【 揺籃期 】
◆IaQKphUgas




2 :No.01 揺籃期 1/5 ◇IaQKphUgas:08/04/05 09:20:25 ID:KX2VchaT
「アキ、これを着けてくれ」
 学校が終わった直後に呼び出されたかと思えば、またこんなんだ。隆が差し出した右手には、やたらサイバーで
メタリックなサングラスがあった。耳かけの部分には、イヤフォンが埋め込まれている。さらにケーブルが左手のノ
ートパソコンへ繋がれており、何やら大仰なノイズをひっきりなしに産出していた。
「なにこれ」私は睨みながら訊いた。
「ARを、拡張現実感技術のことな。あれを俺も使ってみたんだ。ちょっと違うのが、音声情報も同じくリアルタイムで
変形させるところなんだよ。これもゲーム用途のAPIを使っているんだが、革新的だぞ、EAXや3Dプロロジックの要
領で、音域を変化させて、あらゆる階調の――」
「要するに?」
 と、私は途中で遮った。呆れるぞ、まったくこの工学オタクめ。昔っからこうだ。時折サボっては、こんなことばかり
やっている。
「つまり、現実を改変できる!」えへんと、隆が胸を張った。
「へぇ」私は鼻を鳴らした。
「だからな、サキ」

「私にテストしろと。ここで、これ着けて、周りを見てればいいのね」
「そうだ」
 強引に手を引かれ、中心街まで連れてこられた。何でも人が一番いるから、だそうだが、私はうら若き乙女なのだ。
こんなグラサン着けて衆目の中へいけるか、と抗議したが、なら目立たない場所で、と結局手を引かれた。
 平日午後なので誰もいない公園の、また片隅のベンチ。ここは樹木を挟んで、大通りの交差点と、飲食店、商店街、
諸々全てが見渡せる場所だ。私が教えてやったのに、隆はさも手柄顔で「ここなら恥ずかしくないだろう!」と指し示した。
 このグラサン、ぶち壊してやりたいところだが、もうしばらく付き合ってやろう。今日はグラタンを作ろうかな、と考え
ながら、私は着けた。ごわごわする。メタリックな着色の所為で、視界が銀色だ。イヤフォンはよく音を通したので、聴
覚に問題はなかった。
「着けたわよ」
「よし。ふむ、どこにするかなぁ……あそこがいいな。ほれ」と、隆が手元のパソコンを弄った。
 すると、男女と思しき二人組の会話が、突然聞こえだした。またこんなのか。人為的周波数を省いて直線方向のみ
の音声を増幅……云々だったか。どうやら左手側の喫茶店らしい。
 女性の方は若く、恐らく二十代。男は、四十くらいだろうか。赤ら顔にビール腹。男が、しきりに何か頼み込んでいる。
「三なら……三ならどうだい……」と言っている。女が「わたしはそんなに安くない」と返した。ふむ。下種な会話。

3 :No.01 揺籃期 2/5 ◇IaQKphUgas:08/04/05 09:20:48 ID:KX2VchaT
「なるほどあんた、私にこんな下卑た話を聞かせたかったの?」
「違うんだよ。下品が上品になる手品さ。サングラスの右側にあるダイヤルを"フョードル"に合わせてくれないか」
 呆れながらも、渋々言われた通りに、ダイヤルを合わせた。他にも色々とメモリがあるようだ。まったく、これで
「これで一体何が変わっ――うわ、うわ、なにこれ!」
 突然、中心街が様変わりした。道行く人々は、すり切れたフロックコートを着込み、顔も彫が深く、鼻が長くなっている。
また全ての建物は、木造の低いものになっていた。さらに看板の文字は、ロシア語に成り代わっており、聞こえる言葉
は――
「言葉だけ、日本語だわ」
「便宜的にそうしているのさ、さぁ、心を開きたまえ! 本質はここからだ!」そういうと、隆(彼も、顔がロシアと化して
いた)が、十字を切った。
 男女の会話も、当然ながら変わっていた。さらに動作も、容貌も。あのビール腹であった男は、変わり果てたやせっ
ぽちの体躯と、その豊かな顎髭を揺らしながら、女性へ涙ながらに声をあげていた。
「おぉ、母なるロシアの民よ! 僕は、僕は卑しい人間だが、しかし希望がある! 民衆よ、貴族たちよ、君たちは純朴
そのものだが、絶望しかない、悲しいかなロシアよ」
「お立ちなさい、お立ちになって!」売り子の格好をした女が、険しい顔つきで、男に厳しく言い添えた。
「かわいそうな人、無神論を希望だとおっしゃるのね。わたし、学のことはわかりませんが、でもわかります、わたした
ちには希望があります。あなた方こそ、絶望しかなくってよ」
 男は感激に、全身を震わせた。わなわなと手を女へ差しのばし、口を開く。
「リーザ、愛しいリーザ! 聡明な君よ、確かに君――」
 私は色眼鏡を外した。
「確かに五万だよ、うん、リサちゃんにはそれだけの価値があるけどさ、おじちゃん、今月ちょっと厳しくて……」
 全てが元に戻っていた。中心街は中心街。看板も日本語。
「どうだい、世界がドストエフスキーになったろう」見ると、隆はさも満足そうに、私の当惑しているであろう顔を眺めてい
た。ムカつく野郎。
「あらゆる時代の文学を、拡張現実として再現させるんだよ。いや、我ながら凄い発明。次は"レフ"のメモリに」
 このまま言いなりとなるのは、なんだか癪だったが、でも好奇心の方がそれよりずっと強い。CGっぽさがあったけれ
ど、確かにあれは拡張現実、まるでタイムスリップしたみたい。考えるより先に、気づくとダイヤルを合わせていた。ち
くしょう、好奇心ってやつは。
「どうだサキ、今度は何が見えるかい」
 そして隆は、コンビニで向かい合っている学生カップルの会話を聞かせた。朝礼についての会話が、なぜか礼拝に

4 :No.01 揺籃期 3/5 ◇IaQKphUgas:08/04/05 09:21:05 ID:KX2VchaT
ついて、という話になり、周りも再度ロシアになっていた。コンビニは酒屋になり、ウォッカだらけだ。そして二人は、最
終的にキリスト教は最高だという結論に至って、口づけをした。「これは何て作家なのよ」「トルストイだよ」
「次は日本言ってみようか。"森"に合わせて」
 そこで突然、交差点で交通事故が起こった。青年がうめき声をあげている。周囲の人たちが「これは、fatal(フェータ
ル)な傷だ」とざわめいていた。「Pulse(パルス)はどうかね! Normality(ノーマリティ)か」自分は医学部だと言いなが
ら、一人の若者が群衆を掻き分けて出た。その群衆の中で、一組の男女が特に目立っている。互いに身を寄せ合い、
あの人助かるといいね、きっと助かるさ、と互いに励まし合っている。
「なぁにこれ」
「後期森鴎外」
 その後も、様々な時代の作家とその拡張現実とを、隆は見せた。たとえば志賀直哉などは一寸漢字が多くて私な
どは疲れてしまった。しかし不図見るとその景色の美しいことに、私は心奪われた。そして矢張りそこらで男女が、愛
を奏でている。あまりにも仲睦まじいので一寸イライラした。
 夏目漱石もそうであった。一見して風景は志賀と同様であるが、夏の底抜けに青色な情景は素晴らしく、すっかり魅
入られた。そこら中の女と男は、二人して腰を並べ、知的に笑い合っていた。
 ですが太宰治ともなると、いよいよ疲れが極致に達しました。まだ明治で、田舎的で明るい景観ですが、何かおどろ
おどろしく、そして自分がたえず、どうしようもない人間であるという猜疑心に、苛まれたものです。しかし男女は相も変
わらず、幸せそうに笑いあい、どうしようもなくなりました。
 ここまで来てやっと気づいたが、やたらカップルが多いな。疲労の上血管が切れそうだ。
「よーし、次はスタンダールだな。ナボコフや……ヘミングウェイ……レヴィナス、カフカ、ジョイスとプルーストもいって
みよう」
「ちょ、待って隆……待って、疲れちゃったよ、私」
 そういって、ベンチにへたりこんだ。気づけばもう、夜の手前だ。私たちの背後には、落ちかけた陽があって、影がす
ぅっと伸びていた。私の疲れが影向されてるよ。
「そうか」こともなげに、隆はそう言うと、パソコンを地面に置いた。大丈夫なのか。そしてどこかへ走り出した。大丈夫
なのか。
 二分して、両手に缶コーヒーを持ち、戻ってきて、はい、と差し出された。受け取ると、隆は隣に座る。私たちは無言
で、冷たいコーヒーを飲んでいた。甘い。私は無糖派なんだ、けれど、さすがにそれを今言うのは失礼だ。
「どうだった、AR」早くも飲み終えた隆が、そう尋ねた。私はちょびちょびと飲んでいた。
「んー」
 私は答えに窮して、というよりも、疲れていたから、とりあえず思いついたことが口をつく。

5 :No.01 揺籃期 4/5 ◇IaQKphUgas:08/04/05 09:21:22 ID:KX2VchaT
「なんか、カップルが多かった」
 言ってしまった後に、はっとした。これはARやらと関係がない。まるでコンプレックス丸出しじゃないか……気恥ずか
しくなりながら、隆を横目で盗み見た。
「うん、いつの時代も恋愛ってのは、最大の関心事なのさ」なにやら妙に自然と応対してくれた。
「それじゃ、隆はどうなのよ」
 隆があまりにも自然に"恋愛"なんて言うもんだから、よせばいいのに、つい質問攻めにしたくなってしまう。隆は、う
ん? とこちらを振り向き、何やら思案げだ。
「いやさ、いつの時代でも恋愛って関心事なんでしょ。私から見て、隆って三世紀進んでるもん。だから、二十四世紀で
も、恋愛って最大の関心事なのかなって」
「そういうお前はどうなんだよ」
 ニヤつきながら、こう返された。まったくこいつは、普段機械と本にばかり向かっているから、性格がひん曲がるのだ。
ちくしょうめ、いないよ、ないよ、それがどうしたんだよ馬鹿!
「俺だっていない。いいもんね、俺の関心事は当分科学へと向いているからさ!」
 そう高らかに宣言しながら、隆はガッツポーズ。なんだか最高にかっこわるい。
「かっこわるいと思ったろ」
「思ってないよ」わざとらしく、声を裏返えした私。
「いいんだよ、俺は科学でもって、恋愛を成し遂げてみせる」
 やたら自信たっぷりに、隆は言い切った。どうやるんだよ、科学で恋愛成就って。告白すらできないと思う。
「それにしても、平日なのに、中心街ってあんなにカップルが多かったんだね。初めて知ったよ」
「それは違うよ。俺が誇張してるのさ」
 隆がそう呟いた。何か引っかかったので、問いただそうと思ったが、暇なく例のグラサンを投げ渡される。また着けろ
と言うのか。
「そう、着けて。これで終わりだよ。さ、早く。そう長くはかからない。ダイヤルは"ウィリアム"」
 しょうがない、まったく隆の暇つぶしに付き合うのも、骨が折れる。缶コーヒーは置いといて、公衆トイレの変化でも楽
しもう。
 今度は着けた途端に、もう辺りがまるで違っていた。ここは……どこだろう。イギリスっぽい。十五世紀あたりか。公
園が華やかな宴会場と化していた。辺りには中世貴族がわんさかだ。トイレが卓となり、潤沢で絢爛豪華な料理が置
かれている。ちょっとチョイスがひどくないか。
「ねぇ隆、これ」
 隆の方を見ると、いなかった。その代わり、少し離れた場所に、仮面をつけた伊達者がいた。そいつが私の手をとっ

6 :No.01 揺籃期 5/5 ◇IaQKphUgas:08/04/05 09:21:40 ID:KX2VchaT
て、聖地と呼び、もしこれに手を触れて汚したのであれば、自分は赤面した巡礼だから、償いのために接吻させて欲し
い、と言った。なんて恥ずかしい台詞だ。
「あなた、キスなんてやめてください。とは言っても、ホログラムでしたね。隆、どこにいったの」
 私が言うと、仮面の男が「聖者には唇がないのでしょうか、それに巡礼には?」
「お祈りに使うんだから、唇はあるでしょう……」
 私はどぎまぎして、そう返した。ちっくしょう、いちいちクサイよ、このホログラムめ。それに声が、隆にそっくりで。
 すると、男が言った。「それならば、私の愛する聖女さま。私の祈りを聞き届けてください。でなければ、私は絶望して
しまいます。」
 情けないが、いよいよ私は赤面してしまい、思わず硬直した。耐性がないのだ。悪いか。
 どう答えたものか分からず、固まっていると、向こうも動かず、じっと私を見つめていた。おのれホログラム。なんだ
か、機械と向き合っているときの、隆の真剣な瞳に似ている。
「サキ! そこで何をしていらして」するとふいに、そう声をかけられた。宴会場沿いの道に、馬車が停まり、中からケ
バケバしい貴婦人が顔をだした。む、声に覚えがある。焦り、私はグラサンを外す。やっぱりお母さんだ。ケバケバし
いところ以外に合致がない。おまけに馬車は、ボロいワゴン車となった。
「遊んでないで、早くお帰り。今日買い物に行くんでしょうに」母は憮然として言い、走り去っていった。しまったそうだっ
た、買い物に行くんだった……。すっかり失念。
 隆に告げようと振り向くと、さっきと同じ、隣に座ったままだ。なんだか怒っているように見える。
「どこにいたの」
「ここにいたよ。俺だけは不可視にしているんだ」やっぱり少し怒ってる。「ほら、早く行きなよ。協力ありがとうな。いつ
かお礼するよ」
 言って、私を促した隆は「こんなところまで、原作通りじゃなくていいのに」と、一人ぶつぶつ。なんだこいつは。
 そうだ、ところで「さっきのはなんて作品?」もう歩き出しながら、私は訊いた。
「シェイクスピア、ロミオとジュリエット!」隆は、少し大声で答えた。
「へぇ、でも、肝心のロミオとジュリエットはどこだったのよ?」公園の出口近い。私も大声で、また尋ねた。
 返事がない。しかし歩を緩めるわけにはいかず、公園を出てしまった。そこでいきなり、
「お前って、最悪に馬鹿だよな!」と、物凄い叫び声が飛んできた。
 これには流石に足をとめた。おまけに走って公園まで戻ってやった、が、隆はもう帰っている。なんだあいつは。
 色んな時代を見たけど、二十四世紀は全然わからない。むしゃくしゃしたので、無人のベンチへ向かって、べっ
と舌を突き出した。よく見ると、隆が買ってくれた、二人分の缶コーヒーが並んでいる。
 そういや私、全部飲んでなかったな。悪いから、持って帰ろう。



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