【 父の音楽 】
◇8yeCzjDy0




654 名前:1/3 :2006/07/16(日) 00:42:50.47 ID:8yeCzjDy0
お題「音」
『父の音楽』

父の部屋に入ったのは久しぶりだった。
煙草の匂いと父の生活臭が隅まで染み込んだ、アンティークな古風の書斎。
ガラス戸の本棚には分厚い本が乱雑に立ち並び、使い込まれた机にはペン刺しと灰皿が乗っている。
記憶の中では、父はきいきいと心地よく揺れる安楽椅子に座り、微笑みながらよく幼い私の話を聞いてくれていた。
しかし、私が成長するにつれ、そのような関係は何時の間にか途絶えてしまっていた。
父は一人でこの部屋に篭り、私はそこを訪ねるどころか、会話をする事すらあまりしなくなっていた。
部屋の整理の手伝い。今の私にはその名目がある。
取り合えず、私は本棚の本に手を付けた。
ごちゃごちゃに置かれている本を一度全て本棚から下ろし、種類毎に分類して行く。
こういう作業は好きだった。私の部屋も普段は散らかっているが、掃除をし始めると徹底的にやりたくなる。
私は沢山の本を引っ張り出して床に並べ、その並べ方を吟味しようと、最後の一束を腕に抱えた時だった。
本棚の一番奥の方に、何やら隠されるように小さな紙の包みがあるのを見つけた。
好奇心に負け、私は本の整理を放ってその包みに手を伸ばす。
それを解いてみると、中には二本の古ぼけたカセットテープが入っていた。
中身は音楽だろうか、ラベルにはタイトルと思しき幾つかの英単語がボールペンで書かれている。
しかし、そのほとんどが既に擦れてしまっていて読み取る事が出来ない。
何故だか、私はこの中身を非常に聞いてみたくなった。
近くに誰もいない事を確認してから部屋のドアを閉じ、私は先ほど見つけたカセットプレイヤーにテープにセットする。

655 名前:2/3 :2006/07/16(日) 00:43:16.39 ID:8yeCzjDy0
流れ出したのは、何だかよくわからない音楽だった。
ジャズのようでもあり、クラシックのようでもある。
一昔前のJ−POPのようなリズムもあるが、そこに歌詞は一切付いていない。
また、時折明らかに音が外れているとしか思えない箇所もあった。
そんな、本当に奇妙な音楽だったが、何故か私にはそれが霧消に懐かしかった。懐かしくて懐かしくて仕方がなかった。
訳も分からず、私は呆然とその音楽を聴き続ける。
一体何時の事だったのだろう。
よく思い出せないが、幼い頃、私はこれを聞いた事がある。
「これはまた、懐かしいものを見つけられたな」
その声に私は振り返る。何時の間にか、ドアの前で父が照れくさそうに笑っていた。
「お前はまだ小さかったからなぁ。覚えてるか?母さんと一緒にお前まで、散々変な曲だって罵ってくれたのを」
それで、ぱちんとピースが嵌った。
父は若い頃、音楽家を目指していた。
私はまだ幼かったのであまりその頃を覚えていないが、父の音楽家としての活動は上手く行っておらず、貧乏だった事は確かだった。
父は結局その道を諦め、普通の会社に就職して普通のサラリーマンになり、それなりに昇進した。
「あはは、諦めて正解だったよ、父さん。今聞いても、やっぱり変な曲だもん」
懐かしい。母と二人で父の音楽を聴いた時の事が鮮明に蘇ってくる。
あまりにも懐かしくて、気が付いたら目から涙が零れていた。
「父さん、これ、もらっていい?」
私が聞くと、父は僅かに動揺したような素振りを見せた。
だが、直ぐに優しく微笑んで、肯いてくれた。
「ああ。いくらでも、持って行け」
「……ありがとう」
――今まで。

656 名前:3/3 :2006/07/16(日) 00:43:37.73 ID:8yeCzjDy0
古いカセットプレイヤーのノイズ交じりのサウンドに乗って、父の音楽が部屋の中に響き渡る。
父の幻影は既に消えている。
私は遺品整理の手を止め、彼がするように安楽椅子に座り、目を閉じて、その奇妙な、だけど父の若さと香りが残っている音楽に耳を澄ませる。
そうして、もう少しだけ泣いた。



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