【 簪飾り 】
◇LLpWRUe20




540 名前:簪飾り 1/3 :2006/07/15(土) 18:37:21.50 ID:LLpWRUe20
窓から月の光が射し込み、天井を蒼く染める。
部屋の中は意図的に光量を抑えてあるのか、四隅に灯火が点っているのみ。
壁に背を預けるようにして床に座り込み、瞳を閉じている男へと、女は月の蒼をその背に纏いながら近付く。
女が摺足で狭い部屋を移動する度に、しゃらり、しゃらりと簪飾りが互いの身をぶつけ合いながら音を奏でた。
その音は、女が浮かべている表情のように、どこか哀しい。
「何故抱いてくれませんか」
女は睫毛を震わせ言うと、唇を噛んで男を見た。
目の前に女が来た事を、気配で、降ってきた声で感じると、男は視線は上げずに目だけを開く。
その瞳には、灯火の橙と月の蒼が同居していた。
「俺は御前を抱きにここに来ている訳ではない」
「けれど!」
女の服の裾を気だるげに眺めながら、しかしきっぱりと言い放つ男に、女は噛み付くように悲鳴を上げるように、甲高い声を上げた。
女はまるで力が抜けたかのような動作で膝を折ると、男と視線の高さを同じくする。
そうして男の瞳を覗き込む、けれど、男の心情は窺い知れなかった。
「私はもう娼婦なのです。抱いてもらうのが私の仕事」
「金を対価に俺が得たものは、御前の時間。その時間を俺がどう使おうが、御前に兎や角言われる筋合いはない」
「……けれど」
緩慢な動きで窓の外にある月に視線を向ける男を前に、女はぺたん、と座り込んだ。
同じ言葉を繰り返す女の声は、一度目とは対象的に、弱々しい。
引き結んだ紅を引いた唇を震わせながら、瞳に薄っすらと涙を浮かべる。
「貴方は一軍を任される将。そのような貴い御方が、私などのような下賤の者の所に通うているなどと噂などされたら、どうしましょう。せめて抱いてくださいませ。そうすれば、貴方はただ気に入りの娼婦を抱えていると思われるだけで、」
「止めんか」

541 名前:簪飾り 2/3 :2006/07/15(土) 18:38:19.10 ID:LLpWRUe20
胸の内の全てを吐き出さん勢いで言葉を紡ぐ女の顔を、男は漸くにして見た。
相変わらずの無表情ではあったが、女には男の感情の機微が判る。
もう何年の付き合いになるだろう。
そんな事を思いながら、自分を咎めている相手の顔を、女は見た。
「卑下するな。俺は俺の好きなようにしているだけだ。他人に何を言われようと知った事ではない」
橙と蒼の混じる瞳が女を射る。
男は手を伸ばすと、女の腕を掴んだ。
「御前は何を望む。娼婦に成り変ってまで得ようとしたものは、何だ」
「貴方の幸せです。私は貴方の幸せを望みます。貴方の幸せは私の幸せ」
「ならば俺の幸せとは何だ」
「……え?」
問われ、女が眉を顰めた。
同時に、過日の記憶を手繰り寄せる。
自分がまだ娼婦に身を落とす以前、ただの町娘であった頃の記憶を。
「……殿様が天下統一を果たす為に尽力する事、でしょうか」
「もう憶えていないか」
数年前、男が将であろうがなかろうがそんな事どうでもよいと言い捨てられた、何も知らなかった、何も怖くなかった頃の自分。
その自分に男が酒を入れながら語った記憶、今でも鮮明な記憶を女は口に乗せる。
けれど違ったようで、男は責めるでもなくただ淡々とした口調でそう返した。
「俺もこの乱世を踏み台にしてのし上がっただけの、名門の出でもない、ただ武が立つだけの男だ」
「……でも、貴方が将である事は事実です」
幸せだけを感受する少女時代はもう終わったから。
一軍の将にまでなった男に自分は釣り合わないから、と覚ったが故に、女は娼婦に姿を変えた。
娼婦になれば、男はきっと愛想を尽かし自分の元から去って行き、そしてきっと男に釣り合うような相手が自然に出てきて、男を支えてくれる筈だから。
だから、だから。
一介の町娘である自分は、男の前から姿を消してしまおう。

542 名前:簪飾り 3/3 :2006/07/15(土) 18:39:00.82 ID:LLpWRUe20
娼婦になんて、なりたくなかった。
けれど、男の幸せは自分の幸せであったから。
男の出世の邪魔になるような存在は、自分は、居ないほうが良いと。
だから娼館に逃げ込み、男の前から去った、…筈だったのに。
「将になったからとて、俺の本質は変わらん」
一体どこから情報を手に入れたのか、男は女を追ってきてしまい、それから毎晩女を買った。
けれど男は女を抱く事無く、ただ時間を共にするだけで一晩を明かし、そして空が白じんで来た頃に帰って行く。
「御前の本質が変わらんようにな」
男は掴んでいた女の腕を引き、抱き寄せる。
胸に紅が付く、と女は身を引こうとするも、男はそれを許さない。
女を確りと抱き締めると、男は再びその瞳を閉じた。

窓から射し込む蒼は薄まり、太陽の暖かい色が部屋を染める。
灯火は既に消えていた。
女も男の腕の中で意識を手放し、穏やかに寝息を立てている。
「俺は御前と生涯を共にする、と言ったのだがな」
もう憶えていないのか、はたまた酔った際に出た戯言と女は取ったのか。
どちらかは判らない。
けれど、どちらにしても、男がその言葉を本気で言ったという事に女が思い至らなければ、現状は何ら変わらない。
「俺は通うぞ。本当の意味で御前が俺のものになる、その時までな」
そう言って、男は太陽の橙を面に浴びながら、穏やかに笑んだ。
頬笑みながら、愛しそうに眠る女の頭を繰り返し撫でる。
男が女の頭を撫でる度に、刺された簪飾りがしゃらりと鳴った。
透き通るような音で、しゃらりと鳴った。



BACK−無理◆YhMtf03RKU  |  INDEXへ  |  NEXT−音の世界◇zl8VUSGQ0