【 週末の終わりは月曜の朝 】
◆gNIivMScKg




55 :No.15 週末の終わりは月曜の朝 1/5 ◇gNIivMScKg:08/03/30 23:33:22 ID:IPV6itr1
 東の空が夜の帳を下ろそうかとする頃、赤のグラスを透かした光が街を茜に染めていた。週末というのは人々を浮き足立たせ
るもの。退屈な仕事を明日に迎えるため、バーの軒先でささやかな酒宴を開く者。腹を空かせて遊びから帰ってくる子供のため、
買い物籠を片手に急ぎ帰途に着く者。そういった人たちで街は賑わいを見せている。
 エドワードはそんな様子を外装ばかりは立派なこの馬車の窓から、何とはなしに眺めていた。不規則に揺れる荷台のような椅
子の上、頭を巡っていたのは、これから向かう先での仕事のこと――一週間前に持ち込まれた、奇妙な依頼のことであった。
「誰にも悟られることなく、日が変わる前に館の主に確かに届けよ――か」
 小さく呟いたその手には、鈍色に光る質素な十字架が握られていた。

 エドワードは夜の人間である。と、言っても日が沈む頃に起き出して、上りきった頃に眠りに就く、というような生活を毎日
送っているわけではない。普段は鶏よりも少しだけゆっくり目を覚まし、時計が新しい時間を刻み始めるよりも早くベッドに入
る。そんな生活を送っている。
 だが、その日は別だった。それは日曜日だから。日がな一日、本を読んだり日向ぼっこして過ごす彼が、誰よりも忙しい夜を
明かす唯一の日だったからだ。
「……これでオーケー、かな」
 窓際にぽつんと置かれた黒の燭台。そこに灯る小さな炎が、開店の合図であった。
 店と言うには簡素に過ぎる裏通りの借家の一室。エドワードはベッドルームとは一枚布を隔てた即席の応接室の安物の椅子で、
小さなカウンターを挟んだ向こうに見える入り口から訪れる客を待っている。

 やがて、窓際の蝋燭が一つ目の命を半分ほど燃やした頃、店の扉が遠慮がちに叩かれた。
「どうぞ」
 閉じていた目を開け、カウンターの上に置かれたランプに火を灯す。部屋が少し明るくなるのと同時に開かれる扉。オレンジ
色の光に照らされて入ってきたローブの男は意外な顔見知りであった。
「これはこれは、珍しい。あなたがここにくるなんて」
「裏切り者の商売敵の店に依頼をもって現れたなんて、ギルドの人間には口が裂けても言えんな」
 そう言いながら後ろ手にドアを閉めるその口元には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「今日はどういったご用件で?」
 エドワードが窓際の蝋燭を吹き消すのを横目に、男はカウンターに何かをゴトリと置いて客用の折りたたみ椅子に腰掛けた。
「これは?」
 エドワードは目を細めてその物体を手に取り眺める。重量感のある、なんとも素っ気ない灰色の十字架だった。

56 :No.15 週末の終わりは月曜の朝 2/5 ◇gNIivMScKg:08/03/30 23:34:09 ID:IPV6itr1
「鉛のクロス。それ自体には何の価値もない」
 窺うように見つめるグレーの瞳。そこにはただ、取引を持ちかけるものとしての意思が宿っていた。
「……あるべき場所にあってこそ価値を生む、と?」
「正解に近い。まあ、もっと単純ではあるがな」
 羽織っていたローブを大儀そうに脱ぐと、男は依頼の全容についてを話し始めたのだった。

 景色はやがて街をはずれ、鬱蒼とする森の中へと変わっていた。先の空はすでに暗く、木漏れ日と言うにもおぼつかない、僅
かな太陽の切れ端だけが道の頼りだった。遠くでは獣の遠吠えのようなもの。あの男の言葉がよみがえる。
『危険があるかもしれない』
 凝った意匠のついたベスト、その内側に忍ばせた黒塗りの短剣に、思わずそっと手を伸ばす。
 ――いや、彼の言う危険とはこんなことではないだろう。むしろ着いてからの……
「エド、もうすぐ着くぞ」
 馴染みの声にふと、我に返る。前方の幌の隙間から顔を覗かせれば、もやのかかる視界の先にぼんやりと明かりが灯っている
のが見える。
「ああ、準備はできてるさ。それと――」
「心得ておりますよ。アーサー卿」
 御者台に座る立派なマントを羽織った男は楽しそうに答えた。
 そう。これから向かう先は貴族の城。今宵、開かれるというシェペット伯爵の晩餐会である。エドワードは招待に応じて参加
する男爵、アーサー・ホルムウッド・フォン・シュンゲルなのであった。
 馬車はゆっくりと、だが確実に城へと近づいていく。そして、ぼやけた明かりだったものは、次第にその輪郭をあらわにして
いった。やがて到着した城門は巨大で、訪れるものを飲み込む魔獣の顎のよう。扉の前には黒の執事服を着込んだ二人の男がお
り、その姿はまるで絵画に見る地獄の門番を連想させた。
「エド」
 馬車から降りる準備をするエドワードに、御者役の男は静かな声で言った。真剣な眼差しが彼の心情を物語る。
「……帰って来いよ?」
 答えず、黙って頷くその顔に、男はかつての同僚の凄腕で鳴らしたそれを見た。

「皆様方、今宵は遥々当家までお越しいただきありがたく存じます。誠に残念ながら父、ペーターは床に伏せており、皆様の前
に姿を現すことが叶いません。しかしながら、皆様にこの晩餐を憂いなく興じていただくことが父の本望でもあると信じており
ます。ですので、今宵は不肖ながら、私、カミラ・キュルテン・フォン・シェペットが主催を執らせていただきたく――」

57 :No.15 週末の終わりは月曜の朝 3/5 ◇gNIivMScKg:08/03/30 23:34:31 ID:IPV6itr1
 大広間の壇上では銀の髪を高く結い上げた娘が開催の挨拶を行なっている。年の頃は十五、六。参加者たちはそれを聞いてい
るのかいないのか、目の前に運び込まれる料理をあれこれと評価したり、目をつけた女性に早速声をかけたりしていた。
 そんな中、エドワードは給仕に手渡された食前酒を口にするふりをしながら考えていた。
 ――なるほど。この餐会の最中に上手く抜け出し、病に伏せている、あるいは伏せている"はず"のペーター卿にこれを手渡
せ、ということか。確かにこれは隠密行動に長けた者でないと難しいかもしれないな。
 挨拶はまだ続いている。いかな貴族と言えど、これほどの香りを漂わせる馳走を前にしては、お預けを食らった犬と変わらな
い。彼女の挨拶が終わった瞬間こそ、最初の好機。しかし、出て行く者の少ない時間は目にされればそれだけで不審。となれば、
食事に一区切りをつけ、欲望の矛先をどちらかに向け始めた時、それが実行の機会か。
 もたれかかっていた柱から離れ、何食わぬ優雅な足取りで出口付近へと歩みを進めるアーサー卿であった。

 人のいない城というのは、明かりがあってさえ不気味に映るもの。真紅のカーペットの上を、足音を立てずに移動するエドワ
ードは込み上げる焦燥感を必死で押し込めていた。
 ――どこだ、どこにいるんだ!? この城の中はあらかた探し終えたはずだ!
 吹き付ける風が廊下の窓をビリビリと揺らす。外は全くの暗闇。あんなにも美しく見えた夕焼けが嘘のように、月の影すらも
雲に覆われてしまっている。しかし、これだけの城だというのに侍従一人すら見かけない異様さと、目標を見つけることのでき
ない焦りが、その様子を頭の埒外に置いてしまっていた。
 すでに二時間ほどは探している。この晩餐会が始められたのは十九時。そこから抜け出す隙を窺っていたのが約二時間。とい
うことはすでに参加者の幾人かは帰りの支度を始めているかもしれない。人が少なくなれば動きにくくなる。とは言っても――
 考えれば考えるほどに自らを追い詰めていくことに気付き、エドワードは一つ息を吐いた。
 ――最悪、依頼を放棄してでも脱出の術は確保しておかなくては。賊として見つかれば命の保障はないだろう。仕事にそこま
での命を張るのはもう辞めにしたのだから。
 立ち止まったその足が、探索続行の意志を阻む。一度引き返そう――そう考え、一路広間へ向かった彼には、作戦の成功はす
でに絶望的なものに思えていた。だが――
「ペーター卿は相も変わらずご病気ですか」
「ええ。以前の……二年ほど前だったかしら、晩餐会でも姿をお見せすることはありませんでしたわ」
「そういえば私もペーター卿にお目にかかったことがありませんな。おいたわしい。卿の快気を神に祈るばかりですな」
「ええ、全く。しかし、カミラお嬢様には頭が下がりますわ。その以前の会でも卿に代わって主催を――」
 会話をしながら広間へと入っていく紳士と貴婦人。大きな石柱に身を隠しながら広間へと戻る隙を窺っていたエドワードの、
その思考の霧を吹き飛ばす突風が吹いた。
 ――そうか、ペーター卿は見つからないんじゃない。最初からいなかったんだ! すでに死んでいるのか、それとも別のどこ

58 :No.15 週末の終わりは月曜の朝 4/5 ◇gNIivMScKg:08/03/30 23:34:57 ID:IPV6itr1
かにいるのかは分からない。分かることはただ一つ。今、この館の主は……!

 時刻はあと一時間ほどで明日へと変わる。参加者はすでに自らの領地か、あるいは街の高級宿へと引き上げてしまっただろう。
城内に静寂の幕が下ろされる中、エドワードはランプの明かりさえない灰暗い部屋の一室、一人の少女と対峙していた。
「まさか、貴女が主だとは思いませんでした」
 いつの間にやら姿を現した月の淡い光を背に受けて、銀髪の少女は微笑む。その姿は、ここが神代の世界なのではないかと思
わせるほどに妖しく、幻想的で、美しかった。
「これはゲームですの」
 その艶やかな口唇から紡がれる真実。それは詩のようにエドワードの耳へと染み込んでいく。身を委ねてしまいそうな心地よ
い響きに心奪われながらも、エドワードは聞き返す。
「何故、こんなことを……?」
 問いに、踵を返し窓の外を見る少女。一つクスリと息を漏らすと、振り向きなんとか気を保つエドワードを見据える。
「私は、吸血鬼なのです」

 吸血鬼は人の血を啜る。それが嗜好であり、生命の源であるが故。だが、そんな身体に嫌気が差した吸血鬼がいた。ペーター・
キュルテン・フォン・シェペット。彼は人間を愛し、人間と共に生きたいと願った。しかし、その望みは人間に届くことはなか
った。ただ一人を除いて。そう、彼には人間の妻があり、その間に娘がいた。迫害を受け、妻を失いながらも、吸血の本能を拒
み、その身体が灰と化すまで彼は娘に言い聞かせた。人間を襲ってはいけない。人間と共に生きる道を探せ、と。
「――そして、私は見つけた。共存の術を。私に流れる吸血鬼の血、それを肉体の牢獄へと封じ込める物を」
 エドワードは握り締めていた手を開き、そこにあるものを見つめる。差し込む月明かりを反射して、青く輝く鉛の十字架。
「私はその十字架で吸血鬼の血を封じ込めている間、人間と変わりない生活を送ることができる。血を啜ることもない。でも、
それは永遠じゃない。いつかはその封印も放たれるときが、来る」
 確かにこの地には吸血鬼の伝承があった。だがそれは、遠い昔のこと。少なくともエドワードがこの世に生を受けてからは、
吸血鬼が人を襲ったなんて話は怪談にも聞いたことがなかった。
 失いかけていた我をなんとか取り戻し、エドワードは美しい窓辺の少女を見やる。薄く開いたその口には小さな牙が見えてい
た。ただそれだけだ。なのに、真実というものはなんと大きな存在感を持つことか。唾を飲み込む音が部屋に響く。
「…………つまり、それが今回。そして、前回が二年前、ということ、か?」
 答えず、ゆっくりと足を進める少女に、思わず懐の短剣に手を伸ばしかけて、やめる。その瞳を見て。
「永い間見てきたけど、私にはお父様の言うような人間の素晴らしさを知ることはできなかった。でも、それは吸血鬼も同じ。
どちらも自分勝手で、傲慢で、醜い生物。だから、私はゲームをすることにしたのです。今日、封印を施さなければ、私は吸血

59 :No.15 週末の終わりは月曜の朝 5/5 ◇gNIivMScKg:08/03/30 23:35:18 ID:IPV6itr1
鬼の血に負けて人間を襲うでしょう。でも、封印できればしばらくは何事も起こらない。期限までの最後の夜、無事、十字架を
届けられれば人間の勝ち。できなければ吸血鬼の勝ち。勝者が得るのはひと時の安らぎ、一時の快楽」
 エドワードの脇をすり抜け、部屋の入り口横の棚の上。小さな暦表を手に取った少女の呟きが寂しげに響く。
「封印が解ける前触れは、いつも聖なる安息日の翌日。封印が解けるのはその翌週の安息日の翌日。だから、私は月曜の朝が怖
い。私の中に眠る血が目覚めるのが怖い。私の中の二つが争うのが、怖い」
 声を出すこともできないエドワードに、悲しげに、優しく、微笑みかける。その姿はやはり美しかった。
「迎えが来ているようです。家に帰り寝床に着いたら、今夜のことは忘れるとよいでしょう。そして、二度と城へは近づかない
のが身のためです。ゲームは貴方の勝ち。さあ、十字架を――」

 午前の涼やかな陽気の中、エドワードは速足で駆ける馬上にいた。いつか来たときには茂る草木と暗闇に怯えていたものだが、
今は清々しさを覚えるほどの心地よい森の静けさ。眠気の取れないぼうっとした頭で、深呼吸を一つする。
 あの夜の次の日曜、ローブの男が約束の報酬を持って現れた。話すそぶりから伯爵の娘の真実を知っていたことが窺えたが、
エドワードは深く追求しなかった。ただ、このことは他言無用、とだけ残して彼は去り、エドワードはそれを受け入れた。
「今日は大丈夫かな……早く行かないと眠ってしまうかもしれない」
 それから、エドワードは月曜日の朝になるとある場所へ赴くようになった。寂しげな瞳をした、美しい少女に会うためだ。魅
入られた、と言ってしまえばそうなのかもしれない。しかし、とエドワードは思う。
 本当はあの少女も人の血を吸うことを嫌っているのではないか。ゲームと称して、どちらが勝っても構わないという態度を取
りつつも、ただ、真実の自分を受け入れてくれる人間を探しているだけなのではないか、と。
「これが人間の傲慢――なのかもな」
 今はそれでいい、と思う。彼女の母親のような人間になる必要はない。ただ、同じ夜の人間として、友人として付き合ってい
けばいい。そして、彼女の中の二つの血が共存できる道を探す手助けができれば、と。
 やがて、馬は人気のない城門へと到着する。エドワードは手近な木に馬を繋ぎ、鼻面をなでると慣れた足で門の裏手に回る。
そこにひっそりと佇む扉を抜けると、城の裏庭の風景が視界いっぱいに広がった。色鮮やかな花たちが競うように咲き誇る花壇。
五十歩ほど先の、花壇から少し離れたところに日傘を差して屈む白い影を見つけると、エドワードは手を振りながら近づいていく。
「あら、エド。ご機嫌いかが?」
「いつも通りさ。まったく、月曜日の朝は怖い」
 立ち上がり眉を顰める白い少女に、首をすくめながらエドワードは大仰な身振りで言う。
「毎週こんな寝不足で馬に乗っていると、いつか振り落とされそうでたまらないよ」
 そよと吹く風が笑いあう二人の髪を撫でる。
 足元ではアカシアの苗木が小さく揺れていた。 <了>



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