【 心を干乾びさせる時計 】
◆71Qb1wQeiQ




30 :No.07 心を干乾びさせる時計 1/5 ◇71Qb1wQeiQ:08/04/06 00:23:28 ID:tBFmZvQG
『キミキミ、そこのキミ。そう、キミだよ。時計はいらないかね?』
『いやいや、別に私は怪しい者ではないんだ。といっても信じていない顔をしているね』
『まぁいいさ。話を戻すが、この時計を貰ってくれないかね?』
『理由? そんな物は別に無いよ。ただのオッサンの気まぐれさ』
『金? それもいらんよ。長い事しゃぶりつくして飽き飽きしてるんでね』
『ではさよならだ、名も知らぬ少年。二度と会うことはないだろう』
 ……こんなところだろうか。他にもいくつか戯言を並べていたような気もするけど、良く覚えていない。とにかくそうした意味不明
な言葉と動かない懐中時計を僕に残して、自称ただのオッサンは雑踏の中に消えていった。
 追いかけて時計を突き帰してやろうかと思ったのだけれども、その瞬間にバスがやって来てしまったので、結局僕はその時計を返し
損ねてしまった。
 確かに春は虫とバカがそこかしこから無尽蔵に沸いてくる季節ではある。けれど、ここまで奇妙な事を言い出す相手に出会ったのは
これが初めてだった。
 まぁ、それだけならまだ良かったんだ。見知らぬオッサンの悪趣味な冗談として忘れる事が出来ただろうから。
 けれども、忘れる事は出来なくなった。何せ翌日の朝、そのオッサンが死んだというニュースがテレビから流れて来たのだから。
「ビルの上から投身自殺だって。イヤねぇ」
 窓ガラスに汚れを見つけた時と同じ口調をした母さんのつぶやきが、僕の耳に届いた。
「そう、だね」
 適当に相槌を打ちつつ、僕は必死に流れて来る情報を掬い取る。
 死んだオッサンの名前は玉川ミツヨシ。歳は四十三。何でも二十歳の時に小さな企業を起こして独立し、僅か十年で玉川グループと
いう超巨大企業を造り上げた凄まじい人物だったらしい。確かに思い返してみれば、時計を渡された時にオッサンが来ていたスーツは、
父さんのそれよりも上等だったような気がする。
 いや、そんな事は問題じゃない。僕にとって重要なのは、なぜそんな大物が縁もゆかりもない僕の前に現れて、あまつさえ時計を手
渡していったのかという、ワケも理由もさっぱり見えてこない事実だけだ。
「ごちそうさま」
 ぬるくなった味噌汁を一息で飲み干し、僕は一直線に自室へと戻った。
 壁掛けに下げてあるカバンの中から問題の時計を取り出し、何となくヤバそうな気がしたのでドアに鍵をかける。念のためカーテン
も閉める。
 当然の事ながら遮光されて暗くなる僕の部屋。充満する暗闇を蛍光灯の光で追い出して、僕はようやく机に座った。そして昨日は見
向きもしなかったその時計を、じっくりと全方向から観察してみた。
 骨董品の懐中時計。

31 :No.07 心を干乾びさせる時計 2/5 ◇71Qb1wQeiQ:08/04/06 00:24:05 ID:tBFmZvQG
 十分間ほどじっくり見回してみて、最初に思い浮かんだ感想がそれだった。
 外面の材質は、見た感じ真鍮だろうか。針は昨日オッサンから受け取った時と同じ、九時十三分を指したままで止まっている。裏側
はつるりとしていて、電池蓋は見当たらない。間違いなくゼンマイ式だ。
 良く磨かれた銀色のボディは傷一つついていないけれど、同時に装飾もまったく見当たらない。丸い文字盤の上に竜頭がついている
だけの、何というか、シンプルという言葉をそのまま時計にしてしまったようなデザインだ。
 その代わり、中身の動作機構はかなり手が込んでいるらしい。文字盤を見れば一目で分かる。何せ普通の時計には無い、八つの小さ
な窓が並んでいるのだから。
 ガラスの風防の中に納まっているそれを、僕はもう一度じっくりと観察する。
 時計回りにずらりと並ぶ、1から12のアラビア数字。その輪の内側に小さな窓が四つずつ、上下二段に並んでいる。そしてその窓
の中にも、文字盤と同じアラビア数字が一文字ずつ収まっている。
 内訳は上段左から2、0、0、8。下段に回って0、4、2、8。
 この数字は一体、何を表しているのだろうか――なんて考え込むのは実にバカバカしい。
「カレンダー機能だよね、どう見ても」
 懐中時計を机に置きつつ、何となく壁にかかっている月めくりのカレンダーを見やる。今日は四月二十九日、昭和の日。一昨年まで
はみどりの日と呼ばれていた日であり、つまるところの祝日だ。だから八時五十分と言う時間にもかかわらず、学校へ行かずにノンビ
リする事が出来ているわけだけど、そんな事はどうでもいい。
 今の僕が考えるべき事は、この懐中時計をどうすべきかだ。
 まぁ、深く考えるまでもないんだけど。
「……別にいらないよな、こんなの」
 とりあえず、正直な感想を口に出してみた。
 確かに骨董品として見れば結構な価値があるのかもしれない。何せゼンマイ式なのに、カレンダー機能がついているのだから。けど
そんな物よりも、腕時計や携帯の時計機能の方が圧倒的に使いやすいのは、考えるまでも無い事だ。
 それらの事実を踏まえて、以下結論。
 あのオッサンが何を考えて僕にこの時計を渡したのかは、未だにさっぱりわからない。その意図が果たして何だったのか、気になら
ないと言えば嘘になる。けどそれを解決するよりも、最近少しばかり寂しくなって来た懐を温めた方が、僕としてはおいしい。何せ珍
しい骨董品なのだから、きっと良い値で引き取ってもらえるハズだ。
 以上、結論終わり。
 早速近所の骨董品店をグーグルマップで調べるためにパソコンを起動しようとして、そこで僕は思いとどまった。
「そういやこの時計、動くのか?」
 昨日の日付のまま止まっているカレンダー時計を、僕は改めて手に取る。意気込んで骨董品店へ行くのは良いとしても、その売却予

32 :No.07 心を干乾びさせる時計 3/5 ◇71Qb1wQeiQ:08/04/06 00:24:28 ID:tBFmZvQG
定品が壊れていたら話にならない。
「ネジが切れてるだけ、だと良いんだけど」
 壊れていない事を願いつつ、僕は懐中時計の竜頭を慎重に回す。
 きりきり、きりきり、軋みながら巻き戻っていく歯車。
 その音に、僕はなぜか違和感を覚えた。気のせいかもしれないけれど、金属の噛み合う以外の音が聞こえたのだ。何かこう、得体の
知れない音が。
「……アホくさ」
 強めに頭を振って、そのバカげた錯覚を追い出す。変に興奮して扉の鍵をかけたり、カーテンを閉めたりしたからそんな気分になっ
たんだ、きっと。
 さっさとカーテン開けて、電気も消さないとな――そう思いつつ、僕は懐中時計の竜頭を押し込んだ。
 かくしてネジが切れていた懐中時計の秒針が動き出し、それと同時にカーテンを開ける必要も無くなった。
「え、あれ?」
 最初は、何がおきているのかサッパリ分からなかった。
 手元を見る。座っているのは相変わらず机だけれど、それは自室のものではなく、学校のそれに変わっていた。
 周りを見る。窓側から三列目、前から四番目。ここは嘘でも冗談でもなく、僕の教室の席だ。
 更に周りを見る。並ぶ机に座っているのは、間違いなく同じクラスの面々ばかり。見間違えるハズがない。
 もう一度、手元を見る。左手が握っているのは、コチコチと律儀に時を刻む小さな懐中時計。ただし記憶と合っているのはそれだけ
で、それ以外は何もかもが違っていた。ジャージだった僕自身の服装さえ、学ランに変わっていたのだから。
「な、なんで!?」
 思わず口から飛び出してしまった、抑えきれないその疑問。半分叫び声じみていたその驚愕が注目を引かないはずもなく、一瞬で教
室中の視線が僕に集まってしまった。
「何だ何だ、どうしたんだ?」
 かくしてその視線の群れを代表し、大きく見開いた目と疑問を僕に投げかけて来る、教壇上の歴史の先生。
「あの、ええと、すいません。悪夢にうなされてました」
 とはいえ正直に答える事なんて出来るはずがなく、僕はひたすら茶を濁すしかなかった。
「……夜はしっかり寝とけよー」
 そんな呆れとため息を吐き出しながら、先生は黒板に向き直って織田信長の説明を再開。それと同時に教室の空気がさざめいた。潮
騒のように寄せては引くその音が完全に消えてから、それがクラスのみんなの笑い声だったんだという事に、僕はようやく気がついた。
 いつもなら、あまりにも恥ずかしくて死にたくなっていただろう。けど、今の僕にとってそんな事はどうでも良かった。もう一度、
確かめなければならない事が出来てしまったのだから。

33 :No.07 心を干乾びさせる時計 4/5 ◇71Qb1wQeiQ:08/04/06 00:24:45 ID:tBFmZvQG
 震える手で懐中時計の竜頭を引き、分針を一分前に戻し、もう一度竜頭を押し込む。
「……夜はしっかり寝とけよー」
 その直後、先生はさっき言ったはずの呆れとため息を、もう一度吐き出した。そしてそれに合わせて、教室の空気がさざめいていく。
 先ほどとまったく同じ音色を奏でながら、寄せては引いていく教室中の笑い声。暴れまわる心臓と反転してしまいそうな意識を必死
でなだめつつ正面を見れば、今しがた書いたはずの織田信長の説明を、先生はもう一度黒板に書いていた。
 先ほどと一言一句変わっていない内容の文章を、しかもまったく同じ位置に。
 ウソだ、バカな、信じられない、デタラメだ、ウソ八百だ、科学的に考えてありえるはずがない……そうした言葉を百万個並べたと
ころで、目の前の現実を否定する事なんて、出来るはずがなかった。
 ああ、もう、本当に信じられないけれど、認める以外に選択肢はない。
 この時計は、時間を巻き戻す事が出来るんだ――!
「は。はは。はっはは、あははははははははは!」
 ノドの奥から濁流のようにこみ上げて来たその笑いを、僕はあえて塞き止めなかった。
「くふ、ははは、あっははははははははははは!!」
 かくして教室中に充満する忍び笑いをなぎ払った僕に、もう一度殺到してくる視線の束。それを、僕は甘んじて受け止めた。恥ずか
しがる気持ちなんて微塵もない。あるはずがないんだ。
 だって、そうだろう?
 巻き戻してしまえば、ほら。元通りの静かな教室になるんだから。



「んっ、んー……」
 革張りの椅子に座ったまま、俺は大きく伸びをしつつ、首を回す。ゴキリと良い音がした。まぁ、四十後半の身体なのだから仕方が
ない。
 それから何気なくスーツのポケットに手を入れ、中から随分長いこと愛用している懐中時計を取り出す。
 風防内の時計とカレンダーは、二千三十八年、四月二十八日の十一時三十六分を指し示したまま止まっている。切れたネジを巻き直
せば、またいつものように動き出すだろう。
 だが、俺はもうそのネジを巻くつもりはない。
 今から丁度三十年前、この時を戻す懐中時計を手に入れてから、俺の人生は大きく狂った。
 コイツ手に入れた直後の俺は、とにかく浅ましい欲望を満たすために、まぁ何だ、色々とやらかした。
 何せ、時間を戻せば全てチャラになっちまうんだからな。そんなオモチャを手に入れたバカが、暴走しないわけが無かったのさ。

34 :No.07 心を干乾びさせる時計 5/5 ◇71Qb1wQeiQ:08/04/06 00:25:04 ID:tBFmZvQG
 だが、いつまでもやってりゃいい加減に飽きる。だからそのバカは、次の暇つぶしとして株式投資に目をつけた。売り時と買い時を
覚えてから時間を戻し、その通りに株を売る。これをしばらく繰り返せば、インスタント小金持ちの一丁上がりとなるんだからな。
 そしてそのバカは稼いだ金を使って小さな会社を造り、その会社はあっという間に凄まじい大企業にまで発展した。バカがワンマン
で舵を取るその会社は、失敗する事がまったくなかった。まぁ当然ではあるな、時間を巻き戻してやり直せるんだから。
 かくして大企業の会長におさまったそのバカは、今まで以上にありとあらゆる蜜を吸い取った。それこそ合法、非合法を問わず、
ありとあらゆる旨味を、な。
 で、寿命が来て死にそうになったら、時間を思いっきり戻して学生に戻る。後は同じ事の繰り返しだ。
 そうして何十回……いや、何百回かな? とにかくそのバカは、そんな感じでシロップ漬けのように甘い人生を送っていたんだが、
ある日突然、その心に穴が開いてしまったのさ。
 その穴は、最初こそ針でつついたような小さな点だったんだが、時計を巻き戻すたびに大きくなり、気がつけばバカはその穴に心を
ほとんど飲み込まれてしまっていた。
 穴の名前は、むなしさ。
 生きる原動力となる欲望を使い切ってしまったがために、その埋めようのない穴が開いてしまったワケだ。
 要は、心が干乾びてしまったんだな。
 だから昨日この懐中時計のネジが切れた時、俺はこの時計のネジを巻く気になれなかった。もう、人生の旨味に興味はないのだから。
「……ああ、そうか」
 三十年前、あのオッサンがこの時計を手放した理由が、今やっと分かった。
 例えどんなに素晴らしい物だろうと、価値も意味も見出せなくなったら、それはただのガラクタになってしまうのだ。それこそ、
赤の他人にくれた所で痛くも痒くもないくらいの。
 そしてこの懐中時計は、そうやって先人達の手を渡り歩いてきたのだろう。
「なら、俺もそうするべきかな」
 さすがにあのオッサンのように自殺する気はまだないが、この時計を手放すこと自体は大いに賛成だ。なので俺は、早速携帯で秘書
に今日の予定を全てキャンセルする旨を伝えた。スピーカーの向こうで聞きなれた秘書の声が泡を食っていたが、それを無視して通話
終了。
「さてと。どこのどいつにこの時計をくれてやろうか」
 その辺は道すがら、気の向くままに考えるとして、最初に言うべき言葉は……やはりアレしかないだろうな。


「キミキミ、そこのキミ。そう、キミだよ。時計はいらないかね?」



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