【 あふれる 】
◆ZRkX.i5zow




12 :No.03 あふれる 1/4 ◇ZRkX.i5zow:08/03/30 03:02:28 ID:1vAoLy86
 居酒屋「ともずな」は住宅地と大通りとのちょうど中間辺りで人通りはまばらな道に面した店である。
吉田健吾は決まって日曜日の夜七時にそこに訪れ食事をとる。居酒屋「ともずな」はボックス席四つと
カウンター席とがあり吉田はいつもカウンターに座る。客は満席になることはほとんどなくいたとしても
二、三人程度で日曜の夜ということもあり酔ったサラリーマンの団体に遭遇することもない。時々に
よって注文するものは違えど吉田はいつも同じ気持ちで同じ雰囲気で同じように食べ、同じように八時
には席を立つ。
 「ともずな」で一人だけで働いている女将の泉遥は吉田が見る限りかなり若い。ショートの髪が少し
外にカールしていて格好も居酒屋の主人にしてはかなりラフで、初見ならばアルバイトの娘だと間違え
ても仕方ないくらいである。自分よりせいぜい三歳ほど年上か、こりゃあママと呼べるようになるには
更に五年必要かなと吉田は思うが風格はすでに立派なそれで、若さ溢れる人なつっこい笑みを見せながらも
決して声をはりあげてはしゃぐというようなこともなく落ちついてい、吉田は特に年齢が近いことも
あって不思議な人だと思っている。もし自分が彼女より年上ならばよく出来た娘だなどと褒めていた
だろう。
 吉田は未だ独身であり恋人は大学二年の時に別れて以来それきりである。今は大阪市のやや北東に
独り暮らしをしてい、出勤する時は環状線を左に四分の一周して帰りはまっすぐその逆を辿る。同僚と
飲みに行くことはまれで常連となる店は「ともずな」以外はない。その「ともずな」に決まった日決まった
時間に店に行き、決まった時間に店を出る理由は自身の精神的な問題でもあった。その居心地の良さに
ついつい溺れて気がついたら三十代になっていたというようなことになりはしないかとぼんやりと危惧
して自制しているのである。たかが居酒屋ごときで全然具体的な話でないことは自分でも分かっている
ものの、自然に任せれば辛いことがあった時にすぐこの店に駆け込むようなことになって、もしそうなれば
必要以上にこの店に依存してしまいどの女にも振り向かれないといったようなぼんやりとした不安があるのだ。
大げさな不安だが、今のこの割合がちょうど良いと思っているのは確かである。なるべくきちんと一人立ちが
出来るようにしていたい。
 吉田は車はおろかバイクスクーター自転車さえ持ってなく「ともずな」へは三十分かけて歩く。その
うちスクーターくらいは手に入れたいと思っているがこれに関しては習慣を変える気はない。散歩コース
としてもなかなか気にいっていて難点と言えば途中の一軒家の大きい強面の犬が門越しにやけに吠えて
くることだけだ。学生時代から吉田は文化系の部活サークルにしか入ってなく、このまま時を経た中年の
自分を想像すると物悲しくなり少しくらいは自主的に歩こうと思っている。若いのだからランニング
でも良しと思い一度二度走ったこともあるがこれがキツくなかなか習慣になりにくい。ならば辛くなく
とも続けられる方がまだマシだと歩く方を選んだ。このまま健康診断で何事もなければそれに越した

13 :No.03 あふれる 2/4 ◇ZRkX.i5zow:08/03/30 03:02:52 ID:1vAoLy86
ことはない。
 吉田が頼むアルコールはだいたいビールある。焼酎ワインなどは飲めと言われれば飲めないことはな
いが自分にはどうにも合わないと思っている。他に飲めるアルコールと言ったらカクテルくらいで、し
かし居酒屋でカクテルもなかろうと一人思ってビールを飲んでいる。泉遥が作る料理は種類が豊富でど
れも絶品、さすが一人だけで店をやっていることはあると考え吉田は半ば彼女を喜ばせようといつも一回は
声に出して料理を褒めている。
 泉遥はアルバイトをとらず吉田が初めて店に来たときから一人で「ともずな」を経営していた。毎週
木曜が休日である。日曜日しか来ない吉田は平日のこの店がどんな賑わいなのかは知らない。潰れて
くれないのならばそれだけで良く、むしろあまり賑わずひっそりとしていた方が嬉しい。客はだいたい
固定されていて吉田が一見さんを見るのはほとんどない。どの客も泉遥をお気に入りであることは誰でも
分かった。
 一度彼女に何故いつも日曜日にこの店に来てくれるのかと尋ねられたことがあった。そんなことを尋
ねられたのは泉と吉田の親しさ故であり、吉田はそのことに少し幸福感を覚えながら考えた。
 元気が出るからかな。
 元気?
 日曜日の夜って、明日からまた仕事だと考えると辛いじゃないの。それを少しでもやわらげてくれる
からかなあ。
 だいぶ老けた考え方ねえ。若いならシャキっとするべきよ。
 それこそ老けた考え方じゃないか。
 あとから考えれば、かなりあからさまなことを言ったと吉田は少し恥じた。そして彼女の笑みにはな
かなかあなどれないものがあると考え、これはあの店で泥酔することは出来ないなと確認した。



 その日は梅雨らしく雨がしとしとと降り続いていて街灯の光の周りをぼんやりと明らめていた。
 いつも通り七時に店に入ると客は一人だけで、その男は泉と親しげに話していた。中肉中背で見知ら
ぬ男である。
 いらっしゃい、と泉はその男に向けていた笑顔をそのまま吉田に向けた。吉田はその男と一つ席を
開けた所に座り注文を告げ、泉は瓶ビールとグラスを出してから料理に取りかかる。いつもならぼんやり
としているか泉と雑談するかもしくは天井の隅の棚の上のテレビを見ているかする。テレビは今日は

14 :No.03 あふれる 3/4 ◇ZRkX.i5zow:08/03/30 03:03:28 ID:1vAoLy86
ついていないし、泉はまだ男と話しているので吉田はただぼんやりと何も考えない。うっすらとかかる
BGMはこの店に似つかわしいのか似つかわしくないのかよく分からないジャズだ。似合わない、じゃなくて
よく分からないというなら恐らく似合っているんだろうなと吉田はただ思うばかりだ。ふと隣の二人の
会話から「結婚」というワードが聞こえる。吉田は幼少の頃から将来のことの不安をよく考えるたちで
結婚は今の吉田の最もの不安である。これまでの人生の中でなるようにしかならないと学んだつもりだが
なかなか無心になることは難しく、もはや「悩む」という行為自体は仕方ないと割り切っている。
 それでも悩みたくない時には他人のことを考えるようにしている。結婚ならば、そういえば彼女はいつ
するのだろうなあ。長いことこの店にいるけれど思えば彼女とそういう話題になったことは一度もない。
この店を一人で経営しているのは確かだし、恐らくは独身なのだろうけど、もしかしたら未亡人かも
しれない。おれは彼女の身の上をあまり知らないんだなあ。どんな暮らしをしているのか。と好奇心で
そんなことを考えているところで蓮根のきんぴらと鯖の味噌煮が出てくる。
「どうしたの、今日は」
「え?」
「眉間に皺があるよ」
 吉田は思わず自分で眉間を触り確認した。当然そこに皺はもうない。「なんでもないよ」
「ビール一本サービスしてあげるからあまり悩まないことね」その彼女の笑みは少し意地悪く見えた。
 しばらくして料理を箸でつついていると泉は「ちょっとごめんなさい」と席を外して奥に引っ込んだ。
すると隣の男が「お兄さん、お兄さん」と話しかけきた。熊のようだ、と吉田は思う。
「いやあ、彼女美人ですねえ」
 なんだいきなりと思いながらも吉田は「はぁ」と答えた。「私もそう思いますね、まったく」
「あなた、ここの常連さんですよね。……私ね、彼女の妹と結婚するんですよ。また会うときがくるか
も知れない。その時はよろしくお願いしますね」男は笑い、丸い顔をさらに丸くさせてくくくくくと声
を漏らした。
 吉田は驚く。しかしその男の突拍子もない会話と馴れなれしさにも不快を覚えず、自然に接すること
が出来た。「そりゃあ、おめでとうございます。うらやましいですねえ、彼女の妹なら、また美人さん
でしょう」
「ええ、ええ、のろけになっちゃいますがね、幸せですよ」
 何故か吉田までもがうらやみながらも幸せな気持ちになってくる。この男と酒を交したいと思えてく
る。おかしいなあ、サービスの一本が効いてきたのか。
「それで、ここに挨拶に」

15 :No.03 あふれる 4/4 ◇ZRkX.i5zow:08/03/30 03:03:51 ID:1vAoLy86
「いや、挨拶はもう済ませたのですけど、いつか自分の姉が居酒屋をやっていると聞いた時から、一度
飲みたいと思ってましてね。今日一緒に来ようかなと思っていたら、彼女は一人だけで行ってきて、って。
つれないんですよ」
「照れ隠しみたいなものじゃないですか」と吉田は笑う。「奥さんも何か自営業を」
「いやいや、普通の勤め人ですよ」
 話していると泉が戻ってくる。あら、仲良くなっちゃって。
 そして泉を見た瞬間に吉田は気付く。ああ、この男も自分の義姉になる彼女と話して饒舌になっている
のだ。居酒屋を出てしばらく歩くとふと我に返り、はて今日はやけに舌が回ったなあ、酒を飲みすぎたの
かと一人合点するだろうことを吉田は思い、思わずにやける。彼も同じだ。本当にここの常連客になるの
かもしれない。
 それからしばらく男と泉と三人で談笑し、その間他の客は入ってこなかった。男は四十分を回った所で
席を立った。最後まで熊のような笑顔でいやいやどうもどうもと言って店を去った。二人きりになった
ところで泉はなんともなしに呟く。
「妹に先を越されるって、寂しい話ねえ」
「やっぱり独身だったのかい」
「うん、そうよ。言わなかったけ」
「俺は一人っこだからなあ。そういう気持ちは分からないな」
「寂しいわよ、うん。寂しい」
 吉田は最後のビールをグラスに注ぐ。するとふと頭に台詞が浮かび、言おうかどうかためらった。さっきの
男の顔が浮かび、大げさに笑顔を作って冗談交じりに言うことにする。
「おれでよければ相手になるよ」
 その言葉を聞いて、彼女も大げさに目を見開いて、それからふきだして笑った。「やっぱり老けてること
言うねえ。オヤジっぽい。もうちょっと若くなったら考えるわ」
 八時になって店を出ると雨はすでに止んでいる。傘を片手に濡れた道を歩きながら吉田は気分が良い。
家に戻るとシャワーを浴びながら明日の予定を考えるのが毎日の習慣である。しかし今日はどうにも思考が
定まらず、何故かと思いながらも吉田は仕方がないからこういう時もあると早めに寝ることにした。せめて
良い夢が見られれば良い。
 電気を消して布団をかぶると、いつのまにか眠りがおとずれる。



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