【 雪夜譚 】
◆NCqjSepyTo




70 :No.16 雪夜譚 1/5 ◇NCqjSepyTo:08/04/07 00:42:52 ID:6ALZynw7
 帝都は雪に覆われていた。
近年稀に見る大雪は、深々と更ける夜闇の中で薄らに点る街路灯の明かりを儚げに照り返す。
大日本帝国陸軍歩兵第一連隊所属皆藤太一朗少尉は、連隊の者全員に銃を宛がった後、黒光りする長
靴で足下の新雪をぎちぎちと踏み固めながら出動の号令を待っていた。
「冷えるな」
 湿気を含んでずしりと重い外套を揺らして近付いてきた青年が彼に声を掛ける。
「本間、中尉達は」
「今は中隊長の所だ、直に来るだろう」
 小銃をがちゃりと背負い直して、同所属本間秀忠少尉が答えた。
「それにしても、冷えるな」
 闇を透かして見上げた空は、厚い雲によって塞がれている。
月すらも俺達を見送らないのか、そう言って本間は口の端を歪めた。
その眉際をなぞる様に深く彫り込まれた窪みに位置する彼の切れ長の目が中空を見上げ、その視線を
追うように皆藤も顎を持ち上げた。
室内の温度によって一度融けかけて再び外気によって冷やされ、氷菓の様に固まった雪の破片が本間
の軍帽を伝って滑り落ち、新雪の上に浅い凹みを作った。
「行くか」
 幾許も無くそう声がして、がたいの大きな青年と、眼鏡を掛けた神経質そうな青年が雪を踏み締め
て歩いてくる。件の中尉達である。
詰め所には、微かな明かりを透かして大人一人分の影が浮き彫りにされていた。
「中隊長は、黙って見送って下さった」
 加納是貞中尉は本間と皆藤に向かってそう言うと、詰め所に向かって敬礼をする。太一朗達百余名
に上る連隊の者も皆、それに習った。

71 :No.16 雪夜譚 2/5 ◇NCqjSepyTo:08/04/07 00:43:13 ID:6ALZynw7
 「武山は何と言うだろうか。俺達のことを」
 道を暫く進んだ頃、隊列の先頭で山口誠二中尉が眼鏡を右手の甲で押し上げつつそう呟くと、
加納中尉がその整った表情を変えぬまま答えた。
「さあな。ただ、裏切り者と言って憎んでくれれば、それでいい」
 そのやり取りが彼等の直ぐ後ろを行く皆藤には、はっきりと聞こえる。
彼らと懇意にしている武山信二中尉は、半年ほど前に七つ若い女性と結ばれたばかりだった。
皆藤も度々、加納達に連れられてその住まいを訪ねた。
彼の細君は非常に美しかった。まるで陶器で出来た西班牙の人形の様に白い肌と、しなやかな肢体で
きびきびとよく働いていたのを太一朗は覚えている。
「あいつの幸せまで、奪うことは出来んよ」
 それが、一個団を率いる男の素直な感情だった。
明日をも知れぬ運命に多数の青年を巻き込もうとしている男の、人間としての感情だった。
位置を正したばかりの山口の眼鏡が、歩みに合わせてまた少し鼻背を滑った。
「お前は、良いのか」
 不意に本間がそう言った。周りの者には聞こえない、太一朗にのみ宛てた微かな声で。
「良いんだ、俺は」
 彼は小さくそう答えた。
 大通りが近付くと、金満家達の大きな邸が軒を連ねている。その中の一つに、皆藤の視線は悲しく
なる程吸い寄せられていった。
ある資産家、十文字家の邸である。
「お前は、良いのか」
 再びそう問いかける本間の声に、彼は無言で答えた。


72 :No.16 雪夜譚 3/5 ◇NCqjSepyTo:08/04/07 00:43:38 ID:6ALZynw7
 皆藤がその邸の令嬢を見初めたのは、正しくこの邸の大通りに面した窓の下だった。
十文字五十鈴と言う名のその女性は正真正銘深窓の佳人であり、陳腐な表現をするならば篭の中に捕
われた飛べない小鳥であった。
その美貌、そして気立ての良さと引き替えに生まれつき身体の弱い五十鈴は足も悪く、屋敷から碌に
出ることも適わぬ身だったのである。
健康な跡継ぎを産み育てる事が出来ない女に一縷の価値も無いこの時代、老いさらばえて死ぬのを只
待つしか無い娘の為に心を痛めていた十文字家の当主は一も二も無く皆藤の申し出を受け入れ、
とんとん拍子に婚約話が纏まったのが昨年の秋である。
体の弱い五十鈴の為に、華燭の儀は桜の咲く翌年四月に行われる事となった。
しかし武山信二中尉のそれが去年の秋ほどに行われたため、彼はその事を周りに告げる機会を失った。
その事を知るのは、竹馬の友でもある本間秀忠少尉只一人である。
 彼は昨年の夏、五十鈴の父親の勧めによって彼女と共に那須にある
十文字家の別荘を訪れたことを思い返していた。
何処までも続く青い空に、紅を引いた彼女の唇はよく映えた。
太一朗が愛を囁けば、五十鈴はそのたおやかな唇をもって彼に答える。
その時初めて触れた彼女の唇の温かく柔らかな感触と鮮やかさは、目を閉じればいつでも直ぐそこにあり、
手を伸ばせば簡単に届きそうだった。
しかし彼は手を伸ばさない。
この国の為には、俺一人の幸せなど我慢しなくてはならない。
彼は何度も、その言葉を口内で噛み締めるように反芻し続けた。

73 :No.16 雪夜譚 4/5 ◇NCqjSepyTo:08/04/07 00:44:03 ID:6ALZynw7
 彼はこの晩召集に合わせて宅を出る前に、彼女に宛てて手紙を認めて来た。
三つ年下の弟に託したそれを、彼はゆっくりと復唱するように思い返す。
――いきなりこんな形で別れを切り出す俺を許してくれ――
 立ち並ぶ街路灯が彼らの白い息をいよいよ白く染め上げる。
皆藤は、傍らを歩く本間の顔が先程までの赤みを失いつつあることに漸く気が付いた。
大丈夫かという問いを、太一朗は咽喉の先で押し止める。今更聞くまでも無いことだった。
――もう俺は、貴女に会うことは適わないだろう。しかし、覚えていて欲しい。
あの日交わした言葉は決して嘘ではなかったということを――
内府の邸へと続く緩やかな坂道もまた雪によって包被され、冷たい壁の様に彼らの前に聳え立った。
連隊の詰め所から此処まで、屈強な青年達にとっては決して遠すぎる距離ではない。
しかしその壁を前にして彼等の歩みは徐々に弱まり、ともすればそれは止まりそうになった。
「ええい、行くぞ!」
 加納が腹から搾り出すように声を上げると、連隊の幾人かがそれに同調するように声を掛け、彼等
は寒風に吹き消されそうになる意志に鞭を打ち坂を上りだした。
――今となっては、お父上とした貴女を幸せにするという約束を守れぬことだけが心残りだ。もし貴
女さえ良ければ、この手紙を託した俺の弟と一緒になって欲しい。俺のことを思うならば是非そうし
てくれ――
 荘厳に佇む巨大な門の向こうに広大な庭が広がり、更にその奥には黒々とした邸が東西に伸びてい
るのが見えた。
ほんの数日前の彼等にとって、この邸は只の古ぼけた楼閣でしかなかった。
強い力で少し突けば直ぐに崩れてしまうような、砂で出来た楼閣。
しかし今それは、世界中の闇を従えて彼等の前に横たわっている。誰かがごくりと喉を鳴らした。

74 :No.16 雪夜譚 5/5 ◇NCqjSepyTo:08/04/07 00:44:37 ID:6ALZynw7
――俺が動くのはこの国の為だ。俺の命を腐り切ったこの国の上層がどれ程汲むかは定かではないが、
そうするだけの価値がこの国にはあると、俺は確信している――
「構えっ!」
 加納中尉の声が響き、連隊の面々は揃って小剣を銃の先に番えた。山口誠二中尉が右手の甲で眼鏡
を押し上げ、木綿のハンケチで汗を拭う。そのハンケチの白さが苦しいほどに眩しくて、
太一朗は思わず目を細めた。
すぐ右隣に居る本間の歯の根ががちがちと音を立てているのが聞こえる。
「ああ、雪だ」
 何処からともなく声がした。
――この国を、新しくしなければならない。清く、美しい国へ。この世相を、変えなければならない。
貴女が、幸せに暮らせるように――
「撃ち方、はじめっ!」
 加納是貞中尉の声がいよいよ透き通る空に凛々と反響し、それと同時に彼の右手が高く上がる。
嗚呼、那須のあの、抜けるような青空が見たい。
白雪の舞い来る曇天を見上げそう小さく呟くと、太一朗は引き金に当てた指を強く引いた。

貴女の幸せを、心から祈っている。
二月二十六日、陸軍歩兵少尉 皆藤太一朗





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