【 決意 】
◆aDTWOZfD3M




344 名前:決意1 ◆aDTWOZfD3M :2006/08/27(日) 23:40:27.89 ID:IltGyyPh0
 愚痴をこぼすときは母国語で、それがここでの最低限のルールだ。だから、彼らが日本語
で会話をしている時は例外無く暗い話である。
 「おい、死んだらしい」昭夫が言った。
 「誰が?」和人が応じた。
 二人はある医療救援系NGOの日本人メンバーだ。同系のNGOで有名なのは「国境無き
医師団」だが、彼らが所属するのはそれほど有名なわけでもない中堅組織だ。今彼らが派遣
されているのは中央アフリカの難民キャンプである。現在内戦状態にある隣国から大量の難
民が流れ込んで、国境沿いのこの地域に集まっている。
 「昨日の昼頃来たあの子」
 「ああ、あの子か……。助かると思ったのにな」
 彼らが言っているあの子とは、昨日この難民キャンプに来た赤ん坊のことだ。脱水症状と
栄養失調で、到着後すぐに今彼らのいる医療テントに運び込まれた。他の子に比べてそれほ
ど酷い状態だというわけではなかったのだが……。
 「あと十キロ先にキャンプを張れればな……。そうすれば、今の倍以上の人間を助けら
れるのによ」昭夫が患者の静脈を探りながら言う。
 彼がそう言うのにはわけがある。このキャンプから十キロ行くと国境線の河があるのだ。
難民の多くはその河を渡ってくるのだが、その際必ずと言っていいほど河の水を飲んでしま
う、そしてその水は大腸菌や寄生虫の温床なのだ。疲労と栄養失調で抵抗力の落ちている彼
らは、それが原因で下痢や腹痛をおこしそのまま死に至る例も多い。
 「国境を越えることはできない。何度も言っただろう? それこそ俺らの方が危険だ」と
和人がけが人を診ながら応えた。
 そう、彼らは国境を越えられないのだ。国境警備隊の許可が下りないし、たとえ入ったと
してもそこはゲリラや軍閥が群雄割拠し、盗賊団が横行するキリングフィールドだ。平和に
慣れきった先進国の人間が、生き延びられるとも思えない。

345 名前:決意2 ◆aDTWOZfD3M :2006/08/27(日) 23:41:11.69 ID:IltGyyPh0
 「それぐらいわかってるよ。だけど何か急に虚しくなってな……。俺らがやってる事は焼
け石に水って感じだし、ここで助かっても一年後も患者が生き残ってるかどうかもわからな
い状況で、結局根本的な解決が無い限りどうしようもないのかなって思ったりしてよ」
 「………」
 和人はしばらく考え込むようにしてから、口を開いた。
 「俺らはさ、一度患者を見捨てたクチだろ?」
 「えっ……、そんなことした覚えは無いぞ?」
 「いや、ほら、俺らはさ、日本医療界を見限ってここに来ただろ。そのことだ」
 「ああ」昭夫も納得したようにうなずく。
 彼らは二人とも大学病院の教授の息子だ。本来なら国家試験を受かった時点で親のコネを
使って、そこそこ良い部署に配属するはずだった。だが、彼らはそうはせずにNGOに参加
した。人の命を救うという本分を忘れて、因習と権力争いに満ち、硬直した日本の医療界は
彼らのような若者の望む物ではなかった。
 「でも、あれは患者って言えるか?俺よりよっぽど血色が良いデブだったぜ?」
 「患者だよ、精神面の。 俺のオヤジも、おまえのおやじさんもさ。」
 「俺らは何かいきがってオヤジ達から離れてこんな所まで来ちゃったけどさ、それって今
思うと、ただ逃げてただけだったんだ」
 「何から?」昭夫が問う。
 「オヤジを改心させるって義務からだよ」
 昭夫の父親は、製薬会社からリベートを受け取っていた。和人の父親は、治る見込みのな
い患者に不必要な手術を施しては治療費を水増ししていた。二人はそれを知っていた。知っ
ていたが、何もしなかった。
 「だからさ」和人は重ねて言う。
 「今目の前に居る患者を見捨てちゃいけないと思う。ここに来るまでの動機はただの逃避
だったのかもしれないけど、でもここに居るか限り俺らは医者で、目の前には患者が居る。
そうだろ?」

346 名前:決意3 ◆aDTWOZfD3M :2006/08/27(日) 23:41:56.12 ID:IltGyyPh0
 そして一息ついて、
 「だから、俺は逃げない。たとえ全てが虚しいことだとしても、患者の最期を看取るまで
俺はここに居続ける」
 「そうか……」昭夫が呟いた。
 「そうだな……。また逃げてちゃ、格好が付かないよな。俺もここに居続けるよ、結末が
どうなるにせよ、全てが終わるまで」
 「………」
 二人はしばらく顔を見合わせて、そして照れながら言った。
 「何か、クサイこと言ってるな〜、俺ら」
 「結構イタイな」 
 そして二人は唐突に笑い始めた。患者達は、何が起こったのかと怪訝な顔をしている。だ
が、そのうちつられて一緒に笑い始める。
 久方ぶりに、この地に笑い声が響き渡った。
                          〈終わり〉



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