【 幸せの最低単価 】
◆q4bwLmW9fU




560 : ◆q4bwLmW9fU : 2006/03/32(土) 21:15:05.05 ID:M8UJ0s6j0
弟が、破産した。
元々、子供の頃から私の後をついて回るような、物静かで不器用な子だった。
母に五百円を貰って駄菓子屋に行けば、四十円のジュースひとつでニコニコ笑っていた馬鹿な子だ。彼が五百を二で割ったら四十より大きくなると気づくまで、私は美味しい思いをしたものである。
その子は大きくなるにつれて、体も逞しくなり、悪知恵もつき、大人になるとIT界で大きな成功を収めた。
知名度はまだ低いが、テレビでコマーシャルが流れる日も近い、と言う話だった。
それが無一文になってしまったのは、友達と思っていた人間に騙されたからだ。
会社の書類の大半を高校時代からの友人に任せていた彼は、いつの間にか、会社の全権を奪われていたのだ。
残ったのは、見栄で買った大きな家と派手な車の借金だけ。弟はそれらをなんとか処理したものの、生活もままならず、外も出られなくなり、私の家に逃げてきたのだった。
私の家族は、母が死んだ今では、弟だけだ。
小さい頃から母子家庭で育った私は、家事も育児も受け持っていた。だから部に入る事も出来ず、男の子と出会えるほど他人と交流する事もなく、ここまで来てしまった。
だから、弟には部にも行かせてあげよう、不便な思いはさせまいと必死に頑張ってきた、そのはずだった。
けれどもどうしてだろう。物置にしていた埃っぽい部屋に逃げ込み、一日をパソコンのディスプレイに向かって、死にたい、死にたいと呟いている『その男』を見ていると、愛情よりも、鬱陶しい、と言う思いがわいてしまうのだった。
幸せとはどうやれば手に入れられるのだろう、と、時たま思う。
ああやってひとつの会社を打ち立てた弟すら、幸せにはなれなかったのだ。
しあわせと言う四文字にかかる単価は、どれだけ高いのだろう。
オークションにかければ、どれだけの値がつくだろう。
そんな高い買い物、貧民の生まれの私達に、あの愚かな善人である母から生まれた私達姉弟には、手に入れれるはずがなかったのだ。
馬鹿らしいと自嘲して、何かネットオークションに出せるものはないかと、三年前に亡くなった母の遺品を、調べる事にした。
母の遺品をオークションに出し始めて、二年になる。
最初は処分するのをためらわれた母の遺品も、一年もたつと、押入れのスペースをとる『物』でしかなくなっていた。
対した値ではないが、使いようのないものを処分して、お金も得れ、他人にも感謝されるというこの利点が、私をオークションの虜としていた。
ただ、ひとつだけ触れもしなければ、売れもしないものがある。
それは、母が後生大事にとっておいた、四角形の質素な紙箱である。
中には、婚約指輪が入っているはずだった。
いや、それは婚約指輪なんて良いものではないらしい。母が時たま漏らした話を総合して考えるに、どうも、母は妾だったようなのだ。そして父は遊びが過ぎて病死し、もちろんその保障は父の『本当の家族』に全部与えられたのだ。

561 : ◆q4bwLmW9fU : 2006/03/32(土) 21:16:19.62 ID:M8UJ0s6j0
それを考えると、この指輪はおぞましく、そして汚らわしくて、触る事が出来なかった。
「ホント、馬鹿だわ、アンタは。」
テレビが一個入るか入らないかの小さなダンボール箱を見つめて、小さく呟く。
五十年生きた母なのに、今ではその痕跡は、こんなに小さくなってしまっていた。
「私はこうはならないから。」
呟いて、そして、それは馬鹿らしい捨て台詞だと思ってしまった。
私は皮肉なほどに母に似ていて、私は心のどこかでそれを嬉しくも思っている。
弟を鬱陶しく思い始めたのも、彼に見もしぬ父の影を見ているからかもしれない。
母の指輪を売ろうかと、ふと思った。
弟は、父の事を知らない。だから、こんな馬鹿げた幻影に遠慮し、振り回されるのは馬鹿らしくないかと、そう思ったのだ。
指輪の入った箱は、ダンボールの一番奥で、埃まみれになっていた。
開けようとして、歯噛みした。まるで、蓋が鉄で出来ているように重い。
実際は、厚紙のちゃちなつくりだ。けれども、開けてしまったら、母の生きてきた年月まで否定してしまうような気がしていた。
ふと脳裏に、弟の姿が浮かぶ。元々多くはない貯金残高は、二人暮しになってから緩やかに減り始めていた。
母への気持ちは小さくなり、気がつくと私は、箱を開けていた。
すると、そこには何もなかった。指輪は、なかった。
私の人生には何もなかったと言われたような、不可思議な虚無感が胸に襲い掛かった。
私は本音を言えば、期待していたのだ。母の遺産で、美味しい思いが、一瞬だけでも出来る。新しい服を買って着飾って、弟の事も、家の事も忘れて遊べると。
彼女は私に家事や苦労をさせるだけさせて、愛しい人を思うヒロインになりきって、そのまま人生の幕を閉じたのだ。
「馬鹿にしないでよ!」
気がつくと叫んでいた。そして、私は母の遺品を放り投げた。
小気味良い金属音が、響き渡った。
五百円玉がころころと、私の膝元に転がってきた。
ほうけていた私は、そろそろと箱に近づく。どうやら、指輪を固定する綿の下に、五百円玉が挟まっていたらしい。
そして中を調べると、小さなB4のノートの切れ端が入っていた。
母からの、手紙だった。
『ろくな遺品がなくてごめんなさい。指輪はもう売ってしまったけれども、記念にとっておいた箱です。いつもこれだけしか上げれなかった母を、許してください。』
手が、震えていた。
子供の頃を思い出す。手足もまだ伸びきらぬ頃、私の一番の遊び相手は弟だった。

562 : ◆q4bwLmW9fU : 2006/03/32(土) 21:18:52.20 ID:M8UJ0s6j0
五百円玉をくれる母は神様で、駄菓子屋は天国だった。
他の子に人見知りする私達は、そろそろとお菓子を買っては近所の原っぱへ逃げて、そこで弟と二人でお菓子を食べた。
あの時の私達は幸せを共有する相棒だった。私達は幸せだったのだ。
幸せは確かに高いかもしれない。けど、最低単価は何円なのだろう。百円玉ではジュースは買えないけど、二人分の幸せの最低単価は、五百円で足りるのではあるまいか。
私は気がつくと、五百円を握り締めていた。そして、泣きそうになりながら、弟の部屋の扉を開けた。
埃っぽかった。弟は私を見ると、びくりと震えた。髭は伸びて、息は荒くて、脂ぎっていて、可愛かった彼は今ではまるで化け物みたいだった。
お母さんに心の中で、ダメな姉でごめんなさいと謝った。
「お母さんの遺品から、これが、出てきたの。」
私は彼の横に座ると、そっと五百円玉を手渡した。
「私、お母さんが頑張れって言ってくれたんだって思った。だってあの頃、五百円玉で幸せな気分になれたでしょう?」
弟は唖然として五百円玉を見つめ、そして私を見つめた。その指は、震えている。
「お母さん、貧乏だけど、けど、私達、不幸せじゃなかったでしょ?ね?」
出来るなら、一緒にハンバーガーショップへ行きたい。やり直したかった。兄弟二人で生きていけば、また幸せになれる気がした。
弟は、五百円玉を、私の手のひらに戻した。そして、近くの立派な皮のカバンから、通帳を取り出して、私に渡した。
「居候して、悪いと思ってるよ。」
弟が、この部屋の居住権を買おうとしていると気がつくまで、しばしの時間がかかった。
二十年を一緒に暮らした家族だから居ても良いのではなく、金を払うから居させてくれと言ったのだ。私は、絶句した。
「そんな事、言ってないでしょ?」
「もうちょっと待っててくれ。もうちょっとで金儲けの目処がつく。」
「そんな……。」
「五月蝿いな!五百円玉なら、その通帳からいくらでも降ろせよ!!」
吼え声だった。私は、絶句した。弟の形相に、絶句した。
まるで、金で人が動いていると決め付けている、軽蔑の目だった。
ふと思い出す。彼は裕福だった時代、自慢げに携帯電話のメモリーを見せてくれた。女の人の名前も男の人の名前も、たくさんあった。
けれども破産した彼の携帯電話は、一度もなる事はなかったのだ。
部屋から追い出されて、私は泣いた。
汚れてしまった弟が可哀想で、そして汚れていた自分が情けなくて、泣いた。
汗で塗れた右手の手のひらに握った五百円玉の感触は、今と変わりなくて、そして左手には、そんな五百円など何枚でも吐き出せる通帳があった。
涙はいくらでも溢れ出てきた。



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