【 White Jukebox 】
◆D8MoDpzBRE




47 :No.11 White Jukebox 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/06 16:26:45 ID:Euo0CxTN
 雪山の雪に足を取られながらも、私たちのピリオドは近づいていた。王国で最も高い山頂を目指して、私たちの足取りがやむことはない。
 詳しい標高は不明だが、この辺りの雪は年中涸れないし、めぼしい雲の大半は視界の下に広がっている。
「リリ王女様ぁ。僕はこんな寒いところに来たらピアノが弾けなくなっちゃうよ」
「何回も言ってるけれど、その王女様って言うのやめなさいよ。あなたに言われなくても私が王女様だってことくらい分かってるし、私があなたのことをロイスピアニストなんて呼んだことがあった?」
「ピアノが弾けなくなったら僕なんてただの人間だ。ロイスと呼べばいいんだよ、リリ」
「あなたのピアノは素敵だから、命がある限り私のために弾き続けて欲しいわ、ロイス」
 私はくるりと振り向いて、ロイスの鼻先にキスをした。氷だって溶けるようなキスだ。ロイスの目に光が宿って、大きな大きな荷物を担いだ手にも力が入る。
 切り立った尾根が延々と続いていた。左を見ても右を見ても低く垂れ込めた雲海が広がっているばかりで、とても心許ない。足を踏み外したら二度と帰ってはこれないだろう。
 そして前方の遙か彼方、それこそ空の果てにあるんじゃないかと思える距離のところに、私たちが目指す大聖堂があった。私たちの目にそれはまだ、ただの小さな輝点に過ぎない。世界に名高い七大聖堂のうちの一つである。
「あそこに辿り着くまでにどれだけかかるのかい?」ロイスが言った。
「今日を入れて二日。全力でついてきなさい」
 二日で辿り着ける距離なのかは分からない。ただ確実なのは、今日と明日の二日で食料が切れることだ。寒冷地で食料を切らした日には、体が燃やすものを失うので致命的なのだ。
「あっ」
 遠く尾根の先に人影らしきものが見えた。細くて狭い尾根の棚から足を滑らせたのか、深い雪渓に今にも転落してしまいそうな不安定な場所にしがみついている。落ちてしまったらひとたまりもない。
「助けなきゃ」私は歩調を早めた。
「どうやってさ?」
「それを考えながら歩くのよ。急いで!」
 近づくにつれ、その人影は私たちが思っていたほど大きいものではないと言うことが分かった。
 そして正確に言えは、そもそもそれは人影ではなかった。体調が三十センチほどの、衣服を着たウサギだったのだ。しきりに「助けてください」と訴えている。
「ポーカーラビットね」
「驚いたよ。彼らを実際に見るのは初めてだ」
 私たちは登山用のロープを彼に渡して引き上げた。これが重い人間相手だったら、こうは上手くいかなかっただろう。
 無事引き上げられたそのウサギは衣服にこびりついた雪を振り払って、私たちに向かって恭しくお辞儀をした。
「助けて頂いてありがとうございます。私はペータと申します」
「大丈夫? けがはない?」
「アイスバーンに右の前脚をやられました」
 私は、しきりに恐縮するペータを背中の荷物の上にのせた。今更ウサギ一羽分の重さが増えたところで感覚的にはほとんど変わらない。荷物の重さより、今の私たちには寒さと空気の薄さの方が応えていた。
「しかし、こんなところに人間の方が来るなんて珍しい」ペータが言った。
「大聖堂に行くのさ」ロイスが応えて遠くの大聖堂を指さした。
「なんと。何か込み入った事情がおありなのですか?」

48 :No.11 White Jukebox 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/06 16:27:30 ID:Euo0CxTN
「あるわね。私たち逃亡者なの」

 尾根が終わり、雪の大平原にさしかかった頃には、日は随分傾いてしまった。
 私はペータに身の上のことをほぼ洗いざらい話しきってしまった。すなわち私とロイスの恋の逃避行について。国王であるお父様が呈示した政略結婚を拒絶して、私たちは王国に追われる身となった。
 私たちは結婚しようと決意して雪山に踏み入った。
 婚姻の議を執り行うためには、聖堂にて神の祝福を受けなければならない。しかし、既に王国内の聖堂は大小関わらずお父様に掌握されてしまっており、残るは無人の雪山の大聖堂だけだった。
「事情は大方お察しいたしました」ペータが私たちとの別れ際に言った。
「本当ならば我々の集落に皆様をお招きして歓待すべきなのでしょうが、そのような時間は残されていないようです。雪の大平原を抜けたら、後は切り立った岩場が続きます。今日の所は岩場のふもとでビバーク(野営)されるといいでしょう」
 右前脚を引きずるようにして、ペータは雪山を下っていった。
 雪原は果てしなく広がっているようで、それでも私たちは確実に先の岩場に近づいていた。足先が凍り付いて痛みを発しても、時折体の芯から熱を奪うような突風が吹いてそのことを忘れさせた。
「あそこにテントを張りましょう」
 私は前方にそびえる峰のふもと辺りを指さした。陽はもうすっかり陰り、雪がボウッと青白く淡い残光を放っている先に、辛うじて岩肌が露出して踊り場のようになっている場所が見通せた。辺りの冷え込みは一段と厳しさを増している。
「ねえ、リリ。あれって」一歩先を行くロイスが振り返って私に告げた。「何だろうね」
 つられて私も振り返る。遠く遙か彼方、私たちが歩いてきた道をなぞるように、オレンジ色の小さな光が幾つも灯っていた。暗闇の中にポッと鋭く輝いて浮かび上がっているそれらは、よくよくみると尾根を一列に並んでいるようでもある。
「ひょっとして」私の声は震えていた。「追っ手じゃないかしら」
「な、何だって?」
「悠長に構えている暇はないようね。ビバークは短時間で済ませて、陽が昇る前に行動を開始するのよ」

 岩場に張ったテントの中は、恐ろしく暗くて狭くて寒かった。私はロイスと顔を突き合わせて横になった。とても眠れそうにない。
「ねえロイス。何かお話しして」
「白鍵と黒鍵のお話がいい? 素敵な王女様のお話がいい?」
「うふふ、両方」
「分かった、頑張ってみる」ロイスがむずがゆそうな笑顔を見せた。
「ピアノキーの白は昼を、黒は夜を表している。そして僕らピアニストは、昼夜音楽のことばかり考えているんだ。例えば、リリに送る音楽はどんなのがいいかなとか、どんな音楽でリリを元気づけようかなとか」
「同じことじゃない」
「そう、同じなんだ。いつの間にか僕はリリに対する気持ちだけで音楽を奏でていたんだ。これが素敵な王女様のお話」
「ありがと」
 私は震える唇でロイスにキスをした。冷たいキスだった。
「リリ、コートと服を脱いで」
「何を言ってるの? ロイス。イヤらしいことでも考えてるの?」

49 :No.11 White Jukebox 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/06 16:27:51 ID:Euo0CxTN
「違うよ。君は体の芯まで冷え切ってしまっている。肌と肌を合わせて温め合った方がこういう場合はいいんだよ。僕のことを信じて」
「あなたのことはこの世の誰よりも信じてる」
 私とロイスは、狭いテントの中で全ての服を脱ぎ捨てて抱き合った。ロイスが言うとおり、彼から発せられる暖かな体熱に、私の心が安らいでいくのが分かった。彼の命は私のために燃えているのだ。
 いつしか私はまどろんでいた。するりと雪渓の奥深くに私の意識が滑り込んで、深い眠りをもたらした。きっと空には三日月が輝いている。

 出発の朝は、まだまだ朝とは言い難い闇に包まれていた。私はロイスに揺り起こされ、優しい抱擁と口づけの後に一日の行動を開始した。
 残った最後の食料を口にして、テントを捨てた。本当なら燃やして暖を取りたかったのだが、追っ手に自分たちの居場所を知らせるような真似は出来ない。
 私たちはテントの残骸を深い雪の谷底に投げて沈めた。
「近づいているようね、彼ら。不眠不休で追ってきてるみたい」
 後ろに広がる雪の大平原の真ん中で、オレンジ色のたいまつの灯りが揺れている。その距離は、大きな声を出せば彼らと会話可能なくらいかとすら思われた。
「一気に駆け上るんだ」
 ロイスのかけ声と共に、最低限の装備で私たちは雪山に向かった。
 荷物の大半を捨てた私たちは、天と地の位置関係さえおかしくなってしまったかのような岩肌の勾配に挑んだ。それは山登りというよりは壁登りとでも言った方が良さそうな案配で、しかもその壁は暗い夜空へ果てしなくそびえ立っているのだ。
 時に、その壁には足場がなかった。
「僕が先に行ってロープを下ろすから」ロイスがそう言って、長い手足を活かしてスイスイと岩場を上っていった。
 私は悲しくなった。彼の繊細な手は決してこんな仕事には向いてない。そしてそんな彼に頼らなければならないほどに、私は非力な王女様だった。
 私はロイスのロープを待った。辛うじて両手が分厚い手袋越しに岩をつかんでいるだけで、私の両足は支持を失っているから、ほとんど宙づりに等しかった。
 待ちに待ったロープは、風に吹かれて不規則に揺れていた。それをたぐり寄せるためには最低片手を自由にしなければならないが、岩から手を離すタイミングを誤れば、私は岸壁にたたきつけながら不本意な下山を遂げるだろう。手が震えた。
「迷わないで、リリ」遙か上空からロイスの声が聞こえた。「もし君が足を踏み外すようなことがあれば、僕は真っ先に君の所へ飛んでいく」
「駄目よ、そんなことを言っては。二人で登り切るんでしょ?」
 意を決して、私は右手をロープに伸ばした。体が岩肌から離れ、一瞬宙にふわっと浮いた風になる。右手がロープをつかみかけたその瞬間、強い風にロープがあおられた。
――いけないっ!
 ロープが右手からこぼれて目の前を流れる。重力の感覚が失せて、私は落下軌道に乗り始めた。
 駄目だ、助からない――
「左手だ!」ロイスの声が、私のかじかんだ左手を覚醒させた。
 夢中で掴んだ左の握り拳の中で、ロープが摩擦熱を生み出した。すり切れそうな痛みを握りつぶしながら、先ほどは空を切った右手をも動員してロープの掌握を確かなものにする。もうロープは逃げない。
 そして私はそのままロイスに引き上げられた。ロイスは泣いていた。私ももらい泣きをし、そして笑った。
「岩ばかり見ていて気がつかなかったけれど、もう陽は昇っていたのね」私はため息を吐いた。
「もう駄目かと思ったよ。でも朝日に照らされた君を見て、そして左手が見えたんだ。本当に良かった」
「頂上まであと少し。この時間がいつまでも続けばいいと思うのに、あと少しなんだね」

50 :No.11 White Jukebox 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/06 16:28:18 ID:Euo0CxTN
 
 大聖堂の扉が、積年の静謐を破って開かれた。地上から完全に隔絶されたこの地に、誰がこのような建物を造ったのだろう。見当も付かない。
 大聖堂の中は空気が薄かったにも関わらず、驚くほど寒冷とは無縁な暖かさに包まれていた。
 ロイスがパイプオルガンを見つけて、つかつかと歩み寄った。そのまま鍵盤を押したが、音は鳴らなかった。
「壊れているの?」私は訊いてみた。
「違う、おそらくはパイプに風が送られていないだけだろう」
 ロイスは早々と演奏をあきらめ、私の手を取って祭壇の下へと歩を進めた。
「待って、ロイス」私はロイスを制止した。「衣装をきちんとしなきゃ」
 私たちは分厚い皮の防寒着を脱ぎ捨てた。下に正装を着込んでいたのだ。途端に寒冷が肌を突き刺すように感じられたが、しかしそれでも構わない。私は純白のウェディングドレス姿に、ロイスは銀のタキシードに身を包んで、祭壇の前に並んだ。
 私たちは永いこと見つめ合った。言葉は要らなかった。大聖堂のステンドグラス越しに降り注ぐ陽光は、淡く優しい感触を私たちの網膜に焼き付けている。
 ゆっくりと目を閉じて口づけを交わした。長いのか短いのか分からない、幸せな口づけだった。かけがえのない幸せが何故かけがえもないのか、私は十八年の人生の中で既に悟ってしまった。
「リリ」ロイスが消え入りそうな声で言った。「これを付けて」
 私の薬指に、きらりと光る指輪が嵌められた。私はうなずいた。
 そして言った。ほとんど消え入りそうな声で。
――これで終わりね。
 私の言葉を合図にして、ロイスが懐から短剣を取り出した。それは澄んだ氷の結晶のように透明な光を放っていた。刃は風のない日の水面のようだ。ロイスの手は震えていた。
「リリ、僕は君にこんなものを突きつけられないよ」
「大丈夫。私が自分でやるから」
 私はロイスから短剣を受け取った。ずしりと重い。このくらいの質感がなければ、一突きに命を奪うことなどおぼつかないだろう。
「ロイス、今までありがとう。私たち、違う時代に生まれていれば良かったね」
「生まれ変われるよ、君と僕なら」
「最後にロイスの演奏、聴きたかったな」
 私は刃の先を喉元に向けた。ここでピリオドを打つ。一つ、深呼吸をして迷いを消した。
 手の震えを抑えて、つつつ、と慎重に力を込めた。
「待ちなされ!」
 甲高い声が大聖堂に響き渡った。入り口の扉が開いている。閉め忘れたのだ。しかし、どこを見回しても人影は見あたらなかった。
「どこにいる!」ロイスが叫んだ。「追っ手か?」
「ここじゃよ」
 声は、祭壇の上から聞こえた。はっとして、私たちは振り返る。そこには、白くて体調が三十センチほどの、神父の服に身を包んだウサギの姿があった。
「ペータから事情は聴いたぞよ。神父を抜きにして結婚しようとは恐れ入る」そのウサギが言った。「しかも神聖なる大聖堂で自害しようなどとは、これは罪深き狼藉じゃの」

51 :No.11 White Jukebox 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/04/06 16:28:46 ID:Euo0CxTN
「仕方がないんです」私は全力で抗議した。「追っ手に捕まれば、それこそあらゆる責め苦を尽くして処刑されてしまう。ロイスだけでなく、お父様の顔に泥を塗ったこの私だって」
 そのウサギは顔色一つ変えずに私の言葉を聞き流した。耳を閉じていたから、真面目に聞く気がないことが嫌というほど分かった。
 そしておもむろに「ワシはミミゲル神父だ」と自己紹介をして、十字を切って目をつぶった。全ての仕草が芝居じみていた。
「はて、彼らは本当に追っ手じゃろうか」突然、思いついたかのようにミミゲル神父が目を見開いて言った。
「どういうことです?」
「ワシらの耳は、伊達に大きくはないと言うことじゃ。奴らの会話くらい既に小耳に挟んでいないとも限らん」
 そう言って、神父は耳をピンと伸ばして咳払いをした。
 次の瞬間、大聖堂の沈黙は破られた。一人の兵士によって突然に。
「王女様!」その武装した兵士が駆け込んで叫んだ。「国王が、王女様がいない隙を狙われ政敵に殺められました! 国軍は今、あなたを必要としております」
「お父様が?」私の手から短剣がするりと落ちて、乾いた金属音が響いた。
「やれやれ、血なまぐさい話じゃの」
 私の頭の中は混沌に支配された。状況が余りに目まぐるしい変遷を遂げている。
 お父様を喪ったという悲しむべき事態と、ロイスと共に命を長らえるという事態の両方と直面し、なおかつクーデターを起こした一味とも対峙しなければならない。今の私には、何一つとしてそれらを消化する準備が出来ていないのだ。
「行くんだ」ロイスが言った。「リリ、君は必要とされている。戦えない僕はここで君のことを見守るよ」
「でもロイス、私そんなこと出来ない」
 私の言葉に、ロイスが首を振った。「やるんだ。君がやり遂げるまで、僕はここに残る」
 ロイスの言葉に力がこもる。そんなロイスの声を聞くのは、実に初めてのことだった。私はロイスの顔を見つめ、そして神父の小さな顔を見つめた。神父の顔はあまりにウサギ然としていた。
「……分かったわ、ロイス」私は腹を決めた。「そのかわり、動乱が治まったその時こそ、二人で一緒に暮らすのよ。きっとよ」
 私は薬指の指輪を外して、ロイスに返した。戦いを鎮めたら、必ずこの地で本当の婚礼を執り行う。それは私たちの間で暗黙の契約となった。
「ミミゲル神父、いいですね?」私は念を押した。
「何のことじゃ」
 そうして、私は護衛の兵に守られながら雪山を下った。混沌に終止符を打つために。悲劇が繰り返されない日々を、新しい時代を、私は作っていかなければならない。
 天空に最も近い青空は、雲一つ浮かべていなかった。そしてその上を、パイプオルガンのメロディが尽きることのない河のように流れていた。



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