく理解した。急に猫は心細くなる。
それがこの仲間たちとの、別れを意味しているのではないか、と思ったからだ。猫は戻されたガラスケースの中で、丸くなった。

忠志は受け取った猫を見て、愕然とした。
身体は痩せ細り、目に生気がない。一歩外に連れ出すと、あたりをきょろきょろとして落ち着きがなくなった。
見たところ、猫は大体一歳半ほど。とうに成長を終えたころだ。
「可哀想に、自然を見たことがないんだな。研修室での生活は辛かっただろう」
言いながら耳の裏を撫でる。普通の猫のような、気持ち良さそうな反応は一切無かった。
これからは、普通の猫として育ててやろう。もう二度と、科学会の奴らには会わせないぞ。
忠志は心にそう決めた。暖かい太陽の光が、猫と忠志の歩く道に差していた。


352 名前:3/4 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/27(日) 23:46:04.27 ID:vn1qnulO0

猫はうんざりした。
見ず知らずの男に部屋から連れ出されたと思ったら、これまた見ず知らずの男女数名のもとに連れて行かれた。
そして抱き上げられ、背中を撫でられ、頭を撫でられ。猫はうっとうしい複数の手に向かい、威嚇をした。
しかし、手は倍の数になって襲い掛かってきた。あの部屋にいたころは、経験したこともない数だ。
その数に、猫は病的な何かを感じた。病んでいる。この人間たちは、病んでいる。
それからは、覚えていない。気付けば夜になっていた。猫がいるのは、知らない部屋。
なんとなく、我が家ともいえるあの部屋から、かなり離れているというのだけ分かった。
電気はついていないが、月明かりが差している。猫には充分な明るさだ。
右を向く。猫の餌の袋や、缶がいくつも並べられていた。
こちらは猫にはどうしようもない。左を向いた。ソファの上に、だらしなく人間が寝ていた。昼間、猫を連れ出した男だ。
猫は、浩二が義之にしていたように、男を右手で殴ろうと思った。男に近づく。
しかし、ソファに足を掛けたところで、急に気持ちが悪くなった。猫は腹の底から湧き上がる不快感に、丸くなる。
味わったことのない感覚だ。体中が脈打ち、吐き気がした。この男の仕業なのか、と猫は疑った。
何かの病気なのか、これは。猫はごろごろとその場でのたうちまわった。自分の体が、上から下から引っ張られているようだった。
男を殴ろうと思った右手を見る。猫は驚いた。今まで丸かった手が、秋子や、健太のように、長くなっているのだ。
不快感を押し込めて、猫は立ち上がる。立ち上がったとき、猫はまた気付いた。二本足で立っていたのだ。
まだ体が引っ張られ続けていた。明らかに、猫の視界は高くなっていった。
そして猫は、右手で男の頭を、殴った。

353 名前:4/4 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/27(日) 23:46:42.83 ID:vn1qnulO0

ある新聞の記事を見ながら、白衣を来た男は笑っていた。
クックッ、と笑い声を上げるたび、不精ひげの生えた顎が震える。
男の見ている記事の見出しは、こうだ。
『大学生惨殺。目撃証言に“怪人猫男”』
大学生が、頭部を砕かれ死亡していた。まだ犯人は捕まっておらず、
事件の晩の目撃証言は多数あるが、どれも“巨大な猫”という常識から逸したものであるそうだ。
そしてその被害者の大学生が、男と同じ大学の生徒なのだ。
今、学校中が、このニュースの話題で持ちきりだった。
「俺の実験は、大成功ってわけだ。動物を人間化する。なんて素晴らしい発明だ」
最初はつぶやきのようだった、男の独り言。しかし彼の感情の高ぶりに合わせて声は大きくなり、
語尾はほとんど叫び声だった。そんな彼を見た人は、一様に、“病的だな”と思った。

おわり



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