【 人の振り、我が振り 】
◆bsoaZfzTPo




84 :No.19 人の振り、我が振り 1/4 ◇bsoaZfzTPo:08/04/07 00:53:28 ID:6ALZynw7
 低い音を立てて、電車が揺れた。私が座っている席の反対側にある窓。そこを流れる景色が、
徐々に遅くなっていく。駅が近いのだ。
 電車が減速して行くときの感覚は、下りのエレベーターに乗っているときの感覚と似ている。
 乗り物に弱い体質は小さい頃から変わらず、定年を間近に控えたこの年になっても、私は自
動車免許を持っていない。本当は電車にもあまり乗りたくはないのだが、五駅離れた会社へ通
勤するためには、どうしても必要だった。
 エレベーターも苦手で、総務課のある四階へは階段で上り下りしている。おかげで、年の割に
足腰は強い方だ。
 電車が止まる瞬間、ごとんと揺れた。体勢が崩れて、私は隣に座っている人の肩へとぶつか
ってしまった。
「ああ、すみません」
 言葉と共に頭を下げたが、ぶつかった相手である男子学生は、参考書らしき本に視線を向け
たままだった。
 私はなんとなく居心地が悪くなって、視線を巡らせた。向かいの席には、少々腹の出ている女
性と、子どもが一人座っている。最初は親子連れにも見えたが、この駅へ着くまで、二人の間に
会話はなかったように思う。
 今も、子どもは窓へ身を乗り出すようにして駅の風景を見ているが、女性はそちらを気にする
そぶりも見せていない。
 他の座席も、学生や会社員で埋まっている。田舎の路線と言っても、家へと帰る乗客の多い
時間帯は、それなりに混雑する。この駅は近くに高校があるので、乗り込んでくる客のうち何人
かは、つり革へ掴まることになるだろう。

 空気の抜けるような音がして、電車のドアが開いた。四、五人が降りていった後、どやどやと
人が入ってきた。車内が一気に狭苦しくなったが、毎度のことだ。テレビなどに映ることがある、
都会のラッシュと比べれば、どうということもない。
 大量の学生達の後ろから、おばあさんが一人乗ってきた。世間的には自分もおじいさんと呼
ばれる年齢だが、私から見ても十や二十は上だろう。完全に腰が曲がっていて、その手はつり
革に届きそうもない。
 おばあさんは周囲を見回して、空いている席がないかを探しているようだった。ついさっきまで
はかろうじて残っていた空席も、今は部活帰りの学生達で埋まってしまっている。

85 :No.19 人の振り、我が振り 2/4 ◇bsoaZfzTPo:08/04/07 00:54:09 ID:6ALZynw7
 結局空いた座席が見つけられなかったおばあさんは、入り口のすぐ傍にある手すりに掴まっ
た。先ほど私が肩をぶつけてしまった男子学生の、すぐ右斜め前である。
 私はちらりと学生の方をうかがった。学生はおばあさんが傍に立ったことに気付いているのか
いないのか、参考書を睨み付けるようにしている。顔を上げもしない。
 はぁ、と小さくため息をついた。
 こういうときはやはり、近頃の若い者は、と言うべきなのだろうか。
 年配の人に席を譲る、というのは一般常識だと思っていたのだが、私の覚え違いだったのだ
ろうか。
 いや、しかし。昔はかくしゃくとした老人が多かったからなのか、年配の人へ席を譲るように
と、わざわざ教えられた記憶はない。
 記憶を探ってみるが、私自身、若い時分に年配の人へ席を譲った覚えはない。
 そう考えると、自分たちがやっていなかったことを、いかにも昔からやっていたという顔で若い
人へ伝えるというのは、何かが間違っているような気がした。
「おばあさん」
 気がつくと、私はおばあさんに声をかけていた。
「どうぞ、おかけください」
 立ち上がり、私が座っていた席を示す。
「あらまあ、どうもありがとうございます。よろしいんですか?」
「なに、足腰の丈夫さには自信がありましてな」
 そう言って笑いかけると、おばあさんはもう一度礼を言って、席に座った。
 私は何となく満足して、つり革に掴まった。
 人の振り見て我が振り直せ、とは良く言ったものだ。唯一の不安は、電車の揺れは座ってい
るよりも立っている方がきついということだ。酔わずに家まで帰ることができるだろうか。
 つり革よりは固定されている手すりの方がましだろうかと考え直して、まだ開いたままになって
いるドアの傍へ移動する。そこで、可愛らしい声に呼び止められた。
「おじいちゃん」
 振り返ると、さっきまで外を見ていた子どもが、私を見ていた。
「どうぞ」
 その子はひょい、と座席から降り、さっき私がしたのと同じように、自分の座っていた場所を指
し示している。

86 :No.19 人の振り、我が振り 3/4 ◇bsoaZfzTPo:08/04/07 00:54:36 ID:6ALZynw7
 私は思わず苦笑した。席を譲ったと思ったら、すぐさま譲り返されてしまった。
「ありがとう。良いのかい?」
「うん、お年寄りには、席を譲らなきゃ駄目なんだって」
 子どもは胸を張って答えた。私が席を譲らなくても、この子があと少し早く振り返っていれば、
きっとおばあさんに席を譲っていただろう。
 私はもう一度ありがとう、と礼を言って、席に座った。
 ほとんど同時に、発射のベルが鳴る。ドアが開いたときと同じ音を立てて閉じた。
 がたん、と揺れて電車が発進する。
 同時に、私の前に立っていた子どもの体がぐらっと傾いた。慌てて手を貸して、倒れないよう
に支える。
「大丈夫かい」
「へへ、転びそうになっちゃった」
 子どもはそう言って笑ったが、なんとも危なっかしい。やはりもう一度席を代わろうと言おうとし
たが、私の言葉よりも、少しばかり隣の声の方が早かった。
「ねえ、ぼく。おばさんの席に代わりに座ってくれない?」
 私の隣に座っている、少し腹が出ている女性だった。
「転びそうなの見てると、危なっかしくて嫌なのよ」
「ごめんなさい」
 子どもが女性に謝った。すると、女性はふっと顔を緩めた。
「良いのよ。これはちょっとしたおばさんのわがままと、自己満足なの。気にしないで」
「うん? うん、わかった。ありがとう、おばさん」
 たぶん、言葉の意味は良く分からなかったのだろうが、怒られているわけではない、ということ
は分かったようだった。子どもは、にこりと笑顔を作って、女性が座っていた席に腰掛けた。
 女性が私の前のつり革に掴まる。目が合うと、女性は少し照れたように笑った。
 少し太めの女性なのかと思っていたが、正面に立たれれば勘違いだったということがわかっ
た。女性が着ているのはマタニティドレスなのだった。
 私は三度、席を譲ろうと思った。少々不毛な席の譲り合いだったが、決して悪いものではなな
いだろう。

87 :No.19 人の振り、我が振り 4/4 ◇bsoaZfzTPo:08/04/07 00:54:59 ID:6ALZynw7
「あ、あの!」
 そのとき、少しばかり裏返った声が、私の正面から上がった。
「僕、立ちますんで。その、座ってください。すみません」
 男子学生が、言葉と同時に席から立ち上がった。その顔は耳まで赤くなっている。
 私は頬が緩むのを感じた。自然と顔に笑いが浮かんでしまう。
 近頃の若い者は、実はちょっと恥ずかしがり屋なだけなんじゃあないだろうか。
 電車がごとごとと揺れる。揺れを心地よく感じたのは、長い人生で初めてのことだった。

          <了>



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