【 引っ越しと浜千鳥 】
◆fSBTW8KS4E




36 :No.08 引っ越しと浜千鳥 1/4 ◇fSBTW8KS4E:08/04/13 18:00:11 ID:J0JysTY1
 カテーンを外した窓から射し込む朝日で引っ越しの日は始まった。昨日掃除したばかり
の洗面所で顔を洗い、用意していた私服に着替える。寝間着を開けてあった段ボールにい
れ、今度は別の段ボールから雑巾とバケツを取り出す。
 業者が来る三時までの八時間、やり残しの床拭きを終わらせるつもりだ。
 遠い記憶にあるリノリウムの床を思い出しながら体をかがめ、ベッドのなくなった広い
寝室から拭き始めた。
 毎朝この寝室の窓から見える、富士山を遠くにおいたビル群の眺めが好きだった。引っ
越し先のマンションからも富士山は見えたが、部屋の位置が高く、見下ろす感じの強い町
並みは好きになれるだろうか。
 寝室の床拭きを終え、今度はリビングへ移る。初めて自分の給料で買った家具は、この
部屋にあった大きめのソファアだ。北欧家具に詳しい友人が見繕ってくれたもので、少し
固い感触のする革の匂いが好きだった。引っ越し先でも使うソファアだが、これに座って
見ていたテレビとはおさらばになる。仕事仲間の人からプレゼントで、我が家も地デジ対
応となるのだ。
 木目調のフローリングの上を何往復もしていると、壁につけられたインターホンが鳴っ
た。
 立ち上がり通話のボタンを押す。
「シバヤマさん。おはようございます」
 ディスプレイには隣に住んでいる留学生のジョーイが立っていた。
「おはよう。今開けるから」
 そういってまた通話ボタンを押し、玄関へと向かう。ドアを押し開けるとジョーイはあ
りがとうございますと丁寧に礼を言ってあがった。
「椅子とかもうまとめちゃったから、座布団でごめんね」
 掃除途中のリビングへと案内して、座布団をひきジョーイを座らせる。
「何時頃に、引っ越し屋さんは来るんですか?」
 ジョーイに日本語を教えた人物は腰が低かったらしく、彼の日本語はとても丁寧だ。
「三時ぐらいかな。いままで、お世話になりました」
 彼の口調を真似て、お礼を言った。
「そうだ、渡すものがあったんだ」
 自分から呼び出しておいて、忘れては困る。私は仕事部屋から段ボールを一つ持ってきた。

37 :No.08 引っ越しと浜千鳥 2/4 ◇fSBTW8KS4E:08/04/13 18:00:31 ID:J0JysTY1
 ジョーイは目を輝かせている。
「開けていいですか?」
「いいよ」
 ジョーイが爪を器用に使い段ボールを開ける。中には私が集めていたマンガがぎっしり
と入ってある。
「バトルマンガばっかりだけど、いいかな?」
「はい。えーと、なんでしたっけ。めっそう、もないです」
 ジョーイが一番上にあったマンガを手に取りページをめくる。心底うれしそうだ。
「やっぱり、すごいですね。日本のマンガ」
「アメコミも私は面白いと思うけどな」
 以前読んだコウモリ男のマンガを思い出す。全編カラーで迫力があった。心を突き動か
されたマンガの一つでもある。
「シバヤマさん、浜千鳥のお話知っていますか?」
 ジョーイは満足そうにマンガを戻しながら聞いてきた。私は首を横に振る。
「昔々、日本にも海外商人さんがやってきた頃のお話です。そのころの日本の商人さんた
ちの間では浜千鳥が重要でした」
「高く売れる、とか?」
「いえ、違うんですね。昔の日本に英語はありませんでした。ですので商人さんたちは異
国の人が何を言っているのかわかりません。ただ、日本人の耳は聞き取ることが、すごい
よくできます」
 するとジョーイは深夜番組のあるコーナーのテーマ曲を口ずさんだ。
「空耳ってこと?」
「はい、英語で商品の値段を聞くときに『how much dollar』と言いますが、それを昔の
人は浜千鳥って言って覚えたんです」
 頭の中で、浜千鳥、浜千鳥と繰り返してみる。確かに聞こえるかもしれないな。
「なるほどね。それで、それが日本のマンガとどう関係しているの?」
 ジョーイはうなずいて、咳払いを一つした。
「日本のマンガと私の国のコミックで一番違うのはですね、擬音、です」
「どすーん、とかすぽーんみたいなの?」
「はい。わかりやすく言うと、マンガの中で人が眠ってるとしますよね。アメリカンコミッ

38 :No.08 引っ越しと浜千鳥 3/4 ◇fSBTW8KS4E:08/04/13 18:00:47 ID:J0JysTY1
クの場合は『ZZZ』を背景に書きます。私たちにはそう聞こえます。そして日本のマン
ガの場合は『ぐーぐー』だとか『すぴー』とかありますよね。アメリカンコミックでは、
いびきも浅い眠りのときも同じ『ZZZ』です。それで大きさを変えたりするんです。で
もですね、日本語を勉強していくうちに、眠っているときの音はたくさんあることに気づ
きました」
 熱心に話す彼を見ながら、懐かしくなる。夢を抱いてこの部屋にきたときのことを。あ
の頃の僕も熱心にいろんなことを語っていた。
「だからですね、浜千鳥の耳をもった日本のマンガには、アメリカンコミックにはないリ
アルがあるのです。凄いと思いませんか?」
 熱弁をふるう彼は、誇らしげに尋ねてくる。
「擬音か、考えたこともなかったな。確かに、凄い」
「でしょう、そこに目を付けるとですね、今日この部屋に射し込んでいる朝日にだって音
があるんです」
 窓を見つめる。さんさんとした朝だ。
「ちょっと待っててくれ。もう一つ、渡すものができた」
 また仕事部屋に戻り「マンガ(自分)」と書かれた段ボールを持ち上げる。そしてジョ
ーイのもとへ戻り、床におく。
「ずっと黙ってたけど、私は、漫画家なんだ」
 胸ポケットから取り出したボールペンを使いながら、ガムテープを開けていく。
「私の作品だ。よかったらもらってくれ」
 ジョーイが驚いた顔をしながら段ボールの中を見つめる。
「シバヤマさん、僕、これ持っています」
 彼が軽快にそんなことを言ったので、私も驚いてしまう。それから目が合って私たちは
笑い出した。
「手塚治虫の次に好きです」
 ジョーイはそう言いながらまた笑い、私もそれに続く。ここ最近、売れっ子作家として
もてはやされながら、素直に喜べなかった私にとって、久しぶりに愉快な出来事だった。
 隣の部屋へ段ボールを運ぶのを手伝ってから、ジョーイとさよならを交わした。君が隣
人でよかったよと私が言うと、彼は丁寧な発音で「me too」と返事をした。
 部屋に戻るとまた床拭きを再開した。

39 :No.08 引っ越しと浜千鳥 4/4 ◇fSBTW8KS4E:08/04/13 18:00:59 ID:J0JysTY1
 昼飯は外に食べにいこう、そう考えながら、雑巾はしゅーっとフローリングの上を滑っ
ていた。

 了



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