【 ロード 】
◆tGCLvTU/yA




161 名前: ◆tGCLvTU/yA :2006/08/13(日) 23:48:34.57 ID:kqWfia7a0
九回裏、二死。走者こそ二塁にいるが、勝利はもはや目前といえた。ロージンに手をやると、白煙が空に一瞬舞って、一瞬で消えていく。
 三対二というのが今のスコア。これをあと一人打ち取るまで守りきれば、悲願のペナントレース優勝ということになる。
 だが、優勝への道はなかなかに厳しい。得点圏に走者を置いて迎えるバッターは、俺が今期最も相性が悪い打者だった。
「……」
 俺は無言で帽子を取って汗を拭う。この一年で、クローザーってのがいかに大変な仕事か思い知らされた。
 クローザーは、勝利する寸前以外に登板することは有り得ない。つまり、勝ちを確固たるものにするのがクローザーの役目だ。
 試合というリレーの、九回というコースをリードして走りきる辛さ。今年はプレッシャーと戦い続けた一年だった。
 それも今日で終わる。勝った方が優勝という形で。これほどわかりやすく、天国と地獄がはっきりしてる試合も滅多に無い。
 打者がようやく打席に立つと、早速キャッチャーからサインが来る。要求は、外角のスライダー。
 俺がサインにうなずくと、キャッチャーはゆっくりとミットを外に構える。一つ深呼吸をすると、スライダーを外いっぱいに投じた。
「ストライク!」
 ミットが小気味の良い音を立てて、ボールを吸い込むように収めると審判を右腕を上げて、高らかに宣言した。
 豪快な空振りに肝を冷やしながらも、少しだけ安堵を覚えた。この打者にいつも打たれていた球は初球だったのだ。
 キャッチャーから返ってくるボールをグラブで取ると、矢継ぎ早にサインが来た。
 内角低めのストレート。一度うなずくと、要求どおりにストレートを投じた。腕の振りも、リリースも完璧だった。
 ――だが、何故だろう。一年間のできごと、今まで歩んできた道が走馬灯のように浮かんだのは。
 打者が快音を放ったバットを放り投げる。本塁打を確信して歩き出した。俺には後ろを振り返ることができなかった。
 ――嘘だろ。目の前が真っ暗になりそうになったその瞬間、半数の観客の歓声はなぜかため息に変わった。

162 名前: ◆tGCLvTU/yA :2006/08/13(日) 23:49:36.02 ID:kqWfia7a0
「ファール!」
 それと同時に、もう半数のため息は歓声に変わった。そこで俺は、ようやく事態を理解した。
 さっきの打球はファールで、ホームランではなかった。それだけはわかった。
 ベンチの方に目を見やるとたまらずコーチが飛び出してくる。そして内野も続々とマウンドへと集まった。
「今の一球は気にするな」
 マウンドをならしながら、本当になんでもないようにコーチはそれだけを言った。内野のみんなもその言葉に頷く。
 俺一人が、その言葉に納得できない。
「最高のボールでした。振りもリリースも完璧。でも、スタンドまで持ってかれました。それでも気にするなと?」
 今の一打は、俺の今までの積み上げてきた自信を粉砕するには充分すぎた。もう、今すぐにでも逃げ出したい気分だった。
「ああ、そうだ」
 もう、言い返す気力もない。この人はいつもそうだった。どんなピンチにマウンドに来ても、気にするなの一点張り。
 今まではそれで不思議と抑えられてきた。コーチにはいつも助けられてきた。だが、今日は無理だ。
 抑えられる気がしない。どこに投げても、ホームランを打たれるイメージしかできないなんて、初めてのことだった。
 言葉が出てこない。手の震えが取れない。いっそマウンドを降りてしまおうかと本気で考えた。そう思って右手をコーチに見せた。
「手の震えが取れないんです」
 気まずい雰囲気が周りを包んだ。でも、体裁なんて気にしてられなかった。投げるのが怖いと思うのはこれが初めてだったから。
「信じろ」
 重すぎる沈黙を破ったのは、コーチだった。
「こっちは九人、相手は一人。負けるはずが無い。そして何より、お前がクローザーとしてやってきたこの一年間の道を信じるんだ」
 そう言うと、コーチは俺に背を向けてベンチへと歩き出した。俺はそれを条件反射のように呼び止めた。


163 名前: ◆tGCLvTU/yA :2006/08/13(日) 23:50:36.45 ID:kqWfia7a0
「コーチ!」
 ぴたりと、歩みが止まった。
「なんで俺を、クローザーにしたんですか」
 何でもいいから聞いておこうと思った。ただ言葉が何か聞きたかっただけだった。そして浮かんだ疑問は本当に今更なものだった。
 再び沈黙が場を支配する。観客の応援も、歓声も、今は何も聞こえない。待っているのは目の前の男の言葉だけ。
「俺は投手コーチだ。仕事は、お前ら投手の道標になって優勝へと導くこと。」
 コーチは振り向かなかった。
「お前をクローザーにしたのは、俺が道標という役割を果たすにはそれが最良だと思ったからだ俺の道とお前の道、その二つが間違って
 なかったことを証明するためにも、今期最高の仕事を見せろ。以上だ」
 それだけ言うと、コーチは今度こそベンチへと帰って行った。
 俺は右腕を見る。震えは取れた、投げられる。いや、投げるしかない。俺が、いや皆が優勝へ向かって一つの道を進んできた。
 俺一人が、それを今更投げ出すなんて出来なかった。もう迷いはない。みんなで勝つ。今の俺にはそれしかない。
 内野のみんなはそれぞれ俺に一声ずつかけると、自分の持ち場へと帰る。そして、試合は再開された。
 球場は、俺たちを応援する歓声と敵チームを応援する歓声で興奮のるつぼ。だが、それもあと一球で終わる。
 その一球に後悔のないよう、一年間歩んできた優勝への道の全てを込めよう。そう思った。
 キャッチャーがミットを構える。場所は、真ん中。要求は最高のストレート。モーションに入ると、歓声はボルテージを上げる。
 万感の思いを込めて、ゴールへの最後の一直線を走る。ミットにボールが収まると、歓声はついに最高潮になった。
 長い長い道。俺は、ようやく一つの道を走り終えた。そしてまた歩き出す、次の道へと向かって。でも今はこの余韻に浸ろう。



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