【 呼びかけのとき 】
◆Qvzaeu.IrQ




881 名前: ◆Qvzaeu.IrQ :2006/07/16(日) 19:23:32.20 ID:suSvEDIj0
 私は、医師の唇の動きを目で追った。
 全部は追いきれなかったが、何となくいいたいことは解った。
 春菜が、音を失う。遺伝性の難聴なので、回避できない事くらいは知っていた。
 私も物心つく前から、音は聞こえない。春菜は18になっても、音を聞くことが出来た。大丈夫だと思っていた。
 なのに、今更その兆候がでてきたらしい。私には解らないが。
 兄として、私には何が出来るのだろうか? 音をこれから失う春菜に、何が出来るのだろうか? 
 音を知らない私には、どうする事も出来なかった。
 ただただ、春菜の震える手を眺めていた。
 その手の震えは、冬の寒さではないだろう。
 
 春菜は、あれから一週間穏やかに暮らしてきた。
 私が仕事から帰ってくると、笑顔で迎えてくれたりもした。
 母さんと一緒に料理をしたりもしていた。ただ、若干不自然な感じもしたが、その不自然さがどうにもわからなかった。
 食後、春菜が私の肩を叩いた。
 いつも話をするときは、こうやって合図を送ってもらう。
 首をかしげると、春菜はゆっくりと唇を動かした。
「お話しよう」
 それをみて、私は頷く。
 今は少しでも、春菜の負担を減らしてあげたかったからだ。
 春菜は、そこでいつものように唇を動かさずに、手話に切り替える。
 母さんは今台所で食器を洗っていた。父さんは、見えないが、恐らく風呂だろう。
 二人にはあまり聞かれたくないのかもしれなかった。
「私の部屋に行こうか?」
 春菜は暫く考える素振りを見せて、頷く。
 私の部屋に着くと、春菜は椅子に座る。私はベットに腰掛ける。
「ねえ、1つ質問して良い?」
 こちらの目を見て、手話で話してくる。
「どうぞ」
「行き成り本題に入るよ。音がないってどういう感覚?」

882 名前: ◆Qvzaeu.IrQ :2006/07/16(日) 19:24:28.85 ID:suSvEDIj0
 ゆっくりと手話でそう言った。
 私の目をみる、春菜の瞳が揺れた。その瞳をじっと見詰めた。
 でも、その答えは浮かばなかった。
 なんと答えれば良いのだろうか?
 今の私には、首を横に降るしかなかった。
「うん、ありがと」
「力になれなくてすまない」
「ううん、良いんだよ。覚悟していたしね。いつかは、聞こえなくなるって解っていたから」
 そこまで、春菜は手話で話して、
「でも、お兄ちゃんの声は聴きたかった」
 と呟いていたのは解った。あとは、動きが小さすぎて追えなかった。
 その瞳は、私を見ているようで、何処か違う場所を見ていた。
「さてっと、私は今のうちに音楽を沢山聴いておこう!」
 にこっと春菜は元気よく微笑んで、手話に切り替えそういった。
 私も、出来る限りの笑顔で頷く。
 部屋を出て行く、春菜の後姿を見て、私は思った。
 今まで音などなくても良かった。
 それを考えれば、色々な事が辛かったから。
 だけど、今はそんな場合じゃない。音が欲しい。せめて、春菜の名前を呼ぶくらいの音が欲しかった。

 静かに音を失い行く春菜の為に、私は声を出す練習をした。
 高校時代からの友達に頼んで、練習に付き合ってもらった。
 母さんにも、父さんにも頼めない。悲しむのは、目に見えているから。間接的に追い込んでしまうことになるだろう。
 私はまず、友達に声を出してもらった。首に手を触れ、喉の震えを覚えるまで手伝ってもらった。
 声を出す訓練も、ろう学校の頃にはあった。だけど、私はそれを受けなかったのだ。
 だから声の出し方を知らなかった。1からの練習は、酷く疲れた。
 喉を震わすこと、そのイメージがどうしても掴めなかった。
 その都度、手話でアドバイスをくれる友人たちは嬉しかった。仕事が終わって夜遅くなのに、私の力になってくれる人たち。

883 名前: ◆Qvzaeu.IrQ :2006/07/16(日) 19:24:50.83 ID:suSvEDIj0
 私が訓練に励んでいる間にも、春菜は少しづつ音が聞こえなくなっていった。
 今では、私が目に見えて解るほどだ。
 時々、何も聞こえてないのではないか? と思う。母とコミニケーションが成立して内容に見えるときもある。
 早く、春菜のためにも話せるようになりたかった。
 たとえ、喉を切って血を出そうとも。疲れて倒れそうになろうとも。
 それでも私は音が欲しかった。
 
 そうして、訓練を繰り返す事。1月ほどたった。
 私は何とか、はるな。という名前だけは覚えた。
 何とか話せるようになったとき、友達の溢れるばかりの笑顔が本当にまぶしかった。
 素晴らしい友達を得た。と、改めて実感した。
 そして、今、春菜は目の前に居る。
 私が呼び出したからだ。
 私は、左手を自分の首に当て、覚えたとおりに
「は る な」
 そう言うと、春菜は穏やかに微笑んで
「うん」
 と頷いた。
 
 それから春菜は、暖かな春の日に音を失った。
 菜の花が咲き誇る場所で、私の呼びかけに等々返事をしなくなったのだ。
 母さんが呼んでも、父さんが呼んでも返事をしない。
 完全に聞こえなくなっていた。
 それでも、春菜は穏やかにしていた。

 おしまい。



BACK−戦場を超克する音◆Awb6SrK3w6  |  INDEXへ  |  NEXT−SS◆5fNG9NZYL.