【 40イヤーズ・ヴィンテージ 】
◆QIrxf/4SJM




93 :No.21 40イヤーズ・ヴィンテージ 1/4 ◇QIrxf/4SJM:08/04/07 00:59:09 ID:6ALZynw7
『理由はいらない』
 僕はロッキングチェアを揺らしながら、祖父の残した日記を読んでいた。
 要約すれば、このようなことが書いてある。
『今、好きな曲を聴きながら、紅茶を飲んでいる。椅子の揺れが、なんとも心地よい。孤独の無い一人の時間ほど、優雅なものは無いのだ。さて、紅茶の冷めないうちに、三日と短い期間ではあったものの、ここにピリアドを打つことにしよう。日記帳らしく、ね』
 なるほど、僕と祖父の考え方は似ている。物心つく前に亡くなってしまった彼の気持ちが、少しだけ分かるような気がする。
 目をつむれば、壊れたホーンスピーカーから祖父の聴いていた音楽が流れてくる。祖父はこの椅子に座って、その日に思った事をこの日記帳に記したのだ。鉛筆の文字は消えることなく、何年でも紙の上に張り付き続ける。
 僕は頁をめくった。
『妻に紅茶を淹れさせてはならない。彼女はどうも柔軟性に欠けるようである。考えもなしに生活している僕のことが、どうにも気に入らないらしい。いずれ、慣れてくれることだろう。何を言っても、僕たちは夫婦なのだ』
 止めると宣言しておいて、翌日には再開している。祖父はきっと、そういう人間だったのだろう。何も考えず、感覚を優先するのだ。
 僕はデスクに溜まった埃を指でなぞり、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜る。
『先日購入したリーバイス606の直しが終わった。つま先を立てなくては穿けないほどに裾を細めてもらった。あのボトムハウスのいいところは、直し料がかからなことだ。妻の知らぬ間に箪笥に入れておこう。それとなく、さりげなく、下から三段目に』
 僕は日記帳を閉じた。1945で外れた錠前を無作為な数字に変えて、日記帳のベルトにかける。デスクの引き出しを開けて、もとあった位置に戻した。
 ロッキングチェアが揺れる。
 規則正しく日光が降り注ぎ、埃だけが積もりゆく部屋に、僕は佇んでいるのだ。部屋に漂うほのかな香ばしさは、埃が焼けたからなのかもしれない。
 部屋はいたってシンプルだ。埃の溜まったデスクと箪笥、古家具として価値のありそうな本棚の三つしかない。長い年月をかけて嵌め殺しにされた窓硝子はくすんでいる。
 僕は箪笥に目を向けると、ロッキングチェアから降りて、下から三段目の引き出しに手をかけた。
「いい箪笥だな」と僕は口に出す。とても滑らかに開いたからだ。
 たくさんの洋服が、綺麗に畳んで敷き詰められている。それが、祖父のものばかりではないことがよく分かった。
 その中から一枚のジーンズを取り出して、目の前に広げてみた。ひどく細身だ。
 僕は部屋を出て、階段を下りはじめる。一段進むごとに、旧く立ち止まった世界から、現実に引き戻されるようだ。下りきって振り向けば、舞い上がった埃が、日の光を反射している。
 リビングに入ると、祖母が使い古されたソファの上に座って、本を読んでいた。
「もう、いいのかい?」
「うん。おじいちゃんは、素敵な人だ」僕は言った。「これは、おじいちゃんのジーンズだよね?」
 彼女の前に立ち、ジーンズを広げてみせる。
「右ポケットの裏側を見てごらん。繕った跡があるだろう? それは私が縫ったんだよ」祖母は続けた。「おじいちゃんの私物は、殆ど処分したよ。残したのは、私の思い出と、部屋だけさ」
「このジーンズ、貰ってもいいかな」
「おじいちゃんからの、成人祝いだね」祖母は静かに頷いた。「あの人はね、いい年をしてビートルズに熱狂していた。誰よりも細いジーンズを履いていた。お前のお母さんを寝かしつけた後、私は夜中の街に引っ張り出されたもんさ」
 祖母は嬉しそうに顔をほころばせた。ジーンズには虫食い一つ無い。
「紅茶? コーヒー?」と祖母が聞いてくる。
 僕は祖父の言葉を思い出した。「じゃあ、コーヒーが欲しいな。とびきり甘いやつ」

94 :No.21 40イヤーズ・ヴィンテージ 2/4 ◇QIrxf/4SJM:08/04/07 00:59:30 ID:6ALZynw7
「インスタントしかないよ」
 僕は祖母がコーヒーを淹れているうちに、ジーンズに履き替えた。祖父の言葉通り、つま先を立てて、思い切り引っ張ってやらないと足が通らない。ウェストは程よく緩み、腿から膝のあたりにかけて色が落ちている。
「ぴったりじゃないか」と祖母は言って、コーヒーをテーブルに置いた。「どこに行くのにも、そのジーンズだった」
「僕は、街の真ん中に行かなくちゃいけない。みんな、着飾っていくんだ」
「まだ、心を決められない?」
「僕は臆病なんだ」
「おじいちゃんは、百姓の長男のくせに、家を捨てて商売を始めた。そこにためらいはなかった。何も考えちゃいなかったんだよ。馬鹿だねえ。そこに惹かれた私も含めてね」
 祖母はにやりとして、僕の背中を叩いた。
「あんたはおじいちゃんによく似てる。そのジーンズ、とても似合ってるよ」
「ありがとう」僕は立ち上がって、口元を綻ばせる。「ねえ、還暦祝いには何が欲しい?」
「気が早いね。来年の話だ」祖母は笑った。「けどねえ、いい女は待っていられるんだよ」
 僕は彼女に、ジーンズを贈ろうと思う。

 翌朝、僕はスクーターにまたがって祖母の家を後にした。三時間ノコノコと進めば、僕の家が見えてくる。
 丁度、太陽が真上に昇ったころ、僕は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
 ブーツを脱いで上がりこむと、リビングのソファに寝転がる。
「あら、お帰り」言ったのは母だ。「お母さん、元気だった?」
「還暦は楽に迎えられそうだよ」
「それはよかった」
 僕は自分で紅茶を淹れた。ソーサーの上にティーカップを乗せて、足を組んで座る。
「スコーンがあるわよ」
「うん」
「ねえ、そのジーンズ」
「おじいちゃんの」
「そう」母は言った。「いっつもそのジーンズを穿いていたわ。私が小さかった頃、そのジーンズはお父さんの一部なんじゃないかと思ってた」
「成人祝いだって」
「お父さんはよく言ったわ。『これ、なんか気に入っているんだよね。だからずっと穿いてる。絶対に石鹸で洗ったりしないんだ。水をかけて静かに揉みほぐす。それか、乾かすだけ』」
「おじいちゃんらしいね」
「本当にそう。馬鹿みたいで、子供みたい。お母さんはお母さんで、照れ隠しの下手な女の子みたいな感じだったし、私がしっかりしなきゃって、十歳の頃には思っていたわね」

95 :No.21 40イヤーズ・ヴィンテージ 3/4 ◇QIrxf/4SJM:08/04/07 00:59:50 ID:6ALZynw7
 祖父が四十六歳で死んだとき、西暦はシンメトリーを刻み、僕は三歳だった。彼の姿は写真でしか見たことがない。暢気そうな人だった。
 六十八年製のリーバイス606。誰のものよりも細くなるように縫いこまれている。
「ところで、実際のところはどうなの?」
「なにが?」
「すっとぼけないで。パーティ、行くんでしょ」
「みんなは着飾っていくんだ」
「いいじゃない。明後日になってから、決めればいいわ」
「うん」
「お父さんたら、すごくわがままで強引だったわ」と母は言った。
 次の日、僕はロッキングチェアを買って部屋に置いた。祖父がかつてそうしたように、椅子を揺らしながら本を読む。
 ふと思い立ち、持っているレコードの一枚一枚にはクリーナーをかけて、針先の埃も丹念に取ってやる。
 セイム・ジーンズのEP盤に針を落としてやると、田舎の薫る軽快な三コードが聞こえてくる。
 窓を開けると、丁度いい風が入ってきた。
 部屋に篭って好きな音楽を聴いて、本を読んで紅茶を飲む。
 おじいちゃんからもらった、六十八年製のリーバイス606は履き心地が悪い。
 人生は同じことの繰り返しだ。人生が枠を飛び出しても、やっぱりどこかでぐるぐる回っている。
 僕はずっと、祖父の事を慕い続けていた。見覚えすらないけれど、今ではどこかにその存在を感じている。
 祖父は完璧じゃない。気まぐれに身を任せて、そればっかりに誠実な彼を、僕は素敵だと思う。
 四十六歳で祖父は死に、彼のジーンズを僕が穿いている。それが何よりの証拠だ。
 数居るミュージシャンたちには敬意を払う。彼らはどこにいても、僕の友達だ。
「何が起こるかわかったものじゃないわ」
 僕は本から目を上げて、部屋の侵入者に視線を向ける。
 姉がドアの側に立っていて、口元を吊り上げて僕のほうを見ている。
「パーティ、行くんじゃないの?」
「そりゃあ行く」僕は言った。「みんなは着飾って行くんだ」
 僕はきっと笑いものになる。そこらで芸を売っているピエロとどこがちがうんだ?
「彼女、待ってるよ」
 それだけを言い残して、姉は部屋を出て行った。
「うん。わかってる」
 ザ・ビューは歌い続ける。

96 :No.21 40イヤーズ・ヴィンテージ 4/4 ◇QIrxf/4SJM:08/04/07 01:00:14 ID:6ALZynw7

☆☆☆

 今日はパーティのある日だった。
 僕は何度も紅茶を飲み、家族の分のスコーンまで食べつくした。
 待っている人がいる。
 ジーンズに染み込んだ祖父の行動理念。パーティに出向く理由なんて、その程度で十分だ。
 夕方まで、僕はパーティに何を着ていくのかを考え続けた。
 六八年製のリーバイス606は四日間も穿きっぱなしだ。肌から離れていたのは、シャワーを浴びるときだけだった。
「街の真ん中に、皆は着飾って出かけていく。僕は着くずして出て行くんだ」
 祖父ならそうするに決まっている。 
 そんな気がする、それでいいのさ。
 僕は踊らない。人の間をかいくぐり、直線に進む。
 彼女は鏡越しに僕を見て、そして振り向くだろう。
 手を取り、そこから連れ出すのだ。
「ありがとう、おじいちゃん」
 僕は祖父のジーンズを穿いて、家を出た。



BACK−平安美人と天使のカステラ◆/7C0zzoEsE  |  INDEXへ  |  NEXT−時代◆jKdJ051mHQ