【 ふぁーざーずでい 】
◆P6rBQWtf4




254 :お題「ことば」 題名「ふぁーざーずでぃ」 ◆P6rBQWtf4. :2006/06/18(日) 00:51:45.25 ID:heyPcr8K0
 ペンを握り締めて溜息を吐いた。
 目の前にあるカードは真っ白なままで、書くべき言葉を思い浮かばないまま私はペン立てにボールペンをつっこんだ。
 カードを見つめながら、横に置いたカップを手に取り、コーヒーを一口飲む。
 時計を見れば、カードを開いてからもう2時間も経っていることに気付いた。
 父の日のプレゼントに添えるカードを書くだけで、何をそんなに考えることがあるのか。コーヒーで僅かに苦くなった口元を歪めて自分を笑ってみる。
 そもそも、言葉を書くことが難しいのではなく、言葉を選ぶのが難しいのだ。そう考えるようになったのには、キッカケがあった。

 まだ私が学生だった頃、母と二人でショッピングに行ったある日のことだった。
 歩いている私たちに向かって人の好い笑顔を向けて
「こんにちは」
 と近づいてくる女性二人がいた。年恰好は母と同じようなもので、私は母の友人だと考えた。
 立ち止まった私たちに女性の一人が言い出した。
「あなたは神を信じますか?」
 咄嗟に私は母の顔を見て聞いた。
「お母ちゃんのお友達?」
「あんたのお友達のお母さんらやろ?」
 顔を見合わせた私たちは、女性二人に愛想笑いを浮かべて、さようならと短く言った。
 制止しようとした女性たちをふりきり、母と私はその場を後にした。
 こんにちはなんて簡単な挨拶一言で見ず知らずの人間をすっかり「友達」「知り合い」と信じさせてしまうのだから、言葉というのは怖いものだ、と思った。
 今から思えば、母も私も単純なだけなのだけれど。
 それでも、言葉の重みの一端を知った出来事には違いない。
 
 そこまで思い出して、私はカードを人差し指と中指に挟んで裏向けた。
 Happy Father's Day
 大きく書かれた文字に私は目を細める。父の日、おめでとう。そういう意味なのだろう。誕生日でもお正月でもなくても、Happyを使うのだ、と妙に感心してみる。
 すでに冷め切ったコーヒーをもう一啜りして、カップを置く。
 アイス・コーヒーにしておけば良かった。今更後悔した。
 ホットにした理由があったことを思い出す。


255 :お題「ことば」 題名「ふぁーざーずでぃ」 ◆P6rBQWtf4. :2006/06/18(日) 00:52:32.72 ID:heyPcr8K0
 ビーチで友人とあのサーファーが上手だ、どの人だ? と言いながら私は腰のパレオを巻きなおしていた。
 唐突に視界に男性の足が入ってきた。
 目を上げると、帽子をかぶった男性が一人。私を見ている。しかも、私との距離はかなり近い。というか、見知らぬ人ならこんな近い距離など取らないだろう、というくらい近すぎる。
 足を一歩後ろへ引こうとした。
「こんな綺麗な女性は初めて見たよ」
 男性の言葉と同時に、友人はストローで啜っていたコーヒーを噴出し、私は彼女の背の後ろへ逃げ込んだ。
「え? 隠れるのはどういう意味?」
 友人の肩越しに私を覗き込もうとする男性に、先ほどよりもさらに私の全身の毛穴は粟立った。
「ま、ま、ま、間に合ってますから」
 答えになっていない答えに男性は、そう、と小さく言って歩いて行った。
 友人はひとしきり笑うと、アイス・コーヒーを無駄に零してしまったと私に怒った。

 それからというもの、アイス・コーヒーを飲むのを避けている気がしてならない。矮小な人間だと益々自覚する。
 私の訳のわからない返答で理解してくれたあの男性は良い人だった、と今なら思える。
 思えるけれども、いきなりのあの台詞はないだろう、という感想は今も変わらない。そして、思い出すだけで、いまだに鳥肌が立つ。
 ぶるりと体を震わせて、私はもう一度ペンを手にした。
 こんなことを思い出していても、何もならない。考えなくてはいけないのだから。期限は今日一日。明日はもう父の日なのだから。
 何を書こうか。
 父の好きなジョークのような言葉がいいだろうか。それとも、もっと他の?
 父から貰った、私にとって大切な言葉を思い浮かべて考えてみる。

 どうにか仕事をこなせるようになり、上司からの期待も、後輩からの頼みごとも、すべて増えてきた。私はその重圧と、一人暮らしの寂しさで押しつぶされそうだった。自分がどうしたいのか、何をしたいのか、全くわからない。ただ、苦しかった。
 気がつけば、私は実家に電話していた。
 このまま電話で話しても、電話に出るであろう母に愚痴を零して心配させるだけだ。そう思い直して受話器を置こうとした。
「もしもし」
 受話器を置いてしまう一瞬前、父の声が聞こえた。
「お父ちゃん?」
 耳に当てた受話器からは父の返答がない。私はじっと父の声を待った。


256 :お題「ことば」 題名「ふぁーざーずでぃ」 ◆P6rBQWtf4. :2006/06/18(日) 00:53:25.42 ID:heyPcr8K0
「どないした?」
 私の知っている父は冗談ばかり言う人で、優しい言葉は試験の成績が良かったときの「頑張ったな」くらいしか思い浮かばない。そんな父の声が聞いたこともないほど、私の耳に優しく響く。
 涙が零れた。止めようもないほど、涙が一気に溢れ出し、私は何も言えなくなった。啜り泣くように、ひっそりと、けれども、父の声をもっと聞きたくて、受話器は離せずにいた。
「辛いんやったら、戻ってこい。いつでも。な?」
「……うん。でも、もうちょっと頑張れるさかい」
「そうか」
 それだけで終わった電話。会話とも呼べないような短いやりとりの中、私は父の愛を感じて、また泣いた。
 帰れる場所があるということを、そして私を迎えてくれる家族というものを、本当に実感した瞬間。そして、父の暖かさを知った言葉だった。

 父があのとき、そう言ってくれなければ、私は挫折していたかもしれない。私の胸にはいつも、父のあの言葉と声が温かく灯っている。
 もう何度も全てを投げ出したい気持ちになったことはあるが、いつも父の言葉と父の優しく、柔らかだったあの声音を思い出しては乗り越えてきた。これからも、そうしていけるだろう。
 私はペン先で机をトントンと叩くと、ペンを放り出した。
 どうして気付かなかったのだろう。
 父にこの気持ちを伝えていない。そして、それはカードに書ききれるものではない。
 簡単に、そして、一言で。
「ありがとう」
 これだけで、伝わるのに。
 たった少しの言葉でも、心からのものであれば伝わるのだということは、私は今まで経験して知っていたはずなのに。
 立ち上がって腰を伸ばすと、気持ちよかった。
 カードはもういらない。声で、自分の言葉で伝えるのだから。
 カードを摘み上げ、私はゴミ箱へ投げ入れる。
 今から実家へ行こう。今から車を走らせれば、朝一番に父に会える。
 一番の言葉を父に伝えたい。
 ジャケットとプレゼントを手に取り、私は玄関のドアを開けた。





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