【 ほらの後ろ、隠れた煙 】
◆ecJGKb18io




7 :No.02 ほらの後ろ、隠れた煙 1/5 ◇ecJGKb18io:08/04/05 09:22:39 ID:KX2VchaT
 ほら吹きジジイは今日も空を食べていた。
「和坊よ。時代ってのは凄い速度で変わっていくんだぞ。そりゃもうぼけっとしてたら置いてかれる
 くらいにな。でも空とかは全然変わんねえんだ。飽きるくらい見てるが全然変わんないんだわ」
「だからって"空"を"おかず"にすることないだろ。煮物は冷蔵庫に入れとくよ」
 僕はいつものようにホラじいの分けの分からない言葉をさらっと流して、縁側から勝手に家に上が
った。居間を出て廊下を横切り、台所の冷蔵庫を開けた。予想通り中はすっからかんだったが、魚の
切り身のパックが幾つかあって、僕は呆れた。きちんとした食べ物があるなら食べればいいのに。溜
め息をつきながら自宅から持ってきた母お手製の煮物が詰っているタッパーウエアを冷蔵庫に入れた。
 台所を出て、居間に戻る途中の廊下でふと足を止めた。なんだか懐かしい匂いがしたのだ。ホラじ
いの家は凄く古くて、馬鹿みたいにでかい平屋だから廊下もとても長い。一直線に伸びる廊下の奥を
見て、記憶の隅に残る思い出が少しだけ脳裏に滲んだ。この家には"こやき"が棲んでいるのだ。
 縁側に戻ると、ホラじいはまだ茶碗を片手に空を食べていた。ここの所、よく食べるらしい。
「空ってどんな味がするんだろう」僕は座って、持ってきた回覧板を何の気なしに眺めながら言った。
「そんなもんお前、日によって違うに決まってるだろう。今日みたいに晴れた日は焼き魚の味で、本
 当は夜の方がうめえんだ」
 僕は回覧板を閉じ、空を見上げて想像してみた。春晴れの青一色の空は爽快な程に美しい景色だが、
今日の空が焼き魚の味だとはとても思えなかった。そもそも空に味がついているという発想そのもの
が僕にはないのだ。
「魚の切り身なら冷蔵庫にいっぱいあるのに」
「最近の魚は不味いだろ。海がきたねえから魚も不味くなるんだ」言って、ホラじいはゆっくりと白
飯を口に運ぶ。僕は伸びをして、そのまま仰向けに寝た。この頃になってようやく春の陽気が増して、
身体がぽかぽかと暖かく気持ちよかった。やはり縁側というのは良いものだ。縁側の前に広がる庭で、
光線を浴びている常緑木も伸び伸びと葉を投げ出して、昭和を体現したような古屋とよく合っていた。
今では中々見掛けなくなってしまったのだが、それはとても悲しいことのように思えた。

「和坊よ。魚の祖先は何だか知ってるか?」しゃがれた声でホラじいが言う。
 僕は少し考えてから目を閉じて「知らないけど、無顎類だとか脊索動物だとか」と答えた。
「宇宙人だ。あいつらは形態変化が上手だからな。地球人を観察するために海に潜って、侵略の機会
 を窺ってるんだ。海が汚れたのは事実を知る政府の陰謀で、一掃しようとしたんだが、逆に魚を食
 った地球人が毒されてる。向こうのほうが一枚上手なんだよ」
「自分も食われてるんだからイーブンじゃないの」僕が笑って、ホラじいも笑った。

8 :No.02 ほらの後ろ、隠れた煙 2/5 ◇ecJGKb18io:08/04/05 09:22:56 ID:KX2VchaT
 ホラじいは五年前に奥さんを亡くして、それからはずっとこの家で一人暮らしを続けている。歳の
割にしっかりした老人でお手伝いさんも雇わずにのんびりと暮らしていた。家が近いという理由で僕
は時々こうして母の手土産を持ってホラじいの様子を見に来るのだ。かれこれ十年近い付き合いにな
る。
 初めてホラじいと出会ったのは小学四年生の冬だった。面白いじいさんがいる、と仲間の誰かが言
って、じゃあ見に行こうという話になったのだ。誘われがまま僕もついていき、辿り着いた場所が自
宅の真裏で驚いた記憶がある。しかし行ったはいいものの、いきなり家を訪ねる勇気はなかったし、
結局、数人でその家の周りをぶらぶらとうろつくことしか出来なかった。
「そんな所で何してるんだ、クソガキども」
 第一声はそんな言葉だったように思う。僕らが声のする方を見ると、石塀の上からひょっこりと老
人が顔を出していた。怒られると思って逃げようとする僕らを「待て待て」と引き留め、老人はこっ
ちへ来いと手招きをした。僕らは恐れおののきながら、老人の指示通りに庭先へ足を運んだ。
「何してたんだ、うん? こんな腐れジジイのところに遊びに来たわけじゃあるめえ」
 縁側にどっしりと座り、怒っているのか笑っているのか分からないような顔つきで喋る老人は、ど
ことなく楽しんでいるように見えた。僕らが何も言う事が出来ずに、黙っていると、老人は一人納得
したように話し出した。
「そうか。さては俺の話を聞きにきたんだな、ガキンチョども」
 ぽかんとする僕らを尻目に、老人は独演を前にしてコホンと一つリズムを取る落語家のように間を
置いて話を続けた。僕らは何が始まるのかと、内心ドキドキしていた。
「そうさな。戦争の話をしてやろう。あれは四十五年の夏の入り口だったか。ちょうど日本が戦争で
 圧されてた時の話でな。政府っちゅう国のお偉いさん方が集まるところがあるんだが、日本が負け
 てるもんだから統率が取れないくらいに混乱してたんだな。まあ、とうの昔から統率なんぞあって
 なかったようなもんだが、ガキンチョどもにはまだ分かるめえ」
 僕は黙って頷いた。そのときの、妙に話に引き込まれる感覚は今でも覚えている。
「とにかく日本が負けてて勝ち目がないっつう時にも関わらず馬鹿みてえにやれいけほれ押せとやっ
 てたわけだ。てんで勝ち目なんてねえんだ。無駄死に、犬死にってのはああいうことだな。だから
 俺が天皇陛下に言ってやったのさ。天皇分かるか? 国で一番お偉い方だ。『日本は勝てない。だ
 から降伏したほうがいい。いずれ日本は立ち直る。世界で一番の国になるから今は降伏するべきだ』
 ってな。それで結局日本は降伏したのさ。後の時代のためにな。どうだ、凄いだろう?」

9 :No.02 ほらの後ろ、隠れた煙 3/5 ◇ecJGKb18io:08/04/05 09:23:12 ID:KX2VchaT
 当時はそんなデタラメを当たり前のように信じきっていた。嘘をつく大人など見たことがなかった。
なんて凄い人なんだろう、当時の一片の汚れもない少年であった僕は素直に尊敬した。それから学校
が終われば我先にと争うように老人の家を訪ねて、話をせがんだ。そのどれもが僕らにとっては本物
で、まさかそれが嘘だとは思いもしなかったのだ。
 けれども、それも長くは続かなかった。幽霊や宇宙人の存在、あるいはそれらとの交信、ロビンソ
ン・クルーソーばりのアドベンチャーの数々。春を迎えるまでもなく、"ホラ"は露わになった。嘘
だと知ったときはそれなりにショックも受けたし、腹立たしい思いもした。しかしそれでも僕らは老
人の話を聞きに足を運んだ。真実だとか嘘だとかは置いておいても、ホラじいの話の面白さは僕らに
とって、他でもない本物だったからだ。
 春の陽気が本格的に暖かくなってきた頃、僕を含めた数人はホラじいの家に集まっていた。いつも
のように学校の帰り掛けではなく、夜の七時ごろだったように記憶している。
「よしよし、全員集まったな。じゃあ始めるぞ」
 ホラじいは悪餓鬼の総大将のような顔で僕らを見回して言った。
 古い家には鬼が住み着くんだ。ホラじいはいつもよりも真剣な顔でそう言った。仲間の一人が「ま
たホラかよ」と笑った。    
「馬鹿言うんじゃねえ。これはマジだ」教えられたばかりの若者言葉を使うホラじいがニヤリとする。
「いいか。鬼ってのはどこかの島にいるんじゃねえ。人間の住む家に居るんだ。それも古い家に棲み
 ついてな。よそ者をがばっと引き込んじまうんだな、アッチの方に」
 部屋から洩れる光がホラじいの顔に不気味な陰を落としていた。ただでさえ皺くちゃな顔が、当時
の僕の目にはそれこそ妖怪の類のように見えた。
「なんで引き込むのか。喰うんだな。でかい鍋でぐつぐつと煮込んで、とろけるまで煮込んでからゆ
 っくりと喰う。腕を引き千切って、足をもいで、な」
 話の内容もそうだが、凄みの増したホラじいの顔に仲間の中で一番臆病な奴が「ひぃ」っと顔を引
き攣らせた。僕もそれなりにびくびくしていた。ホラだと思っていても、怖いものは怖いのだ。
「それでなんで僕らを呼んだの?」僕は震え気味の声で言った。
「居るんだよ。おめえらがあんまりほら吹きほら吹き言うからな。今日は見せてやろうと思って、呼
 んだんだ。あの廊下のずっと奥に、居る」
 一瞬、しんと静まった。あんまりホラじいが怖いので、誰も言葉を発することが出来なかった。
「見に行くだろ? まさかこれだけ男が集まって怖いってことはあるめえな」

10 :No.02 ほらの後ろ、隠れた煙 4/5 ◇ecJGKb18io:08/04/05 09:23:29 ID:KX2VchaT
 廊下はほとんど何も見えないくらいに暗く、外の気温よりもずっと寒いような気がした。後ろを振
り返ると、縁側がある居間だけ薄く電気が点いていて、それだけが頼りだった。しかし当然、進んで
行くごとにその灯りの効果もなくなっていき、僕らは手を壁につけたまま探り探りの状態で歩くしか
なかった。「お、おい。そんなに早く行くなよ」後ろからそんな声が幾度か飛んだ。
 僕は成り行き上、何故か先頭を歩かされていたので少しだけ速度を落とした。ずっと壁に手をつけ
ていくと、時々部屋に繋がるドアがあったりして、その手触りの変化に心臓が飛び跳ねる思いだった。
 廊下の突き当たりの物置部屋。ホラじいはそこに"こやき"が居ると言った。ちょうどその突き当
たりに辿り着いたときには、手の平がじっとりと湿っていた。
「……開けるよ?」僕は後ろを振り返って、全員の意思を確認した。
 手探りでドアを探ると、引き戸の取っ手らしき窪みがあり、僕はそこに手を掛けた。
「……開けるからな?」
 僕がそう言って、もう一度後ろを振り返った時だ。引き戸が激しい力で勝手に動いて、けたたまし
い物音がし、それから暗闇の中で目を見開かせる仲間の顔が、見えた。
「うあああああああああああああ!!」
 それはまさに絶叫だった。後ろの物置の方から何かに押された僕はバランスを崩してそのまま床に
倒れ込み、ドタドタドタと一心不乱に逃げ惑う仲間の姿を目の端に捉えた。何が何だか分からずにい
ると、がっと肩を掴まれる感触がした。
「ヨソモノ……見つけた」
 振り向くと、そこには鬼の顔があった。

「はぁー、面白い。でも面白いなんて言っちゃ悪いわね。驚いたでしょう? ごめんねえ」
 おばさんはそう言った後でもしばらく笑い続けていた。ケラケラと転げるように笑い、ホラじいに
負けないくらいの皺くちゃな顔を更に皺くちゃにしていた。
「そんなに怒るなって和坊。みんなも悪気があっておめえを置いて逃げたわけじゃねえんだし」
 僕らは縁側に座って、おばさんが出してくれたジュースを飲んでいた。
「怒ってないってば」僕はそう言ってジュースを飲み干した。怒っているのではない。『失神』して
しまった自分が恥ずかしかったのだ。それに少しだけ緊張していたのもある。おばさんと会うのはそ
の日が初めてだったからだ。当時はホラじいに奥さんが居るとは知らなかった。
「ね、もうすぐ夕飯が出来るから機嫌直してね」
 庭先に置いた七輪を団扇でぱたぱたと扇ぎながら、鬼おばさんが可愛らしく笑った。

11 :No.02 ほらの後ろ、隠れた煙 5/5 ◇ecJGKb18io:08/04/05 09:23:45 ID:KX2VchaT
 寒気がしてハッと目が覚めた。ぼうっとする頭で起き上がると、身体には毛布が掛けられていた。
辺りは既に薄暗く、どうやら縁側で眠っていたらしいと分かった。
「やっと起きたか。二十歳の大学生だかになっても越えてもガキみたいに眠りやがる」
 後ろからホラじいの声がして、僕は寝癖のついた頭を掻いた。
「夢を見てたよ。子供の頃の、怖かったやつ」言ってから、僕は気がついて股間の辺りを確認したが、
想像したような事態にはなっていなかった。流石にそこまで子供ではないようだ。
「今何時だろう。もう晩飯の時間かな」言って僕は辺りを見回したが、見える範囲に時計はなかった。
外の暗さに再び目をやると、夢の終わりを思い出して、じわっと涎が口内に出た。
「おばさんに挨拶してから帰ろうかな。最近してなかったから」僕が言うと、ホラじいは一瞬驚いた
ような顔をしたが、すぐに元の皺くちゃな顔に戻って口を開いた。「死んだ者に挨拶も糞もあるか。
五年も経ったんだ。ばあさんだって和坊の事なんて忘れちまってる」
「どうだろうね。神出鬼没だから、おばさんは」
 僕は居間の奥の和室へ行って、おばさんに線香をあげた。身体が弱くて入退院を繰り返していたお
ばさんも遺影の中では随分と健康そうに、そして楽しそうに笑っていた。
 居間に戻って縁側に座っているホラじいに声を掛けた。
「それじゃ、帰るよ。ホラじいも"空"ばっかり食べてちゃ駄目だよ。五年も経ったんだから」
「馬鹿言うな。空が食えるわけねえだろ」言って続ける。「それよりおめえちょっと手伝っていけよ」
 ホラじいは早口にそう言って、半身をこっちに向けて僕の方へぽんと何かを投げ渡してきた。
「なに、これ」僕が疑問を口にするや否や、外から子供達がわいわいと騒ぐ声が聞こえた。すると、
ホラじいがさっと立ち上がり、「さっさと行け、和坊」と僕を部屋の中へ押し戻した。
「ガセじい!来たよー」キンキンとする甲高い声を出しながら、子供達がぞろぞろと庭にやってきた。
「よしよし。全員集まったな。今日は河童と会った話をしようと思ったが、その話は止めだ。今日は
 "古屋鬼"の話をするぞ。昔から古い家には鬼が棲み付くといってな、そりゃもう、そうだな。軟
 弱なガキンチョだったら失神するくらいに怖い鬼でな……」
 僕は部屋の物陰からホラじいの声を聴いていた。時々、「またガセネタだろ」だとか「嘘だよ」と
言う子供の声も聞こえて思わず笑ってしまった。なんとなく想像出来たのだ。嘘だ何だと言いながら
も目を輝かせている表情が。
 どうやら時代が変われど言葉が変われども、変わらないものはあるらしい。
 僕はホラじいに渡されたお面をつけて、こっそりと廊下へ出ることにした。最期にちらっと覗き見
た縁側の庭先に、夜空に立ち昇る煙が薄っすらと見えたような気がした。             <了>



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