【 音の世界 】
◇zl8VUSGQ0




566 名前:音の世界 :2006/07/15(土) 20:35:28.96 ID:zl8VUSGQ0
空中に浮いているかのような浮遊感。
大嫌いな、うるさい音もここには存在しない。
よく分からないが、いつまでもここにいたいと私は望んでいるようだ。
突然、何もなかった空間に大きなブザーの音が鳴った。
薄黒い赤色のカーテンが左右に分かれ、大きなスクリーンが現れる。
いつの間にか、スクリーンの前に小さな椅子が寂しげに置かれていた。
少し迷ったあと、私がそれに座るともう一度さっきのブザーが鳴り、スクリーンに映像が流れ始める。
見覚えのある大学のキャンパス、見覚えのある友人、その中に彼が映っていた。
彼と彼の友人とのやり取りをしばらく見た後、場面は食堂に切り替わり、遂に私も登場する。
彼はこの後、顔を真っ赤にしながら私に告白したっけ。
私が思った通りのことを彼はしてくれた。
これは私の過去なのだろうか?
結末の分かっている映画なんて、何の面白みもないのに。
場面は一気に切り替わり、大学を卒業したあとすぐに開かれた私と彼の結婚式を映している。
彼は成長が他の人より遅かったらしく、大学の頃より少し背が高くなっていた。
どこにでもあるような、当たり前のことをしているだけなのに、
この世で一番幸せになったような表情をしている二人。
仲人の歌が始まる少し前に、また場面が切り替わった。


567 名前:音の世界 :2006/07/15(土) 20:35:44.59 ID:zl8VUSGQ0
スクリーンの中の私の手には小さな命が握られている。
仕事で遅れてきた彼はそれを見た途端、体を震わせて涙をこぼした。
突然、どこからか何度も聞いたことがある、あの優しい声が聞こえる。
「あなたの体を気遣ってあげたかったのに、言葉が出ませんでした。」
声の方向を見ようと思ったが、何故かスクリーンから目を離すことができなかった。
その後映画は彼が結婚5周年を忘れていて大喧嘩になったシーン、
娘が中学校に入学した時に彼が「あなたが一番可愛い」と言い見事な親馬鹿ぶりを発揮したシーン、
家族で温泉旅行に行ったシーン、娘の結婚式のシーン、孫娘が生まれたシーン、
彼が定年退職したシーンが流れ、私が一番見たくなかったシーンが流れようとしていた。
肺がんになった彼が死んでしまうシーン。
彼は今まで、彼の友人が死んでしまった時、娘の結婚式の時、私が交通事故で足が
動かなくなってしまった時に沢山流してくれた涙を、自分の時には見せることなく死んでいった。
一度見た映画はどんなに感動する物でも泣かないのに、私は最初に見た時に負けないぐらい泣いた。
薄黒い赤色のカーテンが閉じる。
涙は止まらない。
体は震えて、呼吸ができない。
静けさを取り戻した空間で、映画が始まった時と同じく唐突に、優しいあの声が聞こえてきた。
「僕が知っているのは残念ながらここまでです。この後、あなたが悲しんでくれたのか、
幸せに暮らしてくれたのか、知りません。できればもっと一緒に生きたかった。いつまでも、二人、仲良く」


568 名前:音の世界 :2006/07/15(土) 20:36:18.55 ID:zl8VUSGQ0
彼の声を聞くと、あれだけ流れていた涙が簡単に止まった。
不思議と混乱することなく、彼の存在を受け入れることができた。
「死ぬほど、悲しかった」
短い言葉を、なんとか伝える。
彼の顔は見えないが苦笑いしている彼の表情は簡単に想像できる。
「それは、すみませんでした」
少し、沈黙が生まれる。
私は構うことなく、ずっと言いたかったことを言う。
「これからは、ずっと一緒にいられますよね?」
また、少し沈黙する。
彼との会話では途中途中にお互い何も言わない時間ができてしまう。
昔は気にしていたが、今はそれが懐かしい。
「あなたはもう少し、子供達を見ていたいとおもっている」
この人は、いつも私の心を見透かしてくる。
ずるい。
「あなたは死んで、もうあの子達を見ることはできない。それなのに私だけ幸せには暮らせない」
本心を彼に伝える。
彼の前では本心以外の言葉は通用しない。
珍しく沈黙なしで彼の口が開く。


569 名前:音の世界 :2006/07/15(土) 20:36:41.36 ID:zl8VUSGQ0
「僕は十分すぎるほど幸せだった。あなたのおかげで世界で一番幸せな人生を送れたと思ってる。
次はあなたが、幸せに生きてください。子供達を、見守ってあげて」
彼の言葉で一時的に止まっていた涙がまた溢れる。
私もあなたと一緒になれて本当に幸せだった。
そう言いたかったが涙が邪魔で言葉にできなかった。
慰めてくれる彼の声はどんどん小さくなっていく。
必死に、その音を拾う。
「どうか、お体に気をつけて」
優しい彼の声は、やがて耳に届かなくなった。
かわりに、子供達の声が聞こえる。
目はまだ開くことができない。
かわりにまた音が、溢れてきた。



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