【 さとるのおと 】
◇nxjCij6Q0




595 名前:さとるのおと(1/3) :2006/07/15(土) 22:32:28.38 ID:nxjCij6Q0
 さとると言う名は、まぎれもなく本名だ。しかし、高校にいるクラスメイトの中で、彼のことをそう呼ぶ者
はほぼ皆無に等しかった。もともとが無口で、友人といえば数えるほどしか存在しないさとるにとって、
誰かから呼びかけられることすらかなり稀なことではあったが、それでもやむにやまれず名指しにして
彼を呼びたい時、同級生達はさとるを、若干の悪意を持って次のように呼んだ。
「ヒコ彦、ちょっとこっち来て」
 彼自身、人からそのような名称で呼ばれることは本意ではなかった。級友たちにしても、さとるが強く
そのことを嫌がれば、気を使って本人の前ではその呼び方を使わないくらいの聞き分けはあったかもし
れない。しかし、さとる自身が元来備えている生粋の気の弱さは、物事を否定するという事柄において
は極端に不向きだった。曖昧な返事を投じてその場を取り繕うというその場しのぎの対策を続けていた
結果、さとるにとってひどく屈辱的な響きを持つその名称はすっかりクラスじゅうに広まり、ヒコ彦と呼ば
れれば反射的に声のほうへ目を向けられるようになるほどに、自分の中へと定着していった。

 一見、さとるという名前に何ら関連のないそのあだ名だが、彼自身を前にしてみれば、それは本名を
しのぐ勢いでその人となりを表すフレーズに間違いはなかった。言い得て妙、とでも言おうか。その名
前は彼の持つ、いささか珍奇な体質が由来であり、その点において、彼を知らない人間は学校中に一
人としていなかった。

 さとるの足には、生まれながらに不思議な仕掛けがされてあった。彼が歩くたびに、その足からは軽
快な効果音が流れるのだ。それはまるで競技用のホイッスルに小刻みに空気を送り込むような、甲高く
能天気な音だった。その奇妙な響きを擬音に変えてみると、ひっこひっこと鳴っているように聞こえるこ
とから、クラスメイトは彼のことを「ヒコ彦」と呼んでいるのだった。この辺のネーミングセンスに関しては
さしもの当事者のさとるも、ううんと唸らざるをえなかった。

 物心ついたころから、その怪奇音はさとると共にあった。親に聞けば、初めてさとるが二の足で立ち
上がったときにも、まったく同じ音がしたという。最初は気のせいかなにかだと高をくくっていた二人も、
その足が懸命に地面を踏みしめるたびに起こるその現象に首をかしげた。やがて不気味になって医者
に見せたところ、専門家であるところの彼らも、そのリアクションはさとるの両親と何らかわりはなかった
そうだ。検査の結果、「命に別状はないだろう」と曖昧な診断が降され、半ば強引なかたちで病院を追
い返された二人は、その日から今の今まで、息子の特異体質を見て見ぬふりを続けてきた。

596 名前:さとるのおと(2/3) :2006/07/15(土) 22:33:17.21 ID:nxjCij6Q0
 はじめに、おかしいな、と思ったのは小学生のころだった。担当の教師に、「上履きになにか細工をし
ている」と因縁をつけられ、いやというほど事細かに足の裏周辺をチェックさせられたのである。結局音
の原因を見つけることのできなかった教師は、さとるに対して自白を要求した。
「さとるくん、言いなさい。どうして隠しているの。あなたはどうしてそんな悪いことをするの」
 同じようなことを何十回と反芻され、すでに泣き疲れ沈黙を続けていたさとるは、ふと気がついた。
「そういえば、僕以外の誰も、歩くときに音なんてしない」
「クラスメイトの誰も、先生達も」
「そういえばお父さん、お母さんだって」
「僕?」「僕一人?」
「僕だけが」
「僕だけが異常なの?」
 その日を境に、その足音はさとるにとって大きなコンプレックスになった。気になりだすと止まらないも
ので、さとるはその音を極力鳴らさないよう、歩くすべを探し求め、それでも、どうしてもかすかに流れる
脳天気な笛の音を、さとるはひどく恥ずかしがった。

 そういった負の感情に小学生とは敏感なものである。当時のクラスメイトたちがさとるの様子を見て、
彼をいじめの対象とするまでそう時間はかからなかった。クラスを巻き込んでのシカトに始まり、前触れ
なくさとるに体当たりして、よろけた時に鳴った「ひこ」という音をすかさず嘲笑ったり、その音が、当時
流行っていたマリオブラザーズの新作に出てくる恐竜のキャラクターが敵を食べる時に鳴る効果音に
似ているという理由から、「さっしー」と呼ばれ背中の上に乗っかられたりと、様々な被害をこうむった。
その頃から今に至るまで、さとるのコンプレックスは順調に培われ、彼の性格は常に周りの目を気にし
て暮らさなければならないように育っていった。

 事実、さとるに対する世間の風当たりは、思いのほか強かった。人は少しでも普通と違うものを見ると
すぐに好奇と嫌悪の目を向けることを、さとるはやがて身をもって知った。小学生ならば子供の無邪気
さで、なんとかその音をかわいらしいと思わせる事だってできなくはない。しかし今やさとるは高校生。
すっかり男らしく育った彼にとって、その音プラスの効果を持たせることは一切なかった。電車の中をさ
とるが歩いていると、彼に白い目を向けてくる人間が必ず何人かはいた。靴に音の鳴るなにかを仕込
んでいるとでも思われているのだろうか。そう考えるたび、あの小学生の頃激しい剣幕で詰め寄ってく
る担任教師の顔を思い出し、さとるは震えた。

597 名前:さとるのおと(3/3) :2006/07/15(土) 22:33:45.77 ID:nxjCij6Q0
 だからさとるは、自分からすすんでゲームセンターやライブハウス、クラブなどの、やかましくて自分
の足音が聞こえない場所に身の置き場を求め、逆に静かにしていなければならない場所。例えば図書
館や映画館、落ち着いたバーなどには近寄ろうとしなかった。性格的には、さとるはむしろ物静かで落
ち着いたタイプであったから、ライブハウスやクラブで聞こえる音楽は、彼にとってただのノイズに他な
らなかった。しかし彼が求めていたのもまた、自分以上のノイズ以外のなにものでもなかったので、さと
るは満足だった。音は彼にとって、それだけのものでしかなかったのだ。

 さとるは生きている。皆に後ろ指をさされ、コンプレックスを抱えながらも。
 さとるは願っている。いつかこの足が沈黙し、音のない世界に遠慮なく身を投じることができるのを。
 そうでなかったら、自分が自分の体質を許容できるだけの心の余裕を持てることを。
 さとるは歌っている。映画も、音楽も、本当は大好きだからだ。
 それすらままならないのは、憎むべき彼の体質のせいだ。
 さとるは歩いている。今日もあなたの隣を、ひこひこと音を立てながら。



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