【 夜、浜辺には 】
◆lNiLHtmFro




24 :No.08 夜、浜辺には 1/3 ◇lNiLHtmFro:08/03/30 21:51:49 ID:3XCuot6H
 「行ってきます」誰もいないにもかかわらず消え入りそうな声でつぶやき部屋を出た。
外は良く晴れており雲ひとつなかった。だが、夜独特の寒さが首筋をなでてくる。この
寒さが心地いいのだが風邪をひいて仕事に支障があってはならないので厚手の真っ赤な
コートを羽織った。
 道端には満開とまではいかないまでも桜の花がぽつりぽつりと咲いていた。夜桜を眺
めながら馴染みのバーに向かった。バーに行く途中で終わってしまう休日を惜しむ人々
とすれ違い、少しだけ優越感に浸っていた。彼女の休日は月曜日だ。

 「いらっしゃい、美紀ちゃん今日は遅かったね。お仕事お疲れ様」
 「仕事はいつも通り終わったんですけどね。夜桜が綺麗でゆっくりと眺めながら来た
んですよ」
 声をかけてきたのはカウンターから初老の白いヒゲをはやしたマスターだった。グラ
スを丹念に磨き上げながら美紀を見ていた。
 店内はカウンター席が五席。テーブルが二台だけというこぢんまりとしたバーだ。カ
ウンターはしっかりと磨きこまれており、イタリア製のオシャレな家具で統一されてい
た。そして、常にジャズが心地よい音量で流れている。美紀はマスターから出ている雰
囲気とお店の感じが好きで毎週日曜日に必ず来ることにしている。心が安らぐ場所だった。
 「それで、今夜も行くのかい? そろそろ辞めなよ。危険だよ、若くて綺麗な女性がた
った一人で一晩中海岸で過ごすなんて。最近物騒な世の中になってきてるんだし」
 マスターは声をやや低くして美紀のお気に入りのジントニックを差し出した。たくさん
の水泡が無限に湧き出て水面で消えていっていた。
 ゴクッと一口飲んだ。カッと喉に刺激とほろ苦さを感じたかと思うと、かぁと顔に熱が
伝わる。「そんなことはわかってるんですよ。でもね、マスター」とそこでグラスを持ち
上げ一気に残っていたジントニックを体内に流し込んだ。「これは儀式なんですよ。こう
しないと私は私でいれないの。おかわり」
 二杯目、三杯目と飲むごとに味などわからなくなってくる。味などどうでもよかった。
ただ、酔えれさえすれば。酔うと色んなことを冷静に見つめなおせる。自分の世界に入り
込めることが出来る気がした。お酒を飲んでいる間だけ世界は静寂に包まれる。

25 :No.08 夜、浜辺には 2/3 ◇lNiLHtmFro:08/03/30 21:52:22 ID:3XCuot6H
 「美紀ちゃん、そろそろお店閉めるよ。呑みすぎは危ないよ、最後にお水飲んですっき
りしておいき」
 時計は午前二時を少しまわったところだった。店内に客の姿は美紀だけだった。コップ
に注がれた水を一気に飲み干すと少し頭がすっきりした気がした。だが、体にはそうとう
アルコールがまわっているらしくふらふらとよろめきながらしながらバーを出た。バーか
ら海までは歩いて十五分程度の距離だ。あの日からもう三年も毎週ここにきている。目を
つむっても歩けるくらいだ。だからどれだけ酔っていようと関係ない。一本道だから迷う
ということがそもそもありえない。それに、この時間に車は一台も通っていないから車に
轢かれる心配もない。

 毎週日曜日の深夜、正確には月曜日の午前二時を少し回った時刻に彼女は海岸沿いのベ
ンチに腰を下ろして、「はぁ」とため息をついて海を眺めている。波の奏でる演奏を聴き
ながら昔を思い出している。お酒で火照った体に夜の冷え込みが心地よかった。

 「やぁ今日も来てくれたんだ、ありがとう」
 いつの間にか隣には青年が座っていた。月明かりが弱々しくぼんやりと顔を青白く照ら
している。青年は病的なほど白かった。一度も外にでたことがない人のように。
 美紀は「…うん」一言だけつぶやくとポロポロと涙が零れ落ちた。それから「どうして!
どうして!」と声にならない泣き声をあげた。アルコールで感情をコントロールできない
ようだ。
 「美紀には泣いてる顔は似合わないよ。ほら、笑って。少ししか一緒にいられないんだ
から泣き顔以外の顔も見せてくれないと寂しいよ」
 青年は優しく美紀の肩に手を回して優しくささやきかける。まるで、赤ん坊に喋りかけ
る時のようにゆっくりと慈愛に満ちた声だった。
 「ごめんね…」涙声でそれだけつぶやくと二人はゆっくり唇を重ねた。やわらかく、ま
るでつがいの様に驚くほどピッタリと重なり、このまま一生離せないのではないかと思う
った。キスをしている最中美紀はこの世界には私達だけしか存在していないんじゃないか
と錯覚した。それほど暖かく静かで幸福に満ち溢れたキスだった。

26 :No.08 夜、浜辺には 3/3 ◇lNiLHtmFro:08/03/30 21:52:45 ID:3XCuot6H
 「えへへ」と二人は微笑んでから体を寄せ合い、手を繋いで喋った。美紀が一方的に喋
り続け青年はうんうんと楽しそうに聞き続けた。夜も更けているが一向に眠気は襲ってこ
なかった。それほど興奮していたし、楽しかった。何より彼と一緒に入れることが嬉しく
てしょうがないというように美紀は喋り続けた。会話は尽きることはなかった。

 楽しい時間は一瞬ですぎていってしまう。あたりがゆっくりと色をつけはじめていた。
水平線の向こうにはもう明日が待っている。新しい一日が。新しい一週間が。
 暗い世界から明るい世界に変わるにつれて青年の手の感触がなくなってきたことに美紀
は気づく。
 怖い、朝が来るのが怖い。朝なんて来なければ良い。ずっと日曜日の夜だったらと、美
紀は思う。 しかし、必ず日は昇る。どれだけ寂しい夜を過ごしても。どれだけ楽しい夜
であっても明日は必ずやって来る。
 美紀はどんどん触っている実感がなくなる手を強く強く握りしめた。
 そして、感情を抑えきれずに「ねぇ。和樹なんで死んじゃったのよ。おいてかないでよ
!」と叫んだ。心からの叫びだった。「私を独りにしないでッ!」しかし、朝日が水平線
から顔を覗かせてきた。和樹の体は少しずつゆっくりと透明になり、まわりの風景に溶け
込んでいった。
 ふっと太陽が完全に水平線を離れ空に舞い上がった。
 「また…来週会いに来…る……か………」最後はほとんど聞き取れない声を残して和樹
の体は完全に消えた。もう美紀の手は何も握っていない。ただただ強く握り締めたせいで
爪が食い込んだ。それでも美紀は手の力を緩めようとはしない。爪が食い込んで血が出て
いるが一向に気づく様子もない。痛みに気づく余裕などない。
 「いや! どうして、どうしてなの? 独りにしないでよッ!」美紀はぐしゃぐしゃに
顔を濡らして顔をふせた。

 「月曜日なんて…大嫌いだッ!」搾り出すように一言つぶやいて泣き続けた。
 浜辺のベンチで独り泣き続けている少女を光が優しく包みこんでいた。





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