【 レン 】
◆D8MoDpzBRE




31 :No.07 レン 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/13 14:50:12 ID:gT7wr8/r
 僕はそのキャラクターをレンと名付けた。
 レンは女の子だ。突如としてA4のルーズリーフに産み落とされた。その時の僕が十四歳、彼女も十四歳。僕の手によって作り出された小さな落書きが始まりだ。
 生まれた瞬間から彼女は既に心を持っていた。少しワガママで、寂しがり屋な心を。
「初めまして、かな。私はあなたの何から何まで知っているけどね」
 レンの言葉は、ルーズリーフの端からあふれるようにして僕の耳に届いた。突然のことであったにも関わらず、僕の眉はピクリとも動かなかった。僕は静かに彼女の存在を受け入れたのだ。
 人はこれを幻聴というかも知れない。レンの言葉は僕以外の誰にも届くことはなかったから。しかし彼女は僕にとって、これ以上とない素敵な幻だった。
「君とお話が出来て、僕はとてもうれしいよ」
 僕はレンのことを、特別美しく可憐に描いた。彼女に綺麗な輪郭を与えるために、そして彼女に見合った世界を描くために。僕は来る日も来る日もデッサンの修練を繰り返した。
 たちまち、僕は何でも書けるようになった。
 二ヶ月が過ぎた頃、レンは赤道直下ののジャングルで寝ていた。そこは、かつてのようなルーズリーフの上ではない。
 その頃の僕は、レンを描くための画材も時間も惜しまなかった。ケント紙や上質紙を買い求めて、様々な色彩で飾った。
 淡い水彩が、肌の白いレンにはとても良く似合った。
「びしょ濡れになってもいいから、雨を降らせてちょうだい。ここは暑くて死にそう」
 レンがそう言えば、僕は笑いながらそこに無数の雨滴を描き込んだ。二時間も経てば、透き通るように降り注ぐスコールが熱帯樹林の葉を柔らかく叩いていた。
 僕の絵は、いつだって自在に形を変えることができる。
 僕は描き続けた。レンは永遠に歳を取らない。徐々に美しく完成される。
 レンは生き物のように美しくなる。その肌も髪も瞳も。人はそれに恋せずにはいられない。
 そうしてレンは、僕の中でフィクションを超えた。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 僕が大学生になったとき、まず手に入れたものがある。一台のパソコンとペンタブレット、そしてスキャナーだ。
 入学祝いに親にねだって買ってもらい、一人暮らしを始めた下宿に運び込んだ。
「つまり私はパソコンに移されるのね」南国のビーチで水着姿のレンが言った。
「そうさ」慣れない手つきでスキャナーをUSBポートに接続しながら、僕は答えた。「新しい世界は0と1の世界だ」
「私、アナログの世界のこと結構気に入ってたんだけどなあ」
「君が望めばアナログだって描き続けるさ」
 レンを描いた絵画は、軽く数百点を数えた。僕はそれらから丹念に埃を落としながら、順繰りにスキャナーにかけた。一晩かけて。
 スキャナーのウインドウに余るような大きな絵もあった。残念ながら、これらについては取り込まなかった。仕方がないだろう。分割して取り込んだのでは、合わせたときに細かいズレなどが出てきてしまうのだ。
「住み心地はどうだい?」

32 :No.07 レン 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/13 14:50:37 ID:gT7wr8/r
「悪くないみたい」ヨーロッパの古城を背景に、ワンピース姿のレンが言った。僕はこの絵をパソコンの壁紙にしていた。「どっちみち、私が絵の中で生きているという事実は変わらないし」
 その言葉で僕は安心した。
 ペンタブレットの設定に取りかかった。これは、操作パネルを通じてパソコン画面上に、ダイレクトに絵が描けるというデジタルツールだ。大きな板の形をしたパネルと、専用のペンとで構成されている。
 これを用いた場合、描画したものが操作しているパネル上ではなくて直接パソコン画面に現れるから、最初のうちは戸惑うことが多い。手元と画面が離れているのだ。
 しかしそんな不自由さも、僕にとっては一瞬の出来事に過ぎなかった。ひとたびこの環境に慣れれば、むしろ効率は上がった。パソコン上なら容易に修正を行ったり配色を操作できる、という利点もあった。
「あなたって、ある意味天才ね」
「君のためさ」僕は言った。「僕には絵を描くことくらいしかできないからね」
 程なくして、一枚の絵が仕上がった。深い針葉樹森の中、レンが倒木の上に座っている絵だ。苔むした木肌は黒くくすんでおり、木が朽ちて久しいことを物語っている。遠い背景に、連綿と続く雪の山脈を描いた。
「ちょっと寒いかな。コートを着せて」
 僕は三分で毛皮のコートを描き足した。だいぶマシね、とレンは言って笑った。
「そうだ、レン」僕は膝を叩いて言った。
「何?」
「君のことをホームページに載せてもいいかい?」
「流行のブログってやつ?」レンは、僕が知っていることなら何でも知っている。「いいよ。ただし、裸の絵はやめてね」
「分かってる」
 僕は、膨大な数に上る絵を完成した日付順に並べ直した。そして、公開に耐えうる作品を選別した。ルーズリーフの落書きなどは、とても他人には見せられない。
 記念すべき一枚目は、例の熱帯樹林の絵に決まった。僕はこの絵のタイトルを『驟雨』とした。「しゅうう」と読み、にわか雨という意味を持つ。
「懐かしいな、この場所」熱帯のスコールに打たれながら、レンは言った。「柔らかくて涼しくて、心が綺麗になったような気がするの」
 僕はこの絵をホームページのトップに飾った。人目に触れるのに相応しい絵だと思った。
 他に数点、ホームページに絵を載せた。
 そして反響を待った。

『不思議な絵ですね。癒されます』
『繊細で独特なタッチが癖になりました! 女の子には誰かモデルがいるんですか?』
『うわー、上手いですね。今度、是非ファミ&パン(何かのアニメらしい。僕は知らない)のキャラを描いてください』
 反応はささやかながらも、寄せられたコメントは概ね好意的だった。しかし、それはあくまで地味なムーブメントという印象をぬぐえなかった。そもそもネット上を探せば、僕よりも絵が達者な人間くらい掃いて捨てるほどいるのだ。
 質問に対しては「特定のモデルはいません」「アニメはよく分からないので、すいません」と回答した。つまらない人間だと思われたかも知れない。
 結局のところ、レンをネット上に公開したことは、僕にわずかばかりの自己満足をもたらしたに過ぎなかった。
 相変わらず、僕はレンを描き続ける生活に没頭し、その他の事柄に余り関わらなかった。無論、社会生活を無難にやり過ごした上でのことである。
      

33 :No.07 レン 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/13 14:51:01 ID:gT7wr8/r
 そんなある日、レンは僕にある要求を突きつけてきた。
「ねえ、私にも喋らせて」
 僕は軽いめまいを覚えた。レンの意図するところが皆目分からなかったためである。
「十分じゃないか。君は僕を相手に、口うるさすぎるほどに喋っている」
「いいこと?」レンが口を尖らせた。「私が話しかけられる相手は、あなたしかいないじゃない。いい加減うんざりなの、こんな退屈!」
 僕は頭を抱えた。「君はいったい、何がやりたいんだ?」
「ただ、言葉を伝えたいのよ。あなた以外の誰かに。それだけなの」
 そうして、何が何やらよく分からないうちに、僕はレンの言葉をインターネット上に放った。モノクロのデフォルメしたレンの絵に吹き出しを付けて、その中に台詞を書き込んだ。レンが書き込んで欲しい、と言った台詞をそのままに。
『皆さん、こんにちは。名乗るのは初めてかな? レンと言います。飼い主(笑)に無理を言って、ホームページ上にワンコーナーをもらいました! 辛いときには、一緒に語り合いましょう。よろしくね』
 そのコーナーは、こんな書き出しと共にスタートした。
 さらに僕は数ページを描き足した。上野公園をスタート地点として、ただ気の向くままに散歩をしながら、レンが誰に話しかけるでもなく独りごちる漫画を。
 台詞は当たり障りのない一般論で埋め尽くされた。頑張っていれば必ずチャンスは巡ってくるだとか、誰かと繋がっているって感じられればもう一人じゃないよ、とか。そこにはストーリー性など欠片もなかった。
 そして最後には、レンは東京大学のキャンパスにまで進入し、かの有名な安田講堂の前にある広場の前に腰を下ろして言うのである。
『新しい一歩を、私と一緒に踏み出そうよ!』
 こんなことに何の意味があるのか、当初僕には全く分からなかった。せいぜい、レンも寂しかったのだろうとか、その程度にしか考えていなかった。
 そして、ひどく馬鹿げていると思った。

 レンのメッセージは、日を追うごとに扇情的になった。
 いつかこの世界をリア充の手から取り戻そうとか、生き恥はかき捨てろ、とか。相も変わらずストーリー性も脈絡もない漫画の吹き出しの中に、レンのそうした言葉は掲載された。
 断っておくが、普段のレンはそのようなことを言わない。僕に対して、一度たりとてそのような類の雑言を吐いたことはなかった。僕らの関係はここまで穏当で良好だったはずだ。
 しかし、レンの暴走はとどまることを知らなかった。
『集え暇人、アキバを燃やせ! ――平成二〇年四月二十七日(日)正午、旧L△○×・コン館前。雨天決行』
 僕は、このメッセージの掲載については難色を示した。余りに挑戦的で馬鹿にしているからだ。加えて、見ず知らずの人間と秋葉原で合流するのも気が進まなかったし、そもそも秋葉原を燃やしたいなどと思わなかった。
 考えてもみるがいい、秋葉原を燃やして何になると言うんだ?
「そんなの、方便に決まってるじゃない」レンが冷ややかに言った。「燃やすのは人の心よ」
「当日、僕にそれをやれと言うのかい?」僕はつい声を荒げた。「そして、それに何の意味がある?」
 廃墟に成り果てたギリシャ式の神殿を背景に、レンは腰を下ろしていた。奥には、今にも雷鳴を轟かせんばかりに黒ずんだ雲と、それを映し込んで底なし沼めいた地中海が広がっている。つい先日完成した絵だ。
「私をそこに連れて行って。あなたが完成させた私の全てを。数百枚に渡る私の記録の全てを、一枚と余さずに連れて行って欲しいの。そこで全てが分かるはずよ」
「裸の絵も含まれるぞ、いいのか?」
「いいの」

34 :No.07 レン 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/13 14:51:18 ID:gT7wr8/r
 僕はレンの言葉を受け入れた。レンが要求した挑戦的でかつ扇情的なメッセージを、大々的にホームページに掲載した。
 絵画の整理を行った。旧作の一つ一つを大きめのクリアファイルなどに収納し、デジタル絵画については印刷屋で綺麗にカラープリントした。
 そしてそれらを大きなキャリーケース二つに分けて詰めて、僕は静かに決行の日を待った。

 四月二十七日、晴れ。
 僕は露店でも出したかのように、キャリーケースを広げて集合場所近くの一角を占有し、その場に佇んでいた。文句を付けようがないほどの快晴が上空に広がっている。
 行き交う人は、僕に対してさしたる関心を払わないようだった。そのために今日が決行の日であることをどうにも実感できなかった。
 レンは無言だった。どの絵を見渡してみても、レンは重い沈黙を貫いていた。朝からずっとこの調子なのだ。それ故に僕は内心に猛烈な不安を抱え込んでいた。当たり前のことだろう。
 そうこうするうちに約束の正午を過ぎた。
「あの、あなたが絵師さんですか?」一人の青年に声をかけられた。年齢的には大学生くらいだろう。もっとも、実際に大学に通っているかどうかまでは見分ける術がない。
「ええ、そうですよ」
 僕がそう応じると、その青年は仲間とおぼしき連中二、三人に手招きをして呼び寄せた。そして、僕を取り囲むようにして座った。
 その後、何やら陰気な雰囲気を漂わせている女が一人、僕らの輪に加わった。それきり、この奇妙な集団は身じろぎ一つしなかった。僕にとってこの状況は、余り居心地のいいものではなかった。
「あ、あの」一人の男がしびれを切らしたかのように声を上げた。「まだ始まらないんですか?」
「もう少し待ってください」
 これはおかしな状況になったぞ、と僕は思った。肝心のレンが一言も口を利いてくれないので、僕としても身動きが取れないのだ。
「ねえ、君」中年の男に声をかけられた。家族連れなのだろう。近くには妻と思われる女性と子供が二人いた。双子の兄妹に見えた。
「この絵を一つ売ってくれないか?」中年男性が言った。
「売り物じゃないんです」
「売り物じゃないのか?」
 僕たちが会話しているそばで、子供たちが「これがいい」「いや、これがいい」などと言い合っていた。仕方なく、僕は子供たちが指し示した二枚を彼らに渡した。
「お金は要らないから、大切にしてくれよ」
 ワーイ、ワーイと子供たちが歓声を上げながら走り去った。「どうも、ありがとう」と、中年男性が頭を下げ、家族の後を追いかけるようにして歩き出した。
 これが連鎖の始まりだった。
「私、皇帝ペンギンの絵がいいわ」陰気な女がつぶやいた。「ほら、あったでしょう? レンが皇帝ペンギンに囲まれてる例のやつ」
 僕はその絵を三分かけて探し出し、その女に渡した。
「ありがとう」と言い残し、女は去っていった。
 そこから行列が途切れることはなかった。
 タダで絵がもらえるという情報がその場で伝播したのか、ぞろぞろと人が集まってきたのだ。最初からいた三、四人組もそれぞれに気に入った絵を手にとって、満足げに帰って行った。
 この奇妙な輪に加わるのに気後れしていたのか、遠巻きに僕らを見ていた人たちも引き寄せられるようにやって来た。その内の多くが、レンのことも僕のホームページのことも知っていた。案外、野次馬の中にもいるものだ。

35 :No.07 レン 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/13 14:51:34 ID:gT7wr8/r
 絵は飛ぶように撒かれた。文字通り自画自賛するようで恐縮だが、綺麗な額縁に入れて居間に飾ってもいい程度の値打ちが僕の絵にはあった。タダで手に入るのなら、という気持ちも手伝ったのだろう。
 そうして日が暮れかかった頃には、僕の手元には一枚の絵も残らなかった。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 一枚だけ、誰にも渡すことなく手元に残した絵がある。それは『驟雨』と名付けられたジャングルの絵だ。

 その日を境に、レンが僕に向かって話しかけてくることはなかった。僕は幾度となくレンとの交信を試みたけれども、それらは全くの徒労に終わった。

 僕は、レンのために立ち上げたホームページを閉鎖した。しかしその外側で、レンを扱ったホームページが登場し、瞬く間に爆発的に増えた。
 いずれもが、僕がかつて描いたような奇妙な漫画を掲載していた。ほとんどの絵は僕よりも下手くそだったが。

 僕は思う。最初から分かっていたことだ、と。レンは僕自身の願望だったのだ。より正確には、葛藤と言った方がいいかも知れない。
 僕は彼女の存在を追い求めた。形ある彼女の存在を。あらゆる絵の中に、あらゆる季節を通じて僕はレンを描いた。
 そして今や彼女は存在している。元々僕の理想に過ぎなかった彼女は、絶えずその形態を変えながら世界中に拡散しているのだ。それ故、レンは生きていると言ってもいい。
 僕の内なる葛藤は消えた。新しく生まれた葛藤は、新しいレンを生み出さなかった。それだけのことだ。
 だから、僕はこの物語をやめようと思っている。二人の物語だと思っていたそれは、結局は矛盾を内包した一人の物語に過ぎなかったからだ。
 そして、その矛盾は解決したのではない。永遠に解決の手立てを失ったのだ。

     



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