【 鎖の端 】
◆Pj925QdrfE





241 :「鎖の端」 ◆Pj925QdrfE :2006/06/12(月) 02:16:57.79 ID:xxebWhoN0
 轟々と降り続く雪は一筋の光すらもたらさない。男は頭上の裂け目を呆然と眺めながら
ただ時が過ぎるのを待っている。氷が張って冷たい岩の壁の数々が、男を閉塞的な世界に封じ込めていた。
 男の隣には一人の女が居た。挑戦登山のメンバーにしては珍しく、若い美貌を持っていた。
長い黒髪と半透明の肌は、青白い雪山の壁に明確なコントラストを描いている。
女の頬はげっそりとやせこけているにもかかわらず、輪郭の美しさに違和感は薄い。
それほどまでに美しく、また強い女性だった。だが女の目に光は無く、弛緩した口の隙間からは
細い煙の筋のような息が弱々しく漏れ出ているだけだった。
 伝わってくる凶暴な吹雪の音だけが裂け目の洞窟を満たしていた。男も女も、一言も言葉を発することなく
その場をぴくりとも動かない。

 ――雪山の裂け目に落下したのはもう十日も前になる。雪山登山の帰路、十四日目のことだ。
強烈な吹雪で登山隊のメンバーがその規律を失った時、雪山はまるでその期を窺っていたかのように
男の足をすくい、自らの胃の中に放り込んだ。だが自分の背丈の三倍はあったろう裂け目に落ちても、
男は運よく大きな怪我はしなかった。
 初めの三日は混乱しつつも希望のある時間だった。男と女は背中のパックパックに入っている所持品を整理したり、
自分の背丈と裂け目との距離を図って脱出する構想を練ったりと、アクシデントに対する危機的な感情よりも
挑戦登山の一環としてそれを受け入れる感情の方が勝っていた。自分たちの体に目立った外傷がなかったのも
冷静で居られた理由の一つかもしれない。
 五日を過ぎた頃から状況は急激に変化する。おおよそ全ての解決策を出しつくし、
加えて仲間の助けも全く無い中で、男と女の希望は徐々に溶かされていく。食料も減り、
健康を保つだけの燃焼物質が体から失われると、男と女は強烈な寒気に悩まされることになった。
一時でも寒さを忘れるため、男と女は体を交わらせることもあった。
だが体力がなくなり、寒さを感じる肌の感覚も飲み込まれてしまうと、やがてそれも止めてしまった。
 残りの五日は地獄だった。平静を保とうと必死になっている女に対し、男の理性は徐々に崩れていった。
降り止まぬ雪に対し唐突に叫び声をあげて暴れだしたり、分厚い雪山の壁にあても無く拳を打ち付けたり、
その行動は正気と狂気のぎりぎりの境をさまよっていた。女も初めは男の奇行を必死で止めていたが、
日が経ち、それも無駄と分かると男には構わなくなった。


242 :「鎖の端」 ◆Pj925QdrfE :2006/06/12(月) 02:18:01.47 ID:xxebWhoN0
 そして九日。女は意識を失って、洞窟の冷たい地面に倒れこんだ。女の体は紙のように薄っぺらくなっており、
倒れた時に鳴ったほんの小さな音に男が気付くのには、少々の時間を要した。
 「死んだのか」
 洞窟の温度に溶け込んでしまった冷たい男の声。
 「なんとかまだ生きてるわ」
 小雨の打ち付ける音のように小さな女の声。気丈を装っても、命の残り火が僅かであることは明らかだった。
 「ねぇ」
 「どうした」
 男は最低限の言葉を発する。そこに生への欲望以外の感情は無かった。
自らに残った僅かなエネルギーを、ただ生きながらえるためだけに使おうと、男は必死だった。
 「食物連鎖の頂点って、何だと思う?」
 「さあな」
 無愛想な男の顔を確認すると、女は少しだけ唇の端を吊り上げて、言う。
 「人類よ。集団で狩りをするようになってから、人類は地球における食物連鎖の頂点に立った。
 その繁栄の歴史を見ても、それは明らかだわ。だから、ずっと思い込んでたのよ……。
 だけど今日になってやっと気付いたの。上には上が居るって決まってることに」
 男は黙っている。
 「“寒さ”に、私は勝てなかった」
 未だ轟々と風は吹き、雪山は二人の言葉を遠慮なく飲み込んでいく。
食べかすとしてほんの少しだけ残った音だけが、男の耳まで届いた。
 「……それで、何が言いたい?」
 「私はもう駄目だから、あなたが代わりに証明して頂戴」
 一瞬だけ吹雪の勢いが弱くなったのだろうか。女の言葉は確かな輪郭を持って男まで届いた。
 「人間様が一番エライってこと」 
 そのまま女は温度を無くした。


243 :「鎖の端」 ◆Pj925QdrfE :2006/06/12(月) 02:19:06.34 ID:xxebWhoN0
 ――十三日目になる。俺は隣で凍っている女を眺めながら刻一刻と迫る最期の時を待っていた。
女の肉は削られ、ところどころ骨が見えている。言うまでもない、俺が食べたのだ。ナイフで切り出した肉は冷えて
石のように硬くなり、噛み砕いて飲み干すときにはただの砂利になっていた。
 人間の肉は不味い。どこかで聞いたことがある話だが、人間がここまで滅びずに進化してきたことは
その肉が人間の味覚に合わず、共食いという事象が滅多に起こらないということに起因しているらしい。
なるほどとも思ったが、結局食料を失って食べるものが人間しか無くなってしまった時には
人間は滅びてしまうのだろう、という逆説的な結論にたどり着いたところで俺は思索をやめた。
 末期である、と思う。最初の頃頭の中に浮かんでいたのは、頭上の裂け目から仲間たちのロープがするすると
下りてきて俺を救い出してくれる、なんていう楽観的で希望的な妄想だったのだが、最近は専ら
幼少時に暖かい川の水辺で遊んだことや、誕生日にロウソクの火を吹き消したことなんていう暖かい過去の出来事を
思い出すばっかりで、少しの希望も浮かんでこなくなってしまった。
そして昨日、隣で冷たくなっている女とのセックスまでを思い出した時、俺はついに死を覚悟することになった。
 俺は女の最期を思い出しながら、その骸を一瞥した。いつしか女の体は顔を除いたほとんど全てが白骨になっていた。
極寒の中ならば美しい輪郭は腐敗することも無いようだ。
 「くそったれが。貴様の思い通りになるものかよ」


 ――最後に残った理性を失う前に、男は女を削り取ったそのナイフで自らの喉をかき切った。
 流れ出す血は白い地面に新たなパレットを作る。男はどこか満足気な表情で広がる紅を見つめ、やがて意識を失った。
だが雪山はそれすら受け入れるかのように、僅かに残った男の体温を瞬く間に飲み込んでいく。



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