【 夢の彼岸 】
◆D8MoDpzBRE




489 名前:夢の彼岸1/3  ◆D8MoDpzBRE :2006/08/20(日) 01:25:27.97 ID:ot0NSmhp0
 いつの間にか、夢の潮流は俺をいつものスタート地点に押し戻してしまう。
 深い渓谷、悲しみの責め苦。これらの幻影にとりつかれ、果てしなく長い一日を乗りこえた俺が眠りにつくこ
ろ、どこからともなくわいてきた夢が俺の体を包みこむ。次第に色あざやかな世界が目の前に広がり、幸せだ
ったころの記憶で心地よく満たされていく。
――乗ってしまったんだ。
 小さな小舟に身を横たえながら、俺は夢の中で現実感を取り戻していた。
 俺の目の前には咲希がいる。いつの間にか上体を起こしていた俺は、咲希と互いに向かい合わせになって
小舟をこいでいる。上野公園不忍池は春満開の桜に囲まれていた。
 かすかにそよぐ風が惜しげもなく桜吹雪の火柱をかきたて、不忍池の水面をピンク色の花びらで敷き詰め
ていく。そして、花びらが舞い散る空間の中心で二人の想い出がよみがえる。俺たちが不忍池でボートをこい
だのは、たしか冬だったはずだ。
――春が来たんだね。
 俺が咲希を見つめると、彼女はほほえんでうなずいた。
 水面を細かく振動させるベルの音。波紋が桜の花びらを揺らしながら水平線まで果てしなく広がっていく。次
第にベルはけたたましく鳴りだし、水面が大きな津波のうねりとなったところで目がさめた。
 放り出された先は、砂漠のような現実。途中で死んだ主人公はそのステージを最初からやり直さなくてはなら
ない。はて、何の話だっけ? すでに無意識のうちに目覚まし時計は息の根を止められ、無造作に投げ捨てら
れている。俺は一度寝返りを打つと目の前の黄ばんだ枕に顔を突っ伏した。暗闇の中、夢の断片が蜘蛛の子
を散らすように霧散した。
 
 咲希と別れてもう二週間になる。破局の予感めいたものはあった。以前なら、何時間かけていても苦になら
なかった電話での会話が続かない。俺に抱かれていても、咲希の表情はどこかうわの空だった。だが、実際
に別れの言葉を直接耳にするまでは、俺は自分の心に芽生えていた一抹の不安を杞憂だと切り捨てていた。
「もう和ちゃんといても楽しくない」
 悪い予感をふり払えないまま向かった待ち合わせ場所で、その言葉を聞いた。力なくうなだれた俺の仕草は
合意の首肯ととらえられたのだろう。俺の手のひらに、昔俺からプレゼントされたペアリングを無理やり握らせ
ると、咲希はさっさと踵を返して行ってしまった。その指輪はもう、長い間はめられていなかった。

490 名前:夢の彼岸2/3  ◆D8MoDpzBRE :2006/08/20(日) 01:26:20.82 ID:ot0NSmhp0
 会社の同期だけで企画された納涼会の発案者は、すでに所帯持ちでもある福田敏雄だった。こいつとは大
学からの付き合いで、職場でも最も気心が知れている。そして彼こそが、咲希と俺を引き合わせてくれた張本
人でもあった。ゆえにこの企画自体、俺の慰めパーティーも兼ねていた。
「それでは、わが社の今後より一層の飛躍と発展を祈って、乾杯!!」
 居酒屋の喧騒。現実世界で泥まみれになった心を洗い流せるのは、キンキンに冷えたビールのアルコール
だけだ。これがあるから生きていける。生ビールの生は、生命の生だ。俺はそのことを、全人類に伝えたい。
 まずは手始めに、小洒落たカクテルばかり飲んでるそこの女。俺の怪しい視線をモロに受け、同僚の三浦
好美が引きつった愛想笑いを浮かべている。ああ、こいつは来年寿退社の予定だったな。見逃してやるか。
「さて、宴もたけなわ、恋は泥縄となって参りました。これより我が社期待のホープ、田中和政君からみなさま
に、ごあいさつを賜りたいと思います。心して聞くように」
 もはやろれつが回っていない福田からの突然の前フリだ。ええい、ままよ。どうせ明日はわが身、どうせ明
日なきわが身、あれ?
「全人類のみなさま、こんばんは。まずは三浦君、おめでとう。あなたは明日の日本の宝です。どうか、俺の分
まで幸せになってください。そしてお前らありがとう。お前らは我が社の誇りです」
 帰り道、俺は泣いていた。泣き上戸の福田も泣いていた。
「田中ぁ、次はもっといい女紹介してやるからな」
 福田が申し訳なさそうに、何度も何度も謝ってくる。いいんだよ、福田、ありがとう。お前が紹介してくれた女
は、間違いなく世界一の女だったよ。

491 名前:夢の彼岸3/3  ◆D8MoDpzBRE :2006/08/20(日) 01:27:11.41 ID:ot0NSmhp0
 六畳一間の部屋に主の姿が現れたのは、草木も眠る丑三つ時過ぎだった。部屋の万年床に倒れこんだ俺
の意識は、すでに睡眠の準備ができている。今日も夢の中に君は現れるのだろうか。
 俺の無意識の鼻先に、つつつと小舟が吸い寄せられてくる。お乗りなさいと、目には見えない夢の番人が手
招く。俺を乗せた小さな小舟がゆっくりと滑るように動き出した。夢の彼岸はまだ遠い。
 ふと気がつくと、暗闇の先にぼんやりと光が差している。始まりの場所のぼやけたイメージが視界の隅々に
まで広がり、やがて鮮明な情景を映し出す。
 大学のキャンパス、夏の昼下がり。俺の歩く先には、出逢った日のままの咲希が白いワンピース姿で待って
いた。

 <了>



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