【 ジュラシック 】
◆D8MoDpzBRE




70 :No.18 ジュラシック 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/30 23:41:45 ID:IPV6itr1
「やあ、君か」
「まだ何も言ってないじゃない、私」
「こんな時間に電話をかけてくる人なんて、君くらいしかいない」
「いつも出るのが早いんだね。受話器の前に張り付いてでもいるの?」
「ワンルームなのに、電話の子機が2台もあるのさ。それに僕は夜、うまく寝付けないんだ」
「かわいそうなのね」美奈子が電話口で笑った。「じゃあ、遊びに行ってあげる」
 僕は狼狽した。女の子を夜、自宅に迎え入れてしまったら必ずセックスしなければいけないなんて決まりはないの
だが、どうにも僕はこの時セックスをしたいという気分でもなく、美奈子を家に上がらせる気持ちにはなれなかった。
「久我山に集合しよう」
「なんで?」美奈子が尖った声を出した。「それに、もうとっくに電車なんて動いてないよ」
「タクシーで来るんだ。お金は払うから」
「って言うかさ、まず久我山に集合ってのが意味不明なのよ」
「いいから。一時間後だ」
 そこで僕は電話を切った。
 時計を見ると、午前二時半だった。僕はため息をついた。『丑三つ時』の正確な時刻を僕は知らないが、それは午
前二時半だと言われたら即座に納得しただろう。草木も眠るというこの時間は、午前二時でも午前三時でも微妙に違
うような気がした。
 そして毎晩のイベントである僕の歯痛がピークに達するのも、大概この辺りの時間帯だった。右上の親知らずだ。
 僕はその痛みを文字通りかみ殺しながら、髪型をセットするために流し台へ向かった。どこかしらどうしようもない
痛みを抱えているときの僕は、妙に神経質になるのだ。つまりは、ささいな寝癖や服のしわなんかが気になって、そ
のために僕は中々家を出ることが出来なかった。
 久我山まではおおよそタクシーで三十分くらいの距離だ。もっともこれは実測値ではなくて、単なる勘に過ぎない。
真夜中で道路も空いているだろうから、少しくらいなら出るのが遅れても良いだろう、とすら考えた。こんな時間にタ
クシーを捕まえることの困難さを、この時は微塵も考慮に入れていなかったのだ。
 家を出るとき、僕はつい習慣から大学で必要な荷物を詰めたバッグを拾い上げた。僕は家でことさらバッグの中身
を入れ替えたりして自習するような勤勉な学生ではない。一週間で必要なテキストを全て足し合わせると、これは結
構な重さになった。思い直して、僕はバッグを放り投げた。

 結論から言うと、十分の遅刻をしでかしたところで、待たされたのは僕の方だった。美奈子は来ないかも知れない。
そう考えるとやりきれなかったが、そもそも無茶な要求を突きつけたのは僕の方だったから仕方がないだろう。近所

71 :No.18 ジュラシック 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/30 23:42:07 ID:IPV6itr1
で待ち合わせて二人でタクシーに乗ってきた方がコスト的にも随分マシだったと考えると、ますますやりきれなかった。
 深夜の井の頭線久我山駅は不気味な静けさに包まれていた。商店街はひそりとシャッターを下ろしており、深夜営
業のコンビニやらカラオケ店などが寂しく光を放っていた。人通りは見あたらない。僕がいたのは南口の方だった。
「六千円」車が走り去る音と共に、後ろから僕をなじるような声がした。
「あいにく、さっきのタクシーで小銭を切らしたんだ」
 僕が振り返ると、そこには冬に逆戻りしたかのような格好で美奈子が立っていた。白のコートにピンクのマフラーは、
残念ながら鳥目の僕にはぼんやりとしか映らなかった。僕は美奈子に一万円札を渡して、お釣りは要らないよと仕
草で示した。
「相変わらず夜目が利かなそうな目つきね。ゲームのやり過ぎじゃないかしら」
「本の読み過ぎだと言ってくれ。それに、鳥目は生まれつきなんだ」
「そう言えば、出会った頃にそんなこと言ってたね。てっきり冗談かと思った」
「そんなつまらない冗談を言って何の得になるんだ」
 僕は美奈子の手を引いて歩き始めた。歯の痛みはだいぶ治まってきてはいたけれども、それでも他の何かに気を
取られていない限りは、ズキズキと歯根のところで不快な存在感を主張していた。
「久我山の振興開発事業か何か、とにかくよく分からない再開発でさ」僕は右上の奥歯を気にしながら言った。「恐竜
の化石の博物館が出来たんだ」
 美奈子は無言で首をかしげた。言いたいことがたくさんありすぎて言葉にならない、という状態なのだろう。そのくら
いは僕にでも分かった。
「ジュラ紀の恐竜も白亜紀の恐竜もいる。ステゴサウルスもプテラノドンも、もちろんティラノサウルスだって。一つくら
いは聞いたことがあるだろ? あと忘れちゃいけない、始祖鳥もだ。僕たちの祖先だ」
「あんたは鳥目だから始祖鳥が祖先かも知れないけど」美奈子が冷めた口調で言った。「こんな真夜中に博物館が
開いてるわけないじゃない」
「忍び込むんだよ」
「正気?」
「大丈夫。別に美術品やら貴金属やら国宝やらを展示してるわけじゃないんだから、ルパンとかに出てくる赤外線セ
ンサーみたいな監視装置がついてるとは思えない。監視カメラくらいはあるかも知れないけれど、何も盗んでいかな
かった僕たちを後日になって誰かが嗅ぎ回ったすることもないはずだ。常習犯ともなれば別だろうけどね」
 僕らは、石の塀を乗り越えて博物館の敷地内に侵入した。石畳が博物館の入り口へと続いていたが、当然表の扉
はしっかりと施錠されているだろう。僕たちは壁伝いに歩いて、裏庭へと続くであろう茂みへと進んだ。
 ひとたび背の高い草が生い茂った建物の裏側へ入ると、そこには光源がなかった。こんな夜に限って月明かりの

72 :No.18 ジュラシック 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/30 23:42:26 ID:IPV6itr1
一つもないのだ。僕らは暗闇の中を建物の壁伝いに這うようにして移動した。
「こんなことして平気なの?」
「大丈夫という保証はないね」
 僕の言葉に美奈子が脱力したようなため息をつくと、あとは一切無言だった。ここまで来たらもう一人で帰れないこ
とくらい、美奈子も分かっていたのだろう。
「しっ」
 二人とも黙っているところに「しっ」もないのだが、僕はある種の空気の変化を肌で感じ取った。黙るよう促すジェス
チャーは、手がかりをつかんだという合図のようなものだ。
 正確に言えば、その変化に対して一番敏感だったのは僕の鼻先だった。夜目が利かないやつに限って鼻が利くの
だ。僕が嗅ぎつけのは芳香剤の臭いだと思われた。
 僕は携帯電話のパネルを開いて、その光で辺りを照らした。最初からこうすれば良かったのだ。そして案の定、少
し建物を見上げたくらいの位置に、トイレの窓だと思われる小さな入口を発見した。
「まさか、ここから忍び込むつもり?」
「僕が先に入る。中庭かどこかにきっと普通の出入り口があるから、中から鍵を開けて君を入れてあげるよ」
 幸いにも窓の鍵は開いていた。僕は窓枠のサッシに体の至る所をえぐるようにこすられながら、何とか中に入るこ
とに成功した。泥棒するのも命がけである。もっとも、僕らは泥棒なのではなくてただの侵入者なのだが。
「私はどうすればいいの?」
 窓の外から聞こえた美奈子の声は人目をはばかってか低く抑えられていたので、僕は危うくそれを聞き逃すところ
だった。
「携帯のパネルを光源にして足下を照らしながら、向こう側に回るんだ」
 美奈子は一度うなずいて、僕が言ったとおりに携帯電話をかざしながら移動を始めた。
 僕は一回大きくため息をついてから、生まれて初めて侵入した女性専用トイレを後にした。

 いくら何でも館内の照明をつけるわけにはいかなかった。そもそも照明灯のスイッチがどこにあるのかすら僕は知
らない。僕と美奈子は職員用の出入り口で落ち合って、携帯電話で辺りを照らしながらほとんど完全な闇に覆われ
た館内を歩いた。
 携帯電話が放つ程度の光量では、広いホール内をくまなく照らすなんてことは到底不可能だった。視界はせいぜい
三メートルといったところだったが、鳥目の僕にとってはその三メートルの視界ですら、水中眼鏡を付けずに潜り込ん
だ水中のようにぼんやりとしていた。
「あれ、プテラノドンじゃない?」

73 :No.18 ジュラシック 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/30 23:42:46 ID:IPV6itr1
 美奈子が指を指した先には、確かに何かが空中にぶら下げられているようだった。そのような形で展示されている
恐竜と言えば、プテラノドンくらいしか思い当たる節がない。しかしながら、それがはっきりプテラノドンと認識されるほ
どには僕の夜目は利かなかった。
「ここは夜の白亜紀だね」
 何となく受け流すつもりで発した僕のこの言葉に、美奈子は妙に感動したようだ。僕に腕を絡ませるように吸い付い
てきて、「そうだね」などと言ってきた。僕も美奈子の肩を抱いて、時折暗闇の中からひょっこりと顔を突き出す恐竜た
ちの姿を見て回った。
 体長十メートル以上あるティラノサウルスはその顔を地面すれすれにまで近づけていて、とてつもなく鋭く大い牙の
先まで露わにしていた。暗闇の中突然として浮かび上がるその姿からは、圧倒的な威圧感が感じられた。
 因縁の始祖鳥もいた。
「ホラ見て、あなたの祖先」
「あれは冗談だよ。だいたい始祖鳥は鳥類の祖先じゃないか。僕らは哺乳類だ」
「つまらない冗談はつかない、と言ったのはあなたの方よ」
 そう言って美奈子はゲラゲラ笑った。ひどく静かな館内に笑い声が声が響き渡って、少しヒヤリとした。僕の表情に
気づいて、美奈子もばつが悪そうに肩をすくめた。
 二階の展示場には行かなかった。一階の展示品だけで満足できたからだ。
「夜の白亜紀って、こんな感じだったのかな」美奈子が床のカーペットに腰を下ろしながら言った。
「分からないね。夜行性のやつもいれば、夜は寝て過ごしたってやつもいただろうから。少なくとも、骨だけの姿で歩
き回ってたやつはいなかったはずだけど」
「そう言えば、これ全部化石なんだね」
「レプリカじゃなくて本物らしいよ。全部」
 僕らはとてつもなく止まった時間の中にいた。白亜紀が終わったのが六五〇〇万年前で、恐竜が絶滅したのもそ
の頃だ。そうして僕らが生まれるまでに六五〇〇万年が経った。彼らは掘り起こされるまでの間ずっと地中で身動き
一つせずにいたのだろう。一方の僕はと言えば、ここ最近は夜ごと鈍い痛みを発する親知らずのせいで睡眠不足に
陥っているのだ。
「この中に私たちの祖先もいるのかな」美奈子がつぶやいた。
「生物史学的にはいないはずさ。恐竜は死に絶えたんだ。子孫を残さずにね」
「もう一度、地上の生き物が恐竜に進化するなんてことは……ないんだろうね」
「でも、僕たちはこうしてここにいる」
 僕は美奈子にそっと口づけをした。何も見えない暗闇の中でも、僕は美奈子の唇を外さなかった。美奈子は口を開

74 :No.18 ジュラシック 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/30 23:43:10 ID:IPV6itr1
けて僕の舌を招き入れた。
「一匹だけいた」僕の口元から離れて、美奈子が言った。
「何が?」
「子孫を残したものが。正確には一羽、ね」
「始祖鳥か」
 美奈子がうなずいた。

 どれほどの時間が経過しただろうか。僕たちはずっと床に座って寄り添っていた。次第に館内は青く鈍い光にほの
明るく染められて、恐竜たちも霧の中から立ち上がるようにその姿を見せ始めた。朝を迎えたのだ。
「今日は何曜日?」美奈子が僕に訊いてきた。
「月曜日だな。大学に行かなきゃいけないね」
「このまま一緒にいこっか?」
 美奈子がゆっくりと立ち上がり、僕もそれに倣うようにして腰を上げた。もう既に館内は隅から隅まで見渡せるくらい
に明るくなっていた。ティラノサウルスは低い天井のせいで無理矢理体を屈めるような格好を取らされており、プテラノ
ドンはピアノ線で吊り下げられていた。その光景はどうにも白亜紀の朝などではなく、僕の目には単なる博物館の朝と
しか映らなかった。
「恐竜たちの週末も終わるのね」
「そもそも恐竜たちに週末も平日もないだろう」
「違うの。ジュラ紀も白亜紀も、きっと毎日が週末だったのよ」
 僕たちは手を取り合って、元来た道を引き返した。博物館の塀を乗り越えたとき、辺りを行き交う通行人の一人と目
が合ったが、取り立てて問題視されることもなかった。通報して一悶着に巻き込まれて、自分の時間が削られるのが
嫌なのだろうか。とにかく僕たちは難を逃れる格好となった。
 井の頭線久我山駅は、そろそろ始発電車を受け入れる時間が近づいていた。
「まだ大学の門、開いてないかな」美奈子が言った。
 そうだねと相づちを打とうとして、僕は僕にとって重要な用件を一つ思い出した。今日の午前中、僕は歯科医院の予
約を取っていたのだ。途端に右上の親知らずが痛み出したような感覚を覚えて、僕は顔をしかめた。
「どうしたの?」
「実は今日、歯医者の予約が入ってたんだ。午前中は欠席するから、ゼミの先生にはそう言っておいて」
 次第に親知らずは明瞭な痛みを歯根から発するようになった。前触れというやつなのだろう。僕は歯科医院での治
療を頭の中に思い描いて、身の毛のよだつような感覚に肩をすくめた。



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