【 善意の泥棒 】
◆lEuCfIFbb.




240 名前:「善意の泥棒」 テーマ:犯罪(1/3) ◆lEuCfIFbb. 投稿日:2006/07/22(土) 19:46:27.70 ID:iPN0QWCu0
 時刻はとうに出勤時間を過ぎている。今ごろ職場では、社員たちが眠い目をこすりながら朝礼を始
めているころだろう。補佐役の吉川は、私が電話で話したとおりにうまくやっているだろうか。ついつ
い上司という立場としての心配が頭をよぎる。早く会社に行かなくては。責任感が心をはやらせ、私
のひざは小刻みに貧乏ゆすりをはじめた。
 その焦燥は空気を媒介として、目の前に座る男にも十分に伝わっているようだった。男は、黒ぶち
のめがねの奥にある、猛禽類を思わせる瞳で私をひと睨みすると、吐きつけるような冷たい口調で
切り出した。
「あんた、会社員?」
 そのふてぶてしい口ぶりに、私は思わずむっと顔をしかめる。男の年齢は、私が普段会社で部下と
して使役している人間達とそうかわりはない。そのような若者に生意気な口をきかれることは、私の
生活の中でそうめったにあることではなかった。
「ああ」
 私は己の威厳をできるだけ保つかのように胸を張り、低い声で短く、返答した。男は私の声が聞こ
えていないかのように無反応で、机上の書類にペンを走らせている。自分から聞いておいてその態
度はなんだと、私はその青年の印象をますます悪くした。
「馬込にある会社だ」
 間が持たなくなった私は、仕事場の最寄の駅をみずから申告した。男と私の間に、共通する話題は
それしかないだろうと思ったからだ。男は、鉄道警備員だった。
 人間らしい、温かいリアクションを期待した私に、しかし男からの返事は皆無だった。私は嘆息して
のけぞり、再び黙り込んだ。駅員事務室に、再び重たい沈黙が落ちる。
 まるで容疑者だ。そんな比喩が頭をかすめて、私は図らずも自分のおかれている状況を再確認す
るに至った。そうだった。私は容疑者なのだ。
「なんで、あんなことしたの」
 ひと通り書類の空欄を埋め終えると、警備員はやっと口を開いた。
「あんなこと、というと」
「あんた、まだ白切る気なの?」
 返答に迷う私に、男は呆れかえったそぶりで、パイプ椅子の背もたれに体を預けた。
「だからね、なんで盗ったのか、って聞いてるの」
「私はやっていない」反射的に、強い否定が口をついて出た。「金には困っていない」
「知らないよ。あんたの事情は」

241 名前:「善意の泥棒」 テーマ:犯罪(2/3) ◆lEuCfIFbb. 投稿日:2006/07/22(土) 19:47:00.18 ID:iPN0QWCu0
 男は私の言葉を冷たくあしらうと、低い鼻にちょこんと乗っかるめがねを中指でずり上げた。蔑みと
憐憫の入り混じった視線が、先に事情を聞いてきたのはあんたじゃないか。という私の主張を心の中
におしとどめた。
「言っておくけどね、現行犯逮捕に、動機も糞もないの」
「現行犯だって」
「そうだよ。当たり前でしょ」
 説明するのも面倒だとばかりに、男はペンをいじくっていたほうの手で後頭部を掻いた。
「電車に乗ってて、誰かの財布が掏られるだろ。そうしたらその場に居合わせたあんたが、その財布
を持っていた。そうなれば、誰だってあんたがやったんだと思うよ」
 そういうの、現行犯っていうの。わかる? 嫌味たらしく諭すように言葉を続ける男に、私は二の句
が告げないでいた。朝、通勤電車の中での出来事がありありと蘇る。確かにあの時、私のスーツの
ポケットには、私のものではない誰かの財布が入っていた。「俺の財布だ!」と、それまで必死に自
分のかばんやらなにやらをまさぐっていた青年が、私が手にしたそれを見つけ叫んだ時には、誰より
も私が一番驚いたのだ。
 財布はたしかに青年のものだった。彼がその場で、カード入れの中に入っている免許証を見せてく
れたからだ。記載されていた顔写真は、実物で見るより多少陰気な表情をしていたが、たしかに目の
前の顔と一致していた。私はわけもわからずに、視線を青年とその写真に行き来させていた。その様
子を、同じ車両にいる全員が見届けていたのだ。その中には、勤め先で見覚えのある顔もいくつか
混じっていた。
「なにかの間違いなんだ。私はやっていない」
 私はなんて陳腐な台詞を吐くんだ。そう思いながらも言わずにはおれなかった。頭に血が昇ってい
くのを感じる。
「どうしてもそう言いきるなら、警察に行く?」
 無駄だと思うけどさ。と相変わらずの口ぶりで男は付け足す。
「裁判でもするんだね。盗られたほうは、示談で済ませたいって言ってるけど」
「示談だって?」
「黙っててくれるってさ。あんたも仕事とか家庭とか、いろいろあるだろうからって」
 信頼って、簡単なことで崩れちゃうものだからね。男の言葉につられ、私は弾かれるように時計を見
やった。職場では既に午前の仕事が終わろうとしている時間だ。デスクの上に山積みにされているだ
ろう私の仕事が脳裏をよぎった。こんなことをしている場合ではない。早く会社に行かなければ。

242 名前:「善意の泥棒」 テーマ:犯罪(3/3) ◆lEuCfIFbb. 投稿日:2006/07/22(土) 19:48:07.05 ID:iPN0QWCu0
「この近くにATMはあるか」
 そう切り出す私の言葉を予想していたかのように、男は立ち上がった。道を教えてくれればいいと
いったが、案内するといって聞かなかった。私が逃げ出すかもしれないとでも思っているのだろうか。
「金か。まあ、利口な方法だよな」
 誰にともなく、男はぽつりと呟いた。そうとも、こんなところでぐずついていてはいられない。黙ってい
てくれるというなら、こんなにありがたいことはないのだ。幸い私は金には困っていない。いくらばかり
かの示談金を払うことに、何の逡巡も感じることはない。

「お前は本当に小ずるいやつだ」
 仕事仲間が封筒に詰められた札束を勘定している様子を、俺は呆れ顔で眺めていた。
「プロフェッショナルと言ってほしいね」
 目の前に置かれた大金に視線を落としつつ、彼は軽口を叩く。年のわりに生意気だが、どことなく
愛嬌を感じさせるその物言いに、俺は苦笑を隠せない。
「プロとしてやってるんなら、少しは美学を持ったらどうだ。お前の仕事にはそれが足りない」
「古いよ。おっちゃん」
 彼がそう笑うのを意に介さずに、俺は言葉を続ける。
「いかに気づかれず盗み、いかに尻ポケットに財布を滑り込ませて、いかに周りに溶け込み自然に
振舞うか。それが俺たちの世界の基本だ。お前のやっていることは掏摸の風上にもおけない」
「そんなことはないよ。順序が違うだけ。一般人のふりをして、ポケットに財布を入れて、気づかれず
に盗む。盗むって言い方は合わないかもしれないけどね。大抵は駅の人がうまくやってくれるから」
 同じことをするのだったら、リスクは少ないほうがいいじゃない? 飄然と笑う若者。たしかに、と俺
は思う。法に触れるようなことは、何もやっていない。彼はあの時、ただ隣に居合わせた乗客に財布
を渡しただけだ。そして、事実を述べた。
「おごるよ、おっちゃん。飲みに行こう」
 そう言うと、仕事仲間は意気揚揚と歩みを進める。その堂々とした姿に、悪びれた様子はまったく
見受けられない。こいつは本当に犯罪者なのだろうか。『善意の泥棒』と、そう業界内で仇名される若
者の後ろ姿を眺めながら、俺は首をかしげた。



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