【 飴 】
◆Pj925QdrfE




706 名前:飴 ◆Pj925QdrfE :2006/06/04(日) 19:52:36.12 ID:QfJlSnKE0
恐ろしいものだ。一瞬で広がって、一瞬で全てを壊してしまう。
真実かどうかは、広まってしまった時点で霞の中、いや、ゴミ箱の中。
古今東西、話の種を血眼で捜している彼らにとって、その真相など気を置くところではない。
一瞬が恐ろしいように、彼らも一瞬が大切なだけだから。
何度目かはもう忘れたが、それゆえに僕はよーく分かっている。

「あなた、いい加減自分を餌にするのはやめなさい」
呆れた表情でコーヒーを注ぎながら、喫茶店の女店主である菜穂子は言った。
「君は良く知らないんだよ。一度やってみるといい。そこらじゅうの人間の目が僕のほうを向くんだ。
 羞恥や恐怖を通り越して、あれはもう一種の快感さ」
僕は差し出されたコーヒーをすすって、大げさに手を広げて天井を仰いだ。
橙色の電球が頼りない光を放っている。
菜穂子は大きく一つため息をついた。
「あなたと一緒にしないでちょうだい。生憎私はあなたほど打たれ強くないの」
「打たれ強いかどうかは問題じゃない。楽しむ気概があるかどうか、だよ」
淹れられたばかりの熱いコーヒーは僕の舌をぴりぴりと刺激する。
喫茶店には僕以外誰もいない。僕はカウンターから体を乗り出して菜穂子を見る。
「君のほうは最近どうなのさ」
わざと悪戯っぽい声をだして言ってやった。菜穂子は返事に困ったのか苦笑い。
「どうって……まぁ不自由しないくらいにやってるわ」
カップについた薄茶けた汚れをスポンジで正確に磨いて、洗剤を流し、
握ったまま腕を半周、水を切ってステンレスの籠に伏せて置く。菜穂子の、見慣れた美しい手際だった。
「あんまりじろじろ見ないで頂戴」
彼女の手はいつでも白く、みずみずしかった。
「そろそろお帰りになったら? 裏口は開けてありますから」
菜穂子はそう言って表のドアに目をやった。僕は彼女と目を合わせて、自然に浮かぶ笑顔を楽しんだあと
頷いて席を立って、裏口から店を出た。
「もうすぐ十二時よ」
閉まるドアの向こう側から、菜穂子の声が飛んできた。僕は裏口の隙間から少しだけ手を出して、
カウンターの彼女に手を振った。彼女は笑っている、ような気がした。


707 名前:飴 ◆Pj925QdrfE :2006/06/04(日) 19:53:11.51 ID:QfJlSnKE0
表のドアを開けて、大柄な男が二人、店に入ってきた。
「――失礼します。警察です。今日、このあたりで殺人事件が起こりまして。
 昼ごろ、このあたりで怪しい人物を見ませんでしたか?」
二人の男は胸のポケットから手帳を取り出して私に見せた。紛うことなき、警察手帳だ。
「……いえ、私は」
――そのような怪しい人は、見ませんでした。そう答えようかとも思ったが、
彼の悪戯っぽい笑顔を思いだして、私は笑顔で彼らに言った。
「そういえば、黒ずくめのコートを着た変な人が、さっき店の中を通ったような……」
店の中に一つだけある、大きな古い掛け時計をちらっと見て、私は言った。
長針と短針が、ちょうと時計のてっぺんで重なろうとしているその時だった。
「本当ですか! その男は何処へ――」
男達の一人が、声を大きくしたときだった。
その音にかぶさるように、大きな鐘の音。
一日が終わり、新たな一日が始まる。
古い掛け時計は、いまだ錆びることなく澄んだ音でそれを告げていた。

私は彼の残していったコーヒーカップを拭きながら、鐘の音に呆然とする男達を見て、言った。
「何か御用でしたか?」
男達は顔を見合わせて、お互いに何かを確認するように首をかしげたまま、黙っていた。
「よろしければ、コーヒーでも一杯飲んで行きませんか。夜遅くのお仕事、大変でしょう」
私の(精一杯優しく聞こえるように繕った)声に、男達は「何故だか」とても驚いた表情をしていた。
「いえ、捜査の都合もありますので、我々はこれで」
橙色の電球に照らされて、彼らの皺はすこし際立って見える。
男達のうちでも年配のほうが、申し訳無さそうに頭を下げて表のドアから出て行った。
閉まるドアの隙間から、男達がせわしなく、早口でなにやら喋っているのが漏れてきた。
男達の声が聞こえなくなるのとほぼ同時に、裏口が勢い良く開いて、彼が入ってきた。


708 名前:飴 ◆Pj925QdrfE :2006/06/04(日) 19:53:48.73 ID:QfJlSnKE0
「いや、美味しかった」
裏口を出る前より少し若返ったかのような彼の表情はとても柔らかい。そのままカウンターに
大きな音を立てて腰を下ろし、彼は悪戯っぽい表情で私に言った。
「コーヒーを一杯。今夜はまだ眠りたくない」
彼に笑顔を向けて、私は先程拭いたばかりのコーヒーカップを取り出す。
「やはり君もやってみるべきだ。例えるなら、そうだね。この世に生まれてきて、
 脂のたっぷりのったマグロの大トロを一度も食べずに死んでいく。君がやってるのはそういうことだよ」
「はいはい」私は笑顔のまま、カップにコーヒーを注いだ。
「ねえ、今日は皆に何て言ったの?」
目の前にカップを置くと、彼は本当に楽しそうな表情で言った。
「当ててごらんよ」
「“私は今日の昼、殺人を犯しました”ってとこかしら」
彼は目をぱちくりさせて私を見つめる。しばしの沈黙のあと、彼は至極残念そうな顔をして、言った。
「……よく分かったね」
そしてコーヒーをすすって、さっきと同じように、熱さに驚いている。相当興奮していたらしい。
そんな彼と目を合わせると、自然と笑顔がこぼれてくる。
「そんなに美味しいなら、私もやってみようかしら。最近の噂はすぐに広まっちゃうから、
 とりたてて困ってる、って訳でもないんだけど」
私がそう言うと、彼は目を輝かせて私の方へ身を乗り出す。
「沢山あるんだ! 色々教えてあげよう」



――彼等は今宵も噂に狂い、我らも今宵は噂に狂う。
“噂喰らい”の我らが紡ぐ、甘旨な飴をご賞味あれ。



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