【 夢の燃え尽きる音 】
◆gaze/VbdM6




61 :No. 14 夢の燃え尽きる音 1/4 ◇gaze/VbdM6:08/04/06 21:30:17 ID:rVdEKG9n
 アマミといた、あの紡ぎかけの綿アメみたいにつかみどころのない大学時代の一夏のことは、細かいところはよく思い出せそ
うで、そのくせ大切なところは案外思い出せそうにない。あるいは逆に、大筋だけ覚えていてディテイルは忘れているかもしれ
ない。そもそも僕のアマミに関する知識や記憶自体かなり限られているのだから、思い出せない以前に元から頭の中に存在
していない部分もたくさんありそうだ。
 ものごころついた頃から僕は時代や社会といったものにうさん臭さやうそ寒さを感じるたちだった。それは埃のように辺り構わ
ず降り積もり、その存在はさりげなく、しかし確かだった。大学に入る前もうさん臭くてうそ寒かったように、在学中もうさん臭く
てうそ寒く、卒業後もうさん臭くてうそ寒かった。いつの時代にしてもそうだ。だから彼女といた夏ものっぺりとした虚無を均一
に塗られていて、一九九一年のことだったのか一九九二年のことだったのか、それが他の記憶より際立って重要なのか、そ
れとも日常となんら差のないものだったのかさえよく分からない。
 アマミは僕と同じく英文学科に籍を置いていたけれど、海外文学はあまり読まないようだった。友人もあまりいなかったように
思う。マイ・ブラディ・ヴァレンタインの曲で言えば「ルーズ・マイ・ブレス」、プライマル・スクリームの曲で言えば「ハイアー・ザ
ン・ザ・サン」が一番好きだった。無口で声も小さくて、顔立ちは整ってはいたけれど地味で、目の前にいなければすぐに忘れ
そうだった。白か黒のワンピースをよく着ていた。近所に住んでいるからなんとなく一緒にいるというだけで、特に親しかったり
はしなかった。
 しかし、それらのことはさして重要じゃない。なにより大切なのは、彼女が毎晩のように河川敷でしていた焚き火だ。深夜の
人気のない河原で彼女は火の側に座って揺らめく紅の炎をボーッと眺めていた。そして時折死にかけの亀みたいにゆっくり
動いて、男が使うようないかつい鞄から本などを取り出して火にくべていた。その様子はなぜかひどく哀れみを誘った。行き
着く場所を持たない漂流者のような都市型人間の自己憐憫に彼女は浸っていた。都市において我々は多くの人間に囲まれ
ているけれど、その大多数とはほとんどなんの繋がりも持たない。知り合いよりも他人の方がずっと多いという事実が孤独を
感じさせる。アマミを見ていて、それと同じような感覚を覚えた。どうしようもなく行き場がなく思えた。
 その焚き火の中でも、はっきりと思い出せるのは一つしかない。
 暑くて気だるい夏の中でもひときわ暑くて寝苦しい夜だった。ちょっとでも休みができるとすぐ旅行に出かけるルームメート
が例に違わず旅行で出かけており、僕は一人部屋でビールを飲み、寝転んで本を読みあさり、ルームメートの棚から拝借し
たイギリスの最新のロックを聞いて過ごした。そう悪くはない暮らしぶりだったけれど、どことなく引っかかるものがあった。僕
は身を起こして部屋中を見回し、ひとまず自分が平積みの本やLP、CDに囲まれていることがその違和感の原因だと結論づ
けて、一通り片付けた。それでもまだ腑に落ちないものを感じつつ、なにも問題はない、すべてオーケーだと自分に言い聞か
せ、再び寝転んで本を開いたその時だった。
 視界の隅に、棚の上に載っている黒いなにかが入ってきた。
 僕は立ち上がり、棚の上のなにかの正体を確かめに行った。
 それはだいぶ前にルームメートがメキシコだかアリゾナだかの土産に持ち帰ってきたタランチュラの標本だった。アマミと同

62 :No.14 夢の燃え尽きる音 2/4 ◇gaze/VbdM6:08/04/07 00:35:42 ID:6ALZynw7
じく、ルームメートもなんとなく一緒にいるだけで特別親しくはなかったけれど、同室のよしみで、互いの好みなどほとんど知
らないにも関わらず、旅行をすれば互いに土産を買わざるを得なかったのだ。
 僕はなんとなく、そのタランチュラが違和感のすべての原因だと感じた。まず、僕はクモが大嫌いだった。世界で三番目くら
いに嫌いなものだと思う。次に、恰好がとても悪かった。タランチュラの足の何本かは折れており、とても乱雑にピンを打たれ
ていた。木箱は粗末で安っぽい材木でできていて、ガラスではなくプラスチックが張られていた。どこから見てもそれは丁寧
な作業の産物ではなかった。最後に、そのタランチュラはなにかを思い起こさせた。僕は煙草に火をつけ、そのなにかに気づ
くまでしばらく待った。三分ばかりを呼吸と思考に費やして、ようやく得た答えがこれだった。
 このクモは、アマミに似ている。
 彼女の細い手足やよれた黒いワンピース、やるせなさが全部、このチープな釘付けのタランチュラに凝集されている。
 僕はそのまま煙草を吸い終わるまで考えを巡らせ、それから手近にあった灰皿に吸い殻を押し付けて時計に目をやった。十一時三十七分。頃合いとしてはちょうどいい。僕は釘付けのタランチュラの箱と読みかけの本を持って、河川敷に向かうことに
した。開け放した窓から入ってくる風はまとわりつくように生暖かかった。

 河川敷についてみると、アマミはいつものように焚き火をしていた。中途半端な闇のなかで炎が揺らぎ、煙を天に向けて伸
ばしている。その側の岩にアマミは腰掛けて見つめていた。いかつい鞄もすぐ近くにあった。
「やあ」
 声をかけてから僕はアマミの隣に座り込み、タランチュラと本を足下に置いた。アマミはこれといった反応を示さず、テレビを
見続ける子供のように焚き火から目を離さなかった。僕も一緒になって火を見つめた。言葉を交わさず、ただじっと佇んで赤
い獣のように踊る炎を見つめていると、もの静かな高揚感が血流に乗って体中を巡るのを感じた。獲物を待ちながら野性に
生きる太古の狩人か、あるいは祈りを捧げるゾロアスター教徒みたいな気分だった。
「コウタロ、今日はなんか持ってきてる」
 しばらく経ってようやくアマミが口を開いた。声は幼くて抑揚がなく、どことなく陶酔感があった。彼女も火を見てなにかを感
じていたのだろう。
「ああ、大したもんじゃないけれどね。たまには僕もなんか燃やそうかなと思ってさ。ほら、なんだっけ、君が言うところのあれ」
「……夢の燃え尽きる音?」
「そう、それだ。僕も、自分でそれを鳴らしてみたいなって思って」
「そ」
 アマミは鞄を開けて、本を何冊か取り出した。偶然にもブラッドベリの「華氏451」の表紙が見えたけれど、あとの何冊かは
確認できなかった。彼女はそれらの本を抱え、一冊ずつ、焚き火の中に落としていった。本当に一冊ずつ、という言葉が似合
うようなゆったりしたモーションで、一つ、また一つ。

63 :No.14 夢の燃え尽きる音 3/4 ◇gaze/VbdM6:08/04/07 00:36:06 ID:6ALZynw7
 本をくべられるたびに、炎は一瞬激しく揺れ、傾いだ煙の柱が火の粉を舞い上げる。パチッ、パチ、パチリ、と不規則なリズ
ムを刻む音がする。切ないけれど、焦燥をかき立てる種類の切なさではない。むしろ、諦めと落ち着きがそこにはある。アマミ
がつけた名前は、よく合っていた。
「夢の、燃え尽きる音……」
 ボソッとアマミは呟き、それから僕に顔を向け、火を指差して次の動作を促した。
「コウタロも、鳴らそ」
 僕は無言でうなずき、足下にあった釘付けのタランチュラを拾い上げ、少し時間を取って観察してみた。土産にもらうことを
望んではいなかったから、名残惜しさはまったくなかった。ただ、なんとなく隅から隅まで見てみただけのことだ。
 満足すると、僕はタランチュラを火に入れた。アマミの慎重さにならって、ゆっくり静かに、ほとんど置くようにくべた。
 木箱は思いのほか燃えるのが早く、焦げるのに大して時間がかからなかった。本をくべた時よりパチパチという音が激しく
鳴った。さようなら、タランチュラ。もう君に会うことはない。そう別れを告げて、その夜の違和感はすべて忘却に追いやられる
はずだった。あの不恰好でグロテスクな肢体、ザラザラしておかしな色に日焼けした木箱はすべて燃え尽き、あとには赤い
炎と、煙と、ほの白いアマミの横顔と、タランチュラを燃やす時に瞬きをしたせいで目に焼きついた僕の手の残像だけが残る
に違いなかった。
 しかし、予想に反して、そうはならなかった。
 プラスチックを外さなかったせいで、ダイオキシンの臭いが辺りに立ちこめた。しつこく不快な臭いに、僕はアマミやタラン
チュラに見いだしていた行き場のなさを思い出させられる。タランチュラに恨み言を言われているようだった。僕は燃え尽きた
タランチュラが灰になり、風に巻き上げられてどこか遠くに飛ばされるのを想像しようとしたけれど、そんな抵抗も無意味だっ
た。僕は顔を伏せた。
「……悲しい」
 アマミが不安そうに漏らした。
「悲しいね、コウタロ」
「……ああ」
「夢の、燃え尽きる音……」
 僕は炎に顔を向け直した。
 タランチュラが手元にあったときの胸騒ぎは、タランチュラが消えてからもずっと続くどころか、むしろ強くなっていた。ここは
僕の居場所じゃない。君はそのやるせなさから逃れることはない。たぶん、炎は僕にそう囁きかけていた。途端に、目の前の
焚き火は低予算B級映画の安っぽいエフェクト処理をされた映像のように嘘っぽく思えた。
 僕は踵を返し、そのまま俯き加減で帰路についた。読みかけの本は置いていった。気分が落ち着いた頃にアマミが燃やし
て、それから元通り焚き火を続けてくれるといい、と考えた。

64 :No.14 夢の燃え尽きる音 4/4 ◇gaze/VbdM6:08/04/07 00:36:42 ID:6ALZynw7

 僕はそれきりアマミと会わなかった。アマミとの交流が僕の人生を変えなかったのと同じように、別れもまた大筋を変えはし
なかった。ただ、記憶として残り、灰色の都市に生きることのさりげなく、冷たい虚無感に気づかされるばかりだった。その感
情に終わりが来ることがないからなのか、僕はこの話を書いても、最後の一文を考えられず、最後のピリオドが上手く打てな
いでいる。



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