【 サンデーモーニング、アンドアフター 】
◆fSBTW8KS4E




16 :No.04 サンデーモーニング、アンドアフター 1/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/30 03:05:55 ID:1vAoLy86
 バーカウンターを拭き、店内の床をモップで拭きながら口笛を吹いていると、餌の合図と勘違いしたのかクドリャフカが
近寄ってきた。黒い毛並みに所々白い斑が入ったこの雑種犬は店長の飼い犬だ。いつもしっぽを振っていて子供のような仕
草をするが、この店では僕よりも先輩だ。
「どうしたクド、餌はさっき食べたじゃないか。太るともてないぞ」
 クドリャフカは餌を食べられないと気づいても、僕の足の周りを回っている。
「染井君、掃除はもうひととおり終わっているし、あとやることは私一人でも出来るし、クドリャフカを散歩に連れて行っ
てくれないか?」
 店長が奥から帳簿を持って出てきた。カウンターに座るとそれを広げて、書き込みを始める。
「じゃあ、そうします」
 休憩室から手綱をとり、クドリャフカの首輪に取り付ける。クドリャフカはくすぐったそうな声を出しながら、玄関へと
かけだした。いってきますと声をかけ、まだまだ深みを増していく夜の町へ足を出す。
 腕時計を見ると既に日曜日だ。とうとう十一月三日がやってきた。今から約二時間後、スプートニク二号が宇宙へと向かっ
て打ち上げられる。スプートニク二号が打ち上げを成功させると、有人宇宙船への可能性が開けるということだった。
 そしてスプートニク二号には、犬が一匹乗ることになっている。ライカと名付けられた一匹の雑種犬。偶然にも、愛称は
今僕を元気に引っ張っている犬の名前が使われていた。
 宇宙に行くクドリャフカは一人だから、せめて私たちはこのクドリャフカを大切にしてあげよう。スプートニク二号の計
画が発表されたときに、店長は悲しそうに呟いた。人間が宇宙に行く必要なんて、どこにあるのだろうか。勝手な好奇心を
振り回して、今一匹の犬が犠牲にされている。
 僕が遅く歩くので、クドリャフカは首輪が引っ張られるたびに、早く来てよと僕の方を見てくる。
 僕と店長には、今日の打ち上げも悲しむことだが、明日も僕らは悲しみに暮れているだろう。宇宙に行くクドリャフカは、
宇宙に打ち上げられてから数時間も経たずに死んでしまうという噂があった。そして生存確認の報告が、打ち上げから二十
四時間後の月曜日に発表されるのだ。噂を信じるのは品がないが、助かる見込みはほとんど無いらしい。
 悲しいな、クドリャフカに嘆いてみたが、彼女は訳も知らずに一声吠えた。君が元気なのが今は救いだよ。足元を見ると
靴紐が解けていた。近くの柵に手綱を引っかけ、しゃがんで結ぶ。
 僕が靴紐を結んでいる間、聞こえたのはクドリャフカが吠える声と、何かが折れる音だった。
 なんだろうか、立ち上がってクドリャフカの方を振り向く。
「クド?」
 見ると手綱がかけられて柵は腐っていたのか折れている。道にはその木片が落ちていて、遠くの曲がり角ではさっきまで
握っていた手綱が消えていくところだった。
 おいおいおい、慌ててかけだしたが、結びきれていなかった靴紐に足を取られて僕は派手に転んだ。見上げた夜空に、消

17 :No.04 サンデーモーニング、アンドアフター 2/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/30 03:06:36 ID:1vAoLy86
えていくはずのクドリャフカは、どうやら二匹いるらしかった。
 起きあがりしっかりと靴紐を結んでから曲がり角まで走ったが、もうクドリャフカの姿は見えない。

 店長は話を聞いた後、君のせいではないよと言ってくれた。狭い町だし、首輪も付いているんだからすぐに戻ってくるさ、
店長はなるたけ明るく言ったが、やっぱり不安なのだろう。
「とりあえず今日と明日はバーを開くのをやめて休んでいようか。二人のクドリャフカが無事でいるように祈ろうじゃない
か」
 店長がそう言うので、僕はワイシャツとスラックスを脱ぎ、私服に着替えてから店を出た。そこから遠くない公園のベン
チに腰掛け、携帯ラジオを取り出してスイッチを入れる。すでに打ち上げ予定時刻の三十分前で司会者が世紀の瞬間を前に
して興奮しているのがわかった。
 なぜこんなに元気でいれるのだろうか。動物愛護の声も高かったが、やっぱり世の中は期待に胸を躍らせていた。スプー
トニク二号の船内はとても狭いらしい。その中でクドリャフカはチューブによって食料を与えられ、やがて毒殺されること
が決まっていた。食料に毒をいれ、スプートニク二号が再び大気圏を突入する際に焼け死ぬよりは、安楽死の方がクドリャ
フカのためだと思ったのだろう。
 本当に勝手すぎる、一つの命を使い果たして道を切り開くほど、宇宙に価値があるようには思えなかった。例えば、今か
ら五十年後、二十一世紀の頃。僕には宇宙飛行が役に立つようには考えられない。きっと百年経っても宇宙に気軽にいける
ことなど無いはずだ。今現在研究しているような人間は自分が生きている間に何かできると思っているのだろうか。
 地球のどこが悪い。地球だったからこそ生まれた命は、外に出るべきではないのだ。
「あともう間もなくで、カウントダウンが始まります。みなさん、準備はよろしいでしょうか」
 軽快なこの声のほうがよっぽど宇宙へと飛んでいきそうだ。
 腕時計は二時半をさすと丁度に、ラジオからは轟音が聞こえてきた。それを子守歌に、僕は眠りに落ちた。寒さが懐に飛
び込むが、今の僕にはたいしたこと無い。

 翌朝、と言っても日付は変わらずベンチの上で、スプートニク二号の打ち上げ成功を伝えるラジオと、大きなくしゃみで
僕は目覚めた。
 風邪ひいたな、当然の結果だろうが、やりきれない気持ちだ。
 上には晴天がある。この青さの上にある黒い空に、クドリャフカがいるのだ。どうか、生きていると良いな。願うように
目を瞑った。はなむけの気持ちで、口笛を吹く。クドリャフカ、巻き毛と名付けられた彼女まで届くように、僕は口笛を吹
く。
 目を開けると、足下にクドリャフカが座っていた。いつものようにしっぽを振りながら。

18 :No.04 サンデーモーニング、アンドアフター 3/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/30 03:07:17 ID:1vAoLy86
 まったく、そんなに腹が減っているのか君は。頬を伝う涙をぬぐい声をかける。
「クド、今日と明日が良い日になると良いな」
 答えるようにクドリャフカが鳴いた。散々引きずられたであろう手綱を手に取り、店への道を進む。

 月曜日、ラジオからはクドリャフカの生存が確認されたとの知らせがあった。
 クドリャフカは先日歩き疲れてしまったのだろう。寝床から動かない。
 そしてその七日後の十一日。クドリャフカの死亡が正式に発表された。僕と店長は悲しみに暮れたが、すぐにそれは喜び
へと変わった。
 店長が寝床からクドリャフカを抱き上げたところ、中からもう一匹犬が出てきたのだ。小さいその子犬はクドリャフカに
よく似た巻き毛の子だった。

 了




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