【 ブリリアントレディ 】
◆0CH8r0HG.A




64 :No.16 ブリリアントレディ 1/5 ◇0CH8r0HG.A:08/03/23 23:30:37 ID:DSEkF2jw
 「何で言わなかったのよ! この馬鹿! チキン野郎!」
 僕の懐からやかましい声が響く。五月蝿くてたまらないから、その元凶をゴミ箱に捨ててやりたいくらいだ。
 ……もちろん、そんな度胸もそんなことをする甲斐性も無いのだけど。
「彼女が何を望んでいるかなんて、見れば分かるじゃない! というか、あんたも分っているからこそ、こうやって私を懐の中にずっと入れっぱなしにしてるん
でしょ?」
 ああ、その通りだよ畜生。だけど、男にはタイミングだとか、色々と大事なことがあるんだっての。
「どうせ心のどっかで、振られたらどうしようとか、結婚後の責任とか、親への挨拶が面倒とか、色々余計なことを考えてたんでしょう? 本当にどうしようも
ない愚図ね、あんた」
 僕はもう、胸の中から響く小言を無視して左手のタバコに火を点けた。
「あー美味い。やっぱり、赤マルには百円ライターだなぁ」
 正直なところ、こんなに不味いタバコは生まれて初めてだ。
 大体、これはあくまで僕と彼女……裕子の問題なのだ。それを僕の所有物風情にとやかく言われる筋合いは無いわけで。
「所有物"風情"ってどういう意味よ!」
 おっとこれは失言だった。どうやら、思わず口に出してしまっていたらしい。喫茶店の喫煙席。様々な種類のタバコの煙が混ざり合って、僕の鼻を突いている。

 裕子が結婚のことをしきりに口に出すようになったのは、一年くらい前のこと。日時は忘れたが、最初の一言は今でも覚えている。
「ねぇ、私達どうしよっか?」
 僕のマンションのリビングで、テレビでは金曜ロードショーの『耳をすませば』がやっていて、僕達はすでに事後で、ちょっと小腹が空いたかなと柿の種を開
けた所で、こたつに二人で足を突っ込んで。
 彼女の瞳には耳をすませばのラストシーンの朝焼けが鮮やかに映っていた。顔は僕の方へ向けずに、まるで明日の夕飯の相談をするかのように自然に……裕子
は大事なことを大事でないことのように話す天才だ……僕の耳に滑り込ませた。
 そうかこれが、と意識することすら許されず、僕は人生の岐路に差し掛かっていることを知らされた。
「どうしようかねぇ」
 僕のこの返答は、正直な所驚いてしまって他に言う言葉が思いつかなかったからであるが、裕子にとってそれは自分の望んでいる類の返答ではなかったらしい。
コンマ二秒後(体感)に平手を喰らい、目の中で星が踊った。
 それからは、お約束のような展開が待っていた。彼女はことあるごとに結婚の、あるいはそれを連想させる話を振ってきた。確かに、僕らはすでに切り上げす
ると三十になるので、一緒になることを真剣に考え始めてもおかしくない。
 というよりも、女性にとっては真剣に悩むべきことなのだろう。
 僕にとっても彼女はもちろんかけがえの無い存在だ。釣り目の美人顔、そこそこに巨乳、ウエストは太くなく、料理の腕はまぁまぁで、何より頭が良い。会話
が楽しいのである。彼女と付き合い始めるまで、年齢=彼女いない暦だった僕にとっては勿体無い位のイイ女だ。

65 :No.16 ブリリアントレディ 2/5 ◇0CH8r0HG.A:08/03/23 23:30:54 ID:DSEkF2jw
 しかし、当時僕には彼女を受け止める度胸が無かったのである。
 だから、僕は自分でルールを決めた。ダイヤの婚約指輪を買って、彼女にプロポーズするのだと。そうすることで、彼女に対して責任を示すのだと。
「はっきり言って、猿の浅知恵って感じよね。じゃなかったら、結婚を引き伸ばす為の時間稼ぎとか」
 全くその通りだよ、クソッタレ。
 コツコツと金を溜めている間、僕は彼女から振られる結婚の話題をそれとなくかわし続けた。彼女はその度に、少し寂しそうな顔をして僕を殴った。満身の力
を込めて殴った。
 そうして給料三ヵ月分の指輪を購入したのが、つい二週間前だ。僕の給料に相応しいささやかな指輪だったが、それは間違いなく僕の裕子への思いの結晶であ
り、結婚への決意表明だったのである。
 しかし、僕の真摯な思いは、その結晶自身によって打ち砕かれることになる。
「うぁ、パッとしない男ねぇ。いくら私がついているとはいえ、あんたみたいのがプロポーズで良い返事をもらえるのかしら」
 指輪……ここでは便宜上彼女のことをダイヤさんと呼ぶこととするが、ダイヤさんは家でそっとケースを開いた僕を見て、開口一番そう言ったのである。
「ゆ、指輪が喋った!?」
 と、このように僕が腰を抜かすほど驚いたのは当然の話だ。しかしダイヤさんはそんな僕の驚きをよそに、持ち主である僕に対して好き勝手にダメ出しを始め
たのだ。
「ちょっと、貴方そんな格好でデートに行く気? というか、プロポーズする気? 悪いことは言わないから、もう少しマシな格好をしてった方が良いわよ?
百年の恋も冷めるわ」
 といったデートのダメ出しから、
「のろま。そんな仕事も満足に片付けられないのに、よくもまぁ結婚しようなんて考えたわね」
「うぇ、不味そう。今時、料理の一つや二つも満足に作れない男がいたのね。天然記念物レベルじゃないの」
 といった生活に関するものまで。
 最初は喋る指輪に驚いてばかりだった僕にも、一週間もすると免疫が出来る。ダイヤさんの言葉を無視しあるいは反論し……といったことが出来るようになる
と、俄然この喋る指輪が鬱陶しく感じ始める。そして、それを鬱陶しく思えば思うほど、裕子にプロポーズをしようという気持ちが薄れていくのだ。
「酷い指輪を買っちまったもんだなぁ」
 と頭を掻いたのが、今日のデートの直前だった。

「お見合いすることにしたの」
 と、何でもないことのように裕子は言ってきた。その言い方が、あまりにも自然すぎて僕も……
「ああ、そう」
 としか答えられなかった。答えてすぐに、やばいと思ったのだけど、その時にはすでに彼女は僕の言葉を聞いてしまった後で、コメカミに青筋を浮かべそうな
くらいに怒っていた。

66 :No.16 ブリリアントレディ 3/5 ◇0CH8r0HG.A:08/03/23 23:31:09 ID:DSEkF2jw
「この馬鹿! 何てこと言ってるのよ! 謝りなさい、すぐに。というか、今すぐ彼女にプロポーズしなさい!」
 僕の懐からダイヤさんが必死に僕に何かを言っていた気がする。
 裕子は怒ると笑顔になる癖があった。声の出るような笑い顔ではなく、穏やかな微笑みだ。
 僕達は決してどちらかがどちらかを尻に敷いているような関係ではなかったが、それでもこの顔をしている時の彼女に逆らったことは無かった。
「ふーん。浩ちゃんはアタシがお見合いしてもいいんだァ」
 良いわけが無かった。だって僕の懐には、ダイヤさんがいたのだ。僕の三ヵ月……こう言うととてもショボく感じてしまうが……僕の思いが込められた指輪が。
僕はそんな気持ちを彼女に伝える為に口を開いた。
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「何でそんなに優柔不断な言い方しか出来ないのよおおおおおおおおおおお!」
 ダイヤさんに髪の毛と手があったなら、彼女はきっと僕の言葉を聞いた瞬間に凄い勢いで頭をかきむしっていただろう。あるいは僕の首を締め上げていたかも
しれない。
 何よりも、僕が僕自身にそうしてやりたい心境だった。
「そう。もういいわ。じゃ」
 彼女は、残っていた一杯三八〇円のコーヒーを飲み干すと、ベージュのコートを片手に席を立った。
「あ、ちょっと待って!」
 僕も慌てて伝票を手に立ち上がろうとした。しかしその瞬間。
 ばっしゃん
「最っ低!」
 冷たい水と雑言の二段構え。グレーのスーツ(買ったばかり)は氷水でびしょ濡れ、僕の心は言葉で抉られ力無くその場に腰を下ろした。肩を怒らせて店を出て
行く裕子を見つめている僕。そんな僕を見つめながら溜息をつくダイヤさん。

「さて、もう済んでしまったことは仕方が無いわ。あとは貴方がどうするかなのよ」
 怒りも大分収まってきたのか、ダイヤさんが多少落ち着いたトーンで僕に言った。
「どうするかって、どうすりゃいいのさ」
 濡れた頭をハンカチで擦る。溶けてしまったジェルで少し手がべとつくのがまた腹立たしいというかなんというか。
「要するに、気持ちの確認よ。あんたみたいな度胸も甲斐性も無く空気も読めない馬鹿男が、本気でプロポーズをする気があるかどうか聞きたいの。このままじ
ゃ、あのこは本当にお見合いしちゃうわよ?」
 それは困る。先延ばしにしてきたとはいえ、僕は彼女と結婚するつもりでこうしてダイヤさんまで買ってきているのだから。
「だけど、気持ちばっかりじゃあどうにもならないだろうが」

67 :No.16 ブリリアントレディ 4/5 ◇0CH8r0HG.A:08/03/23 23:31:23 ID:DSEkF2jw
 頭が痛い。タバコのせいだろうか、彼女の言葉がいつも以上に僕の心に突き刺さって吐きそうだ。
「いつまでそうやって下を向いて不貞腐れてる気なの? 起きてしまったことは仕方ないじゃない! 悩む前に行動しなさいよ、行動!」
 うるさい
「大体、好きな女と結婚しようって決めるのに、何故そんなに時間が必要だったのよ? あんた本当に彼女のこと好きなの?」
 うるさいうるさいうるさい
「そもそも、お見合いってどういうことよ。自分の彼女がそこまで思いつめてるのにも気付けなかったなんて、本当にあんたあのこの彼氏なの?」
「があああああああああああああああっ! うるせえええええええええええええええええええっ!」
 ダメだ、もう耐えられない。何でそこまで言われなきゃならないんだろう。僕は心の底から、胸の中にあるモヤモヤを吐き出すように怒鳴る。
「いい加減にしやがれ、こっちの気持ちも知らねぇで! 好きなの? 好きに決まってるだろうが! 好きだから裕子のために給料の半分を毎月貯めて、それと
なく指輪のサイズも聞き出して、きっかり給料三ヶ月分じゃちょっと足りないからってレジで赤っ恥かきながら銀行に不足分を卸しに行ったんだぞ! お見合い
? 冗談じゃない! あいつは僕の女だ。僕と結婚するんだよ! どれだけそう言ってやりたかったか、お前に分かるのかよ! それなのに、こっちは水ぶっ掛
けられて、タバコはあんまり美味く感じなくて、無関係の客に笑われて、懐の中からはクソみたいな指輪が説教してくる。やってられるか馬鹿野郎!」
 はぁ、はぁ。あー、すっきりした。
 肩で息をする僕を、周りの客は凄い目で見ている。店の外からも何事かとのぞきこんでいる奴らがいるみたいだ。
「……貴方ねぇ。恥ずかしくないわけ? こんな所でそんなことを大声でさ」
 暫くして聞こえてきたダイヤさんの声は、何故か笑っているような泣いているような、初めて感じる妙な温かみに溢れている。
「恥ずかしいわけあるか。いい加減、こっちだって溜ってるものがあるんだよ」
 僕も思わず少し笑ってしまう。何とも滑稽な自分の姿。これじゃ、この店には二度と来れないな。
「じゃあ、その気持ちを今度こそそこにいる彼女にぶつけてやりなさいよ」
 
 ん? そこにいる彼女? と僕がダイヤさんの言葉を噛み砕いている最中に、僕の目の中によく来ていた星たちが再び踊った。
「公衆の面前で何恥ずかしいこと言ってるか! この馬鹿!」
 聞き覚えのある声だ。そして感じ覚えのあるこのコブシ。間違いようがない。
「ゆ、裕子? い、いつから……?」
 そこに立っていたのは、顔を真っ赤にして手を撫でている裕子だ。その表情から、僕の絶叫を聞いていたのが分る。
「鞄忘れたのよ……。それに、コーヒー代も置いていかなかったし……」
 言われて見ると、確かに対面の席に裕子の黒い鞄が置いてある。
「立った時、振り向いてたわ。多分わざと忘れていったのよ、彼女。戻ってくる為の口実……というよりも、貴方に追っかけてきて欲しかったんでしょ」
 ダイヤさん、説明ありがとう。僕は裕子のことがもっと好きになりそうだよ。

68 :No.16 ブリリアントレディ 5/5 ◇0CH8r0HG.A:08/03/23 23:31:36 ID:DSEkF2jw
 僕は彼女の方を向いて、懐に手を入れる。
「こんな所でなんなんだけど、凄く大事な話があるんだ」
 これが多分最初で最後のチャンスだ。それくらいは空気の読めない僕にも分る。回りの客は今や僕達の動向を固唾を呑んで見守っている。金をとってやろうか、
なんてことを考える余裕すら出てきた。
「な、何よ」
 裕子は斜め下を見ながら、なお一層その顔を赤くした。ダイヤさんが僕を励ます声が聞こえてくる。
「……僕と結婚してください!」
 懐から待ってましたと出てくるダイヤさん。ケースをパカッと開けた途端に広がる沈黙。そして裕子に集まる店中の視線。
 裕子は少し涙を流しながら、それでも怒っているのとは全く違う笑顔でそれを受け取とると、少し遅れて口を開く。
「……浩ちゃんって、指輪の趣味悪いよ」
 そして僕らは歓声に包まれた。

 終わり



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