【 誇り高きその名は、一輪のサルビア 】
◆wDZmDiBnbU




16 :No.04 誇り高きその名は、一輪のサルビア 1/5 ◇wDZmDiBnbU:08/04/13 00:05:32 ID:00/veSaQ
 また転んだのか、とため息をつかれた。
 体質なんだよ、と返す僕に、サルビアはつまらなそうにあくびをする。滑り台の階段に寝そ
べったまま、「情けないやつだな」と投げやりな返事。
「私なら、この遊具の一番上から落ちても、足から着地できる自信があるがな」
 と、偉そうにしっぽを伸ばすサルビアの言葉は、まあ当たり前のことだった。どんなに高い
ところから落ちてもちゃんと着地できるのは彼女の特技で、だってサルビアは猫なのだ。と、
その点を指摘してやると、サルビアは決まって不機嫌そうにヒゲを揺らす。
「猫とは失敬だな。今でこそ猫にその身をやつしているが、私は誇り高き軍人なのだ」
 そう言って前足をぺろぺろと舐めて、おもむろに顔を洗い出すからサルビアはやっぱり猫だ
と思う。表面上はのんびりした風に、でも顔だけはそっぽを向けて、
「やむを得ん。いくら私といえ、習性にだけは逆らえんのだ」
 だなんて恥ずかしがるところを見ると、とりあえず「誇り高い」というところだけは本当ら
しくて、そしてそれがいかにも猫らしくて僕はついつい笑ってしまう。不機嫌そうに黙り込む
サルビアに対し、僕は一言お詫びを述べて、そしていつものように物語を話して聞かせる。
 学校の終わったあと、夕暮れの公園の、いつものサルビアとの会話。
 興味なさげにそっぽを向いたままのサルビアは、ときどきヒゲをぴくぴくと上下させて、た
まにしっぽをピンと張ったりする。僕の話に聞き入っているのは明らかで、そして日が暮れる
までにサルビアは、ちゃんと僕の膝の上に乗っている。僕の聞かせてあげる話は、いまサルビ
アに不足している戦いの物語だ。といっても、僕にそんな経験があるはずがない。お話の締め
くくりで、僕はサルビアにいつもの言葉を継げる。
「猫も漫画が読めたらいいのにね。そしたら僕が喋らなくても、自分でお話が読めるのに」
 サルビアはいつも「興味ないな」と返して、そして黙り込む。そのはずだったのに、どうし
てだろう。今日は初めて、僕にその続きを聞かせてくれた。
「貴様の口から聞くのが面白いのだ、浩一。気付いているか? 漫画の話をしているときの貴
様は、とても楽しそうで、見ているこっちも胸が躍るのだよ」
 少し意外な返事だった。サルビアは、きっと僕自身のことになんて興味がないのだと思って
いた。ただ毎日、たまたま公園で顔を合わせるだけの――それもごく普通の高校生である僕と、
なぜか喋ることのできる奇妙な猫である、彼女。そういえば、彼女はどんな毎日を送っている
のか、僕はサルビアのことに興味が出てきた。
「今日は駅まで行ってきたぞ。人が多いな、あそこは。流されて、帰り道を見失った」

17 :No.04 誇り高きその名は、一輪のサルビア 2/5 ◇wDZmDiBnbU:08/04/13 00:05:53 ID:00/veSaQ
 あまりに可愛らしい答えだったので、僕は思わず吹き出してしまう。笑うな、と不機嫌そう
に目を閉じる彼女に、僕はどうして駅になんか行ったのかを訊ねてみた。
「貴様は、いつもあの駅から高校に通っているのだろう? ……少し、興味があってな」
 そういって、サルビアは僕の頬にできた傷をぺろりと舐める。舌がざらざらして痛くて、傷
口にずきんと染みた。なんとなく居心地の悪いものを感じて、僕はコンビニの袋から肉まんを
取り出す。すっかり覚めてしまったけれど、でも猫舌にはこれくらいが丁度いい、らしい。サ
ルビアが鼻をすんすんと鳴らして、落ち着きなく立ち上がるのがわかった。
 半分にした肉まんにサルビアがかじりつく。僕はそれを見ながら、残り半分を口にくわえる。
じゃあね、と手を振ると、サルビアがしっぽを一振りして答えた。日の暮れた住宅街の中、日
課を終えた僕は、一人家路につく。でもその日は、少し事情が違っていた。公園を去る僕の背
中に、なんの迷いもない、彼女らしいはっきりとした言葉が響く。
「浩一。貴様は、どうして戦わない?」
 答えることは、できなかった。見透かされている、そう思い、頬が赤くなる。気付けば、僕
は駆けだしていた。また僕は――ついにサルビアからまで、逃げ出したのだ。
 頬にできた傷。なにもないところで転ぶ体質だなんて、嘘だった。
 僕は、しばらくその公園に、近づくことができなくなった。

 学校は、正直を言えばあまり好きじゃない。
 だからって、通わないわけにもいかなかった。苦しい家計の中、私立の進学校へ通うのを許
してくれた両親の手前もある。なにがあっても、僕はこの高校には通いとおさなければいけな
かった。
 ――たとえ、不良グループにいじめられていたとしても。
 どうしてこんなことになったのか、思い当たるフシがないわけじゃない。僕は人と接するの
が苦手で、気の利いた面白い話のひとつもすることができない。僕にある話題といえばせいぜ
い漫画のことくらいで、それが彼らの趣味に合わないのかもしれない。でも、原因なんて考え
ても仕方のないことだった。
 長い、長い昼休み。僕は毎日、彼ら専用の遊具になる。
 からかいの言葉を浴びせられ、こづかれて――だんだんとエスカレートするその悪意は、い
つの間にか拳や蹴りへと代わり、抵抗のできない僕はサンドバッグ同然だった。転んだ、なん
て傷じゃないことは、今にして思えば見え見えの嘘だったのだと思う。閉ざした心の中、サル

18 :No.04 誇り高きその名は、一輪のサルビア 3/5 ◇wDZmDiBnbU:08/04/13 00:06:10 ID:00/veSaQ
ビアの言葉を思い返して、僕の胸がずしりと重くなる。
『――どうして、戦わない?』
 戦う、だなんて。そんなこと、一体どうすればいいのかわからない。彼らは強く、数も多く
て――いや、それ以前に、僕自身が怯えているのがわかる。立ち向かうことなんて出来るはず
がない。剥き出しの遠慮のない悪意を前にして、真っ直ぐ向き合える人間なんて、一体どれほ
どいるのだろう。そんなのは漫画の中だけの綺麗事に過ぎなくて、そして僕は、漫画の主人公
たちとは違う。なにもできない。戦うことも、立ち向かうことだって、できるわけがない。
 脇腹に、強烈な一撃。呼吸が止まって、涙に目が滲む。僕の無様なうめき声に、満足そうな
彼らの嘲笑。気が済んだなら、早く止めてくれればいいのに。そのためならどんな無様な醜態
だって演じてみせるのに、それでも彼らの暴力が止むことはない。昼休みいっぱい、僕は毎日、
地獄を見る。
 それはもう、卒業まで絶えるしかない――と、そう、思っていたのに。
「それで満足なのか、浩一?」
 滲む目に、逆光が眩しい。振り返る彼らの視線の先には、一体何があるのだろう。いや、僕
にはわかっていたはずだ。聞き覚えのあるその声は、この数日、決して僕の頭から離れなかっ
た。
「浩一、貴様の優しさ、私は嫌いではない。でもそれだけでは切り抜けられぬこともある。貴
様も一個の人間であるなら、矜恃の旗を手に掲げ、戦え。さあ――なぜ、立ち上がらない?」
 ひたひたと迫る小さなシルエット。サルビア。猫であり、誇り高き軍人であり、そして僕の
友人。彼女の毛が逆立っているのは、間違いなく臨戦態勢の証。そんな彼女の様子に気付かな
いのか、そしてその『言葉』も、どういうわけか聞こえていないのだろうか。猫だぜ、なんて、
不用意に手を伸ばす、不良グループの一人。
「――私に触れるな、下郎!」
 飛び上がるシルエット。それが空を裂いて、爪が太陽に閃いた。
「いてえっ! ――っく、こンの、クソ猫!」
 顔を抑えながらの、大振りの蹴り。小さなシルエットが風に舞い、ひらりとその一撃をかわ
す。飛び上がり、再び顔面に爪の一撃を食らわせたあと、飛び跳ねるようにこちらへと駆け寄っ
てくる。黒のつややかな毛並み、細くすらりとしたバランスのいい肢体。巨大な人間たちを前
にしても、堂々と佇む四つ足の彼女からは、確かに誇りと、そして戦う意志が見て取れた。
「私の名は、サルビア。高貴な花の名であり、そして大切な友人から与えられた栄誉ある名だ。

19 :No.04 誇り高きその名は、一輪のサルビア 4/5 ◇wDZmDiBnbU:08/04/13 00:06:27 ID:00/veSaQ
この名の下に蛮勇を晒し、死を賜りたい者は遠慮はいらぬ。相手になろう、見事この爪の芥と
してくれん。よいか――我が名はサルビア、高貴なる軍人の名なり!」
「にゃあにゃあうるせえ、このドブ猫がっ!」
 つかみかかる不良の突進を避け、前足で華麗な一撃。ときに素早く走り回り、巨大な敵の同
士討ちを誘う。まるで漫画の世界のような、僕の憧れた誇り高き軍人、一人の戦士――いまの
彼女は、小さな猫に過ぎないのに。悔しくて、胸に何かがこみ上げて、足が震えた。それでも
僕は、いつの間にか、立ち上がっていた。
「うわあああああああああっ!」
 戦い、なんて呼べるものじゃない。無様な、無鉄砲な突進。それでも、意外なことに彼らは
ひるんだ。馬乗りになって殴りかかる、その僕に横合いから蹴りが飛ぶ。もろに食らったのに、
でももう、痛くもかゆくもない気がする。僕は、戦うことに決めた。それに、いまは、援軍が
いる。心強い、誇り高き軍人の姿が、僕には見える。
「お前ら、彼女に手を出したら、絶対に許さないからなっ!」
 泣きわめきながら飛びかかる僕に、さしもの不良たちも手を焼いたみたいだった。「なんだ
こいつ!」「おい、めんどくせえ、もう行こうぜ」。そんな言葉が聞こえて、そしてしばらく
経った気がする。気付けば僕は地面にへたり込んで、誰もいない校舎裏に一人でいた。いや、
一人じゃない。僕の側には、彼女がいる。
「サルビア!」
 ふらふらと覚束ない足取りの彼女。もしかして、どこかやられたんじゃないか――ゾッとし
て彼女を抱きかかえる僕。でも彼女は、ぺろりと僕の頬を舐めた。舌がざらざらして、傷口に
染みる。
「なに、ヒゲを引っ張られたのだ。決闘の作法も知らぬ野蛮人どもめ。抜けてしまったぞ」
 彼女の言葉に、僕は思わず吹き出した。よくここまで来れたね、という僕の言葉に、サルビ
アは「電車に乗るのは骨が折れたぞ」と返す。でも、どこかばつの悪そうなその態度に、僕は
少し首を傾げた。申し訳なさそうな声で、彼女は続ける。
「すまんな、事情も知らずに偉そうなことを言った。貴様は戦っていた。どれだけ暴力をうけ
ようと、奴らの前にその身を晒し、そして耐えることが貴様の戦いだったのだな。なぜ戦わな
い、などと、知ったようなことを言ってしまった。非礼を詫びよう」
 猫らしからぬ仕草で頭を垂れるサルビア。僕は首を横に振った。戦ってなんていなかった、
本当は、立ち向かうことが怖かっただけだ。

20 :No.04 誇り高きその名は、一輪のサルビア 5/5 ◇wDZmDiBnbU:08/04/13 00:06:45 ID:00/veSaQ
「でも貴様は、立ち向かえただろう? 私の加勢に来てくれた。私は軍人だが、ただ戦争ばか
りをしておるわけではない。戦うのは、守るべきものがあるからだ。貴様も、そうだ」
 あくまで真面目な口調だったのに、でもサルビアは前足を舐めて、顔を洗う。そうだね、と
笑う僕に、「へらへらと気持ち悪いやつだな」なんて返事が返る。いかにもサルビアらしい。
彼女を抱えたまま起き上がろうとして、「一人で歩ける」と抗議の声がかかる。放してやると、
彼女はふらふらと歩き出した。
「どうだ。これで、聞かせて貰った物語と、肉まんの恩は返せたか?」
 僕は首を横に振る。きっと、おつりが出てしまったような気がした。今日の肉まんは、少し
高級なものにしなくちゃいけない。僕の言葉に、サルビアが目を輝かせて振り返る。
「なに? そんなものがあるのか? なぜそれを早く言わぬ、貴様、黙っておったな!」
 しっぽをピンと立てて歩く、誇り高き軍人。友人でもある彼女の後ろに、付き従って僕は歩
く。漫画の中の英雄に、そしてそれそのものである彼女に、僕も少しは近づけただろうか。も
しそうなら、たまには報奨を貰うのも悪くない気がする。午後の授業のことは忘れ、僕はサル
ビアの後ろを歩く。彼女が駅で迷わないように、彼女と食べる肉まんのために。そして再び、
彼女に聞かせる物語のために。
「しかし、貴様の戦い方はまるでなっておらん。なんなら肉まんと引き替えに、私が指導して
やっても構わんぞ?」
 振り返る彼女は、戦場に咲く大輪の花。
 誇り高きその名は、一輪のサルビア。

〈了〉



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