【 織姫、あるいは彦星の願い 】
◆BoyjSj4nsQ




35 :No.11 織姫、あるいは彦星の願い 1/5 ◇BoyjSj4nsQ:08/03/30 21:59:26 ID:3XCuot6H
 明日は、七夕か。
 と、言うのも、普段ならば七月七日など平穏と過ぎ去ってしまうような日であるのだが、そうもいかないようだった。
 教室の片隅で本を広げて読む。ただそれだけのことなのに、私の周りを取り巻く静寂を突き破る、一人の少女が居たからに他ならな
い。
「よっ、これ、よろしく」
 快活な口調でもって、読書に耽る私へ話しかけてくる。差し出されている彼女の手が握るのは一枚の色紙だった。
 正直、彼女、星子――「ホシコ」と読むらしい――は私の理想だった。はきはきと喋る、明朗闊達な彼女は紛れもなく憧憬だった。
「どうも」
 飽くまでも憮然とした態度で応じる自分に、自己嫌悪の念を抱くのを禁じえなかった。もはや私の態度は癖となっていて、今更直そ
うと思って直せるようなものでもなかったからだ。
「明日は、七夕なのね」
 それでも、星子と一言でも多く話したくて、私は必死に言葉をつむいだ。
「そう! 七夕だよ七夕」
「七夕って、どういう話か知ってる?」
「知らないけど」
 と、悪びれた風もなく、あっけらかんとしている透子を見て、私は溜息を一つ吐いた。
「じゃ、よろしく頼んだ!」
 星子との会話はあっけなく途切れてしまったものの、再び彼女は長い黒髪をはらはらと揺らしながら、色とりどりの紙を配って回り
始めている。
 そんな元気の塊とも呼ぶべき少女を見つめて、私はどこか翳りを感じ取った。気にかかるほどでもない、そんな些末なものであるに
もかかわらず。

 ◇

 一人、学校からの帰路に着く途中、私は縦長の色紙を見つめた。
 宙に掲げて透かしてみたり、二つ折りにしてみたりするも、これといって変哲のない一枚の色紙に過ぎなかった。
 恐らく、この色紙は願い事を書いて、竹の木に括りつけるのだろう。そして、星に願うのだ。
 ――幾らなんでも馬鹿馬鹿しい。
 クラスのめいめいが星子にこの紙を渡していたが、私は結局渡さずじまいに終わってしまった。まず第一にくだらないという思いが
先行してしまった上、彼女にこの色紙を渡す機会を逸してしまったというのもある。

36 :No.11 織姫、あるいは彦星の願い 2/5 ◇BoyjSj4nsQ:08/03/30 21:59:47 ID:3XCuot6H
 家に着くや否や、自室のベッドに転がり込む私を訝ってか、母から身を案じる一声がかかった。
「織香、どうしたの?」
「別に、ちょっと疲れただけ」
 まっさらな嘘を並べて、母の追及を逃れる。ベッドに横たわると、ふと今日の出来事が思い返されて来た。それは星子のことが大半
を占めていて、他はとりとめのない日常に過ぎなかった。
 やはり気になるのは、彼女が見せた翳りであった。
 何故、あのようなものを感じ取ったのか、自分自身にも皆目見当がつかなかった。ただ、星子の顔を見ていて、漠然とそうなのかも
しれないと思っただけであり、あるいはそれは勘違いだったのかもしれない。
 形を成さないふわふわとした疑問は霧散してしまい、天井を見つめている私は、夜型にもかかわらずうとうとと睡魔に見舞われた。
 寝際に明日の七夕のことが脳裏をよぎった。
 そうだ、星を見に行こう。山頂にて夜空いっぱいの星。そして、願いごとは――

 ◇

 七月七日、七夕の日、夕景が辺りをゆっくりと包みこむ。
 夜の帳が降りかかった空は薄紅に染まり行き、私の心をざわざわと揺さぶるような落ち着かないものにした。
 早めの夕食を済ませると、私は母に一言残し家を飛び出した。
 向かう先は、あの小山。木々が生い茂り――とまではいかないが、少しでも高いところまで登れば、星が綺麗に見えるのではないか
という算段だ。
 何故だか、心が躍る気持ちだった。七夕なんて今までどうでもよかったのに、今や私の心の中は七夕のことで満たされていた。乾き
きった私の心を、星空が癒してくれるような気すらしていた。
 片手には星子から貰った色紙を、もう片方にはやや大きめの手提げ。手提げの中身には、文庫本、冷たい緑茶を詰めた水筒、そして
念のために薄い毛布を一枚持ってきていた。。
 それらを手に、夏の風を受けながら一息に駆ける。町を手前に控える小山が、段々と大きなものになっていることに気づいたときに
は、既に山の入り口に立っていた。
 森に入ると、先ほどまでの橙色の夕日は見られず、本格的に暗みを帯びてきたようだった。
 視界がはっきりとしなかったものの、道がそれなりに踏み固められているのが幸いだった。山を登りきるまでに疲弊しきってしまっ
ては元も子もない。
 そろそろ中腹といった辺りで私は足を止めた。これから私の行く先に誰かが居る。
 すると、黒っぽい影も振り返り、私の姿を認めると大手を振った。聞き取りづらいものの「織香ー」と私の名前を呼ぶ声が響いてく

37 :No.11 織姫、あるいは彦星の願い 3/5 ◇BoyjSj4nsQ:08/03/30 22:00:09 ID:3XCuot6H
る。
 誰だ、という思いが頭をもたげたのも束の間、私は声の主の正体を察した。星子だ。
 近寄ってみると確かに星子だったのだが、はたして彼女が何をしているのか分かりかねた。
「おお、織香、珍しいねぇ」
 星子は目を丸くして、身振り手振りで大げさに驚いてみせた。
「貴方はまず自分がよほど珍しいってことを自覚するべきだと思うわ」
 私がそう思うのも、星子が片手に引きずっていたのは竹だったからだ。
 竹と一口に言っても、節ごとに切り分けた小さい竹ではない。彼女が持つのは、ゆうに五、六メートルはあろうかという(私の目算な
ので当てにはならない)規格外の大きさの竹なのだ。
 しかし、当の本人は至って剣呑としていて、不思議で仕方ないといった面持ちだ。
「そりゃ何で」
「何でも何も、竹林から引っこ抜いてきたみたいな竹を抱えて、変だと思わないのかしら」
「うーん変かなぁ」
 星子は小首を傾げ、わさわさと頭を掻いてみせた。また、今しがた気づいたが、今日は長い髪を後ろで一つにまとめているようだっ
た。俗にポニーテールと呼ばれる髪形だ。
 溶暗してしまいそうなほど程黒を湛えた髪は、一つにまとまっていようと清冽だった。それを見つめる私に、星子から黄色い声がか
かる。
「ほら、そっちもって」
 有無を言わせず、竹の運搬に手を貸すこととなってしまった。
 そもそもの話、この竹をどこから持ってきたのか。このサイズの竹がここ周辺の森に易々と自生しているはずがないのだ。
「この竹ってどこから持ってきたの」
「えっーとね、家の庭から引っこ抜いてきたんだよ」
 と、星子はあっけらかんとしているが、言動は常軌を逸していた。
 星子の口から説明させると、家の庭というよりも、手入れの行き届いていない森の一帯を所有していて、そこから一本引き抜いてき
たということらしい。とんだ大地主だ。
「随分と大きなお家なのね、羨ましいわ」
 本心から言ったつもりだったが、それに反して、星子の声は冷え切ったそれになっていた。
「全然、つまんないよ」
 妙な沈黙が降りる。多弁な性質でない私は、元々どこか居心地の悪さを感じていたのかもしれなかった。
「ほら、行こーぜー」

38 :No.11 織姫、あるいは彦星の願い 4/5 ◇BoyjSj4nsQ:08/03/30 22:00:31 ID:3XCuot6H
 強く言い放った星子の顔には、つい先刻までの翳りはすっかり消え失せていた。
 うん、と返すも、私の中には星子の低く口を付いて出た一言がわだかまっていた。とても息が詰まりそうで空を見上げると、星は暢
気に明るかった。

 ◇

 途端に視界が開けたかと思うと、満天の星が代わる代わるに明滅していた。重いものを持って、頂上を目指した疲れを忘れるに値す
る眺望だった。
「まだ安心しきるには早いってば」
 そう言うと、竹を垂直に立てるために、地面に空いた穴に差し込もうとしているらしい。私が手を貸してなんとか直立させることが
できた。
「そういえば……、昨日渡した色紙、一枚足りなかったんだよね」
「あら、そうだったかしら」
 白々しく取り繕ったものの、内心慌てふためいていた。ポケットの中の色紙を取り出す手におもわず力がこもる。
「ああ、それ私よ。でも、私が取り付けるから休んでて頂戴」
 私は星子から色紙の束を受け取り、枚数を数えながら偏りのないように枝に結び付けていく。だが、数が合わなかった。まだ一枚足
りない――
「嘘、まだ一枚足りないわ」
「――」
 私から目を逸らし、星子は黙りこくってしまった。しかし、しばしすると私の方に向き直り、微苦笑しつつ言った。
「だってさ、絶対に無理だって分かってるのにお願いする必要ないじゃん」
 渋々星子は一枚の色紙を手渡すと、脱力したようにばたりと芝の上に倒れこんで、滔々と語り始めた。
「あのさ、私の家って昔から格式とか規律に凄いうるさいんだよ。だから、小さい頃から自分が好きなように遊んだり出来なくてさ、
友達も全然出来なかったんだ。仕方ないことだって分かってるけど、子供心ながらにも納得できなくて、色々文句言ってみたんだけど
うんともすんとも。週明け――明日からも、習いごとの連続。けど……ああだこうだ言うなんて、馬鹿みたいだよね」
 星子は言い終えると、変なこと言ってごめん、と小さく呟いた。
 それきり、星子は何も言わなかったので、私は彼女の隣にゆっくりと腰を下ろす。手に握るは二枚の色紙。
 星子の告白から続く沈黙に居たたまれない気持ちを覚えたため、緑茶を勧めると、飲むと応じたので水筒から注いで渡した。
「美味しい」
「どうも。それにしても、軽々しく羨ましいだなんて私も失言だったわ、ごめんなさい」

39 :No.11 織姫、あるいは彦星の願い 5/5 ◇BoyjSj4nsQ:08/03/30 22:00:56 ID:3XCuot6H
「いいよ、もう」
「でも、もう大丈夫」
 私は手にある二枚の色紙を、一気に細かく千切るように破った。紙切れに成り果てた色紙が手から舞い散り、次第に暗闇に溶け合っ
て見えなくなった。
「お、おいっ、何してるんだよ」
「もう必要ないわ、だってすぐにでも叶う願い事を、願い掛けしてもしかたないわ」
 きょとんとしている星子の顔を見ると、それがどういう意味なのかいまいち分かっていないようだった。
「明日は、学校を休みなさい」
「冗談じゃない、止めてくれ」
「馬鹿。私は貴方と今日に出会えて、こうやって話してて、とても嬉しいのよ。学校での貴方はいつも元気じゃない。なのに、私の憧
れなのに、こんなあられもない姿を見せて失望なんかさせないで頂戴、って少し厚かましいかしら?」
 自分でも何を言っていいか分からず、後先を踏まえず適当にまくし立ててしまった。いくら暗闇と言えど、赤面していないだろうか
などと考える始末だった。恥ずかしい。
「ありがと」
 私の労苦も空しく、星子からの返答はたった一言だけだった。
「今日はもう帰るわ。……明日、この小山の入り口で待ってるから、楽しみにしてるわよ」
 私は立ち上がると、そっぽを向く星子に目をやり、無言の別れを告げた。

 ◇

 芝を踏みしめながら暗中を進むさなか、鼻梁を雨粒が叩いた。突然の雨に合わせるかのようにして、涙が目尻に浮かんだ。
 ――洒涙雨(さいるいう)、そんな言葉が思い出される。織姫と彦星の二人が、惜別の情から流す涙が雨になるそうで、それを洒涙雨
と呼ぶのだ。
 そして、この雨はすぐに止むに違いないと、天気予報など見てもいないのに思った。ほぼ確定的な未来だと断じてしまえるほどの直
感だった。
 明日の朝、きっと星子は来る。絶対に来るに違いない。
 そう、願いは一つに――何故流れ出たかも分からない涙を拭うと、私は駆け出した。



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