【 戦湯 】
◆Awb6SrK3w6




495 名前:戦湯 1/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/07/30(日) 02:33:16.00 ID:OK8U72x20
白い煙。その中で漂うように光る灯り。
その下で人は社会が課した全てのしがらみを解き放ち、
一糸まとわぬ純粋な一個の人間となる。
その空間は、私たちに人が人であることを思い出させる。
私たちはそこで温かい生命の起源、「水」に包まれて、己の生を顧みる瞬間を手にするのだ。

だが、そんな状況下に於いても、人間はある社会的な行動を捨てることはできない。
それはとても単純で純粋な欲求である。
それは人が石器を手に持ち、広大な草原で獲物を追い求めていた頃から、
誰もが胸中に抱いていた欲求なのだ。
「勝者となる」
人が人である限り、この欲求を私たちは捨てることができない。

視界は著しく悪く、私たちはすれ違う一瞬にしかお互いの顔を認識できない。
私はそんな中、ある一点を指して滑るタイルを厭うこともなく大股で突き進んでいた。
私の目指すその先に待つのは、百戦錬磨の男達。
彼らに、己に打ち勝つ為に私はタオルを肩に引っ掛けひとりぼっちで進軍する。
サウナと書かれたプレートの下のドア。そこが戦場の入り口だ。
ギシリと響く重い扉。その瞬間、空気は一変する。
熱気。
鼻が、目が、耳が、口が、肌が。五感を司る全ての器官がその存在を警告して。
私は戦地にあることを実感する。
帰ってきた。
その感情が私の口元を綻ばせる。
肩に掛けてたタオルを腰に巻き、私は戦闘態勢へと移ることにした。

496 名前:戦湯 2/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/07/30(日) 02:33:43.00 ID:OK8U72x20
「よう、坊主。今日も来たな」
既に髪に白い物が混じる老人が、私に話しかけてくる。
だが、その肉体は老人の物とはとても言えない。
割れた腹筋、締まった二の腕。その筋肉は「鋼」という単語を私の頭に浮かばせる。
「ええ。今日は負けるつもりはありませんよ」
私は彼の威に打たれぬよう、決意を込めて返事をした。
「良い、心がけだ。坊主。せめて10分は耐えて見せろよ」
軽いジャブの様な一言が飛ぶ。それに伴って戦場中の男達が哄笑した。
それは屈辱的な事である。だが、今の私の実力は、その様に馬鹿にされる程度でしかない。
良いさ、見ていろ。老人どもめ。笑ってられるのもいまのうちさ。
私は心中秘かにそう思い、ドスリと老人の横に座り込んだ。

気温90度の世界。
まさしく極限と呼べるこの戦場を舞台に私たちは戦う。
30分経った頃だろうか。私は一つの限界に達しようとしていた。

497 名前:戦湯 3/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/07/30(日) 02:33:59.23 ID:OK8U72x20
「坊主。お前、まさかもうギブアップとでも言うんじゃないだろうな?」
「!」
私が諦め席を立とうとしたその時だった。私の背に老人の低い声が投げつけられる。
「そんな、事など」
苦しい言い訳だ。だが、私は敢えて抗弁した。プライドが私をそこに居続けさせる。
「フフッ……まあ良いさ。あの男を見ろ」
「何ですか、一体……あれは!?」
ニヤリと笑う老人の指さした先には、一人の男が座っていた。
白いタオルを腰に巻き、男は下を俯いて、ただこの暑さに耐えている。
だが、その他の者と違う事がある。
ただならぬ気。そして、圧倒的なまでの全身の汗。
それがここにいる男達の中で、最も長い時間を戦った事を物語っている。
「あの男、何分居ると思う?」
老人が私に問うている。
「1時間……ですか?」
「違う。答を教えてやろう。3時間だ」
「3時間!?」
驚愕する。そんな、馬鹿な。それは命に関わる時間ではないのだろうか。
この様なところで生き死にを懸ける真似をさせるわけにはいかない。
「どこへ行く?」
席を立った私に老人が話しかけた。
「彼を止めます」
振り向かず、私は一言そう述べた。
「まだまだ、青いな……」
苦々しく呟く老人を捨て置き、私は彼へと向かっていった。

498 名前:戦湯 4/4 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/07/30(日) 02:34:19.66 ID:OK8U72x20
男の肩はひどく下がっている。私はその肩を叩き、男を振り向かせて一喝する。
「止めろ! それ以上、我慢を続けて何になる!」
「何にもならないことなど知ってるさ」
「!」
限界を超えたその顔が、私に笑いかけていた。
戦慄。実社会では覚えたことのない感情を私は今体感している。
「お前という奴はッ……」
震えるような声を絞り出し、私は彼の姿を見つめた。
「俺にはな、もうこれしかないんだ」
超克した表情で彼は淡々と語り続ける。
「長年勤めてきた会社はリストラで首。嫁には三行半を叩きつけられた。
愛する娘。暖かい家。社会での地位。あらゆる物を失った。
今じゃ、日雇いの仕事で口に糊をする日々さ。だがな、こんな俺でもプライドまでは捨てちゃいない」
「それが……これだっていうのか、お前は!」
私は激昂する。いくら此処が戦場とは言え、そこまで目の前にいる男はやるというのか。
「ああ、そうだ。この戦闘が俺の全てだ。たとえ此処で力果てようとも、俺は本望だと思っている」
こんな、男が。こんな男がこの様なところに居たのか。
私は奥歯を噛み締めた。圧倒的な差がそこに有ることを再確認させられ、
社会から抜け出すなどという軽い気持で戦っていた己を恥じる。
「畜生ッ……畜生めッ!」
勝てない。目を瞑り、私はどうしようもないこの事実を強く、強く噛み締める。
その時だった。何かが倒れる音がした。私は目を開け、前を見る。
男が横たわっていた。

彼を水風呂に浸からせて、私は一つ大喝した。
「この、大馬鹿野郎めっ!」
「ああ、俺は馬鹿だとも。こんな所で、勝利を追い求め日々戦う大馬鹿野郎だ。
だがな、俺はそうすることで自分の誇りを守っているんだ」
彼の表情は良く見えない。その声は弱々しかったが、同時に余りにも雄々しかった。
湯煙だけではない何かが私の視界をぼかしていった。



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