【 一睡の夢 】
◆Awb6SrK3w6




745 名前:一睡の夢1/5 ◆Awb6SrK3w6 :2006/08/20(日) 23:46:21.14 ID:OvoEABNv0
いつの時代も、どこの国でも、四季さえあれば、季節に対する感覚という物は変わらないものである。
春の陽光や冬の北風に対する人々の感情も、おそらくは似通った物ばかりであろう。
ここ、清代の中国でも、それは同じ事なのだ。
時はまもなく仲秋。
夏の酷暑が終わり、爽やかな秋風が人々の列の間を駆け抜けてゆく。
往来の人々の湛える表情は、市を彩る新鮮な収穫物を見ての喜色であった。
ところが、そんな実りを讃える人々の中、一人冬の寒さに耐えるが如き表情を浮かべている男が居る。
男は己の背よりも高い荷物を負って、とぼとぼと押し潰されそうになりながら歩いていた。
彼の姓は安。名を晃之という。

安が強ばった顔をしているのには理由があった。
生まれてからこの方、勉強以外何もしなかった彼は、とうとう四書五経の粋を極め、
この秋初めて、郷試を受けるのである。
郷里の親戚一同の期待をその痩身一つに引き受けた彼は、緊張で秋を楽しむ余裕など、
無きに等しいというわけだったのだ。
科挙というのはご存じの通り、中国の官吏登用試験である。
合格率はその予備試験である科試でさえおよそ1%。
史上、最も厳しい受験戦争と呼んで、何ら差し支えないその試験に、
安は今から挑むのであった。
安にはもちろん夢がある。
いつの日か、官として政界に羽ばたき、故郷に錦を飾る。
官吏志望者としてはごくごく平凡なその夢を、安は物心ついてからこの方ずっと抱いてきた。
今の人が見れば詰まらないと思うかも知れない。
国政に対する大志も抱くことなく、ただ己の立身出世のみに気を取られているのかとも思うだろう。
だが、この当時、科挙を受ける目的とはまさしくこれだけなのである。
一族を繁栄に導く、ハイリスクハイリターンな手段が、科挙であったのだ。
「……」
安は一言も話さず歩き続ける。華やかな殷賑に目もくれることなく。
とうとう省の首府まで辿り着いて、安は貢院(試験場)の門をくぐった。

746 名前:一睡の夢2/5 ◆Awb6SrK3w6 :2006/08/20(日) 23:46:58.27 ID:OvoEABNv0
貢院は人の海だった。
地方の秀才は皆、この日一同に貢院に会する。
貢院の中を歩く者たちは、年齢や体躯もバラバラである。
だが、一つだけ共通点があって、どれもこれも目つきだけは鋭く、
切れ者という印象を受ける者たちばかりなのであった。
安は山海の如き天才の渦に飲まれ、ただ圧倒されるばかりである。
「……俺は本当に受かるんだろうか」
未来への不安が、彼の口から突いて出る。
途方に暮れ、道の真ん中で彼は茫として突っ立っていた。
するとである。
「うわっ!」
次の瞬間、安は道に倒れ込む。
何者かの肩が当たったのであろうか。そう思って彼は立ち上がろうと空を見上げ。
「何をボサッとしている」
そこには一人の老人が立っていた。
頬を額を、顔中が皺で覆われ、もはや弁髪する髪も残っていない老翁である。
そのような彼が、痩せているとはいえ、まだ若き力に溢れる安の体を転ばせたという事実に、
安は少々驚いた。
「その様な事で、よくもまあ、科試に受かったもんだ」
嗄れ声を響かせて、老人は苛烈な一言を見舞ってくる。
「も、申しわけありません」
安はただ頭を下げる。
儒が行き届いていた時代、年長の者に対する尊敬は当たり前のことだった。
「フン、見ない顔だ。どうせ今年が初めてなのだろう。
自分の名が発表に無いからと、ピーピー泣くのが関の山だな」
老人は安の弁解を聞く耳など持たず、ただ罵詈雑言を並べて去っていく。
急な嵐の如く訪れて去っていった老翁の後ろ姿を、ただ安は呆けて眺めていた。

747 名前:一睡の夢3/5 ◆Awb6SrK3w6 :2006/08/20(日) 23:47:38.74 ID:OvoEABNv0
試験は受験者一人一人に独房が与えられ、そこで執り行われる。
朝、配られた問題を丸一日かけて解くという作業を三日間繰り返し、
ようやく試験は終わりを告げる。
試験が終わるまでの三日間は、どんな事があろうと独房から出ることは叶わない。
無論、このような閉鎖された環境では身体を悪くする者も、時には発狂する者さえ出た。
安もまた、他の受験者と同じように独房に隠り、一人問題と孤独に向き合うのである。
既に夕刻となっていた。
独房に入り、明日から始まる試験に備えて、一通り支度を終え、
安は次第に目蓋が重いと感じるようになってきた。
睡魔と疲労にとって、今日この日まで故郷から歩き通しだった彼を堕とすのは、
いとも容易いことであった。 


残念ながら、安は不合格だった。
だが、彼はそこまで絶望していなかった。むしろこの様な物かという手応えを掴んだ、
自信が彼を包んでいたのである。
落選は珍しいことではない。二十代の彼にはまだ科挙に受かる希望が満ちあふれている。
というのも、科挙に受かる平均年齢は三十六歳なのである。
二十代で郷試に合格すれば、上出来どころではない。
それこそ噂となり、広く名は知られ、科挙に受からずともこの時点で有名人となるのである。
無論、安はそこまで秀才ではない。
「まあ、良いさ。また三年後がある」
決して負け惜しみでない、己を慰める言葉を呟いて、安は省都を後にした。

748 名前:一睡の夢4/5 ◆Awb6SrK3w6 :2006/08/20(日) 23:48:09.17 ID:OvoEABNv0
だが、である。
三年後も、その次の三年後も、その次の次の三年後も。
安は郷試を合格することができなかった。
いつしか時は過ぎ去って、髪には白い物が目立ち始め、瑞々しかった手は皺が目立ち始めてくる。
四十路を越え、合格に対する確信を抱いた時ですら、安晃之という名前は合格者の中には無かった。
春秋は絶えず過ぎてゆく。
十度目の受験を終えても、十一度目の受験を終えても。
安を覆うのは、郷試不合格という、何とも暗い現実だった。
そして十六度目の試験の時、とうとう安は白髪さえ残らぬ禿頭を抱え、
水気の失われた指で筆を握る身となっていたのである。 

貢院はいつもの如く人で溢れていた。
何度も見慣れた景色を安は一人歩んでゆく。
この光景だけは変わらない。そう思って安は少し感傷に浸る。
栄達を夢みて行き交う人々の列は同じなのに、どうして自分の身だけ衰えてゆくのだろう。
若き日は何とか持ち上げられていた荷物の山も、腰の曲がった老翁には、引きずる事さえ難しい。
その事を思うと、涙がまなじりより滴り落ちて来そうだった。
号泣したくなる感情をなんとか堪え、安は己の独房へと歩いていく。
既に時は夕刻となっていた。落日は美しく安の網膜に焼き付いてくる。
いつしか安は往来の真ん中で一人立ち尽くして沈む日を見ていた。
「わしは、本当に受かるのだろうか」
余りにも少なくなってしまった未来を思い、安は呟く。
「受かったとしても、この老人には一体何の意味があろう…」
絶望に近い感情が、心中で蠢く。
そんな時。
何者かに突き飛ばされ、安は一人倒れ込んでいた。
「む……ぐぅ」
呻き声を上げながら、安は自分を倒した者を見ようとして。

749 名前:一睡の夢5/5 ◆Awb6SrK3w6 :2006/08/20(日) 23:48:42.55 ID:OvoEABNv0
「!」
驚愕する。
そこに居たのは若き日の自分にうり二つの若者であった。
彼は「何故、この様な老人が?」と言葉に発することこそしなかったが、
そのような意を込めた目つきで、老いた安を見つめていた。
瞬間、自分の生が、夢が、何もかも全て否定されたような気がして、
溜まらなくなり、安は全身を震わせてその嗄れ声で叫んでいた。
「……そのような目で、そのような目で! 俺を見るな!」 

思わず、飛び起きていた。
「……夢?」
彼を見ているのは、若き日の安の顔――つまり現在の安の顔である――ではなく、
冷たい独房の石の壁である。
心は高鳴り、なかなか静まりそうにない。
夢の中で見た落日は未だに、網膜を焼き付かせて離れないように思えていた。
そして何よりも、夢の自分が投げかけた視線が今もなお、安の体を震えさせていたのである。
余りにも現実感のある夢に、安は独りでに呟いていた。
「……どうせ夢みるならば、もう少し縁起の良い夢を見れば良いのに」
自虐的な笑いを浮かべ、安は独房より見える夜空を見た。
美しい秋の月が、煌々と光を放っている。
それは最後の輝きを放つ落日の様な光ではなく、柔らかく生命を賛美する光だった。
月光が安を恐怖から解き放っていく。
今日から、郷試
が始まるのだ。もう少し寝ていた方が良い。
冷静になった安はそう思い、再び浅い眠りについた。



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