【 ダイヤの誘惑、水晶の価値 】
◆ecJGKb18io




69 :No.17 ダイヤの誘惑、水晶の価値 1/5 ◇ecJGKb18io:08/03/23 23:34:29 ID:DSEkF2jw
『俺の人生なんてくだらないもんさ。まるで価値がない』
 私は運転しながら徳さんの言葉を思い出していた。徳さんでなくとも、この世に生きる誰もが一度は
思ったことがあることだろう。私も例にもれず、その一人だ。
 家族のために仕事をして、妻と会話もそこそこに夕食をとり、一人で寝室へ入る。朝はまだ深夜のう
ちに起き上がり、会社へと向かう。ストレスが溜まらないわけがなかった。加えてここ数年の仕事は私
の神経を着実にすり減らし、私は仕事に対して、何の楽しみも見出せていなかった。
「眠いっすねえ。朝はゆりちゃんにも会えないし超最悪っすよ」
 隣の助手席に座る男が間延びした声を出す。ちらりと横目で彼を見遣ると、豪快な欠伸をかましてい
た。その横顔が息子の子供の頃を思い起こさせて、思わず笑みがこぼれた。
「それはチョーサイアクだな」
 隣の男の名は斉藤といって研修中の男だった。つい最近ここの系列で働くようになったらしく、顔を
合わせるのは今日が初めてだった。それでなくとも、この仕事で他人と一緒になるのは珍しいことであ
ったし、そのお陰か今日の私は幾分か気分が良かった。斉藤も言葉遣いこそ悪いが、少し話すと『イマ
ドキ』の気のいい若者だということが分かった。なんでも経理のゆりちゃんに一目惚れしたらしい。
「それにしてもこの仕事は退屈っすね。載せてるもんは派手なのにやることが地味すぎますよ。柊さん
 はなんでこの仕事始めたんすか?」
「別に理由なんてないさ」
 先月で勤続二十五年になった。安っぽい表彰盾と記念品を貰ったが、家のどこかに置いたまま見かけ
ていない。どうせなら間近に迫る退職金を増やして貰ったほうが、最近すっかり仲も冷め冷めな妻に対
して大きな顔が出来るというものだ。
「お前は何でこの仕事を始めたんだ? まあ見掛けから想像つかなくもないが」
「酷い言い様っすね。見掛けで判断しちゃ駄目ですよ」
 斉藤は長く伸びている金髪を揺らせて笑った。格好でも違えば、ホストか何かだと思うだろう。私は
彼の経歴を知らなかったが、おそらくまともなものではないだろうと推測した。
「見掛けで判断しなきゃ、これだけダイヤが売れるはずもないな」と私は言って自分でも笑った。
 そうしてひとしきり笑った後、斉藤は急に真面目な声色を出した。
「そういえば今日運んでるのはダイヤなんすよね」
「ああ。量は少ないがハンドルは重い」

70 :No.17 ダイヤの誘惑、水晶の価値 2/5 ◇ecJGKb18io:08/03/23 23:34:47 ID:DSEkF2jw
 ここ数年、私はあらゆる種類がある運搬物の中でも取り分け責任の重い『貴重品』の運搬を担当して
いた。『貴重品』というのは、それ単体だけで価値のある物、要するに宝石類などだ。それだけに他の
運搬車とは違い、警備システムも厳重に敷かれているし、運転手も厳選されているらしい。噂によると
、突然配属の異動辞令が下ることもあるとのことだ。そのせいか急にシフトに穴があくことも多い。
「ダイヤって凄い高いんすよね」
「そうらしい。俺にはちっとも価値が分からないがな」
「でも柊さんも結婚指輪はダイヤだったんでしょ?」
「そりゃ、まあ」
 妻にプロポーズしたときのことを思い出した。透明に輝く指輪を見て、のんびりとした妻が珍しく、
感情も露わに喜んでくれた。当時は「給料の三か月分」という胡散臭いキャッチフレーズが全盛期で、
ダイヤモンドの指輪が流行っていたが、私にはダイヤの価値がさっぱり分からなかったし、今でも私は
その価値を疑っている。
「みんな見掛けに騙されるんすよね」ふと、斉藤が呟くように言った。
「ゆりちゃんに一目惚れしたのは誰だって?」
 私の言葉を無視して、斉藤がそっぽを向く。そして信号で止まったところで斉藤が口を開いた。
「柊さんはこのまま後ろのダイヤを持ち逃げしようって思ったことはないんすか?」
 稚拙な言葉遣いとは裏腹に斉藤の声には妙な不気味さを帯びていた。私が横目で彼の顔を窺うと、ち
ょうど対向車線で止まっている車のライトがそれを照らし出していた。斉藤は笑っていた。
「徳さん、って人を知ってるか?」
 私の言葉が期待したものとは違ったのか、斉藤はほとんどないような薄い眉を顰めた。
「お前と同じような事を考えてた人さ。定年を目前に控えて、徳さんはとんでもないことをやらかそう
 とした。徳さんは元々はセキュリティ関連の会社で働いてた人でな。入念に計画を立てて、車両に設
 置されているセキュリティを解こうと思ったんだろう。それで、お前が言ったように持ち逃げしよう
 って考えたらしい」
 私は前を向き直して、徳さんが私に計画を話したときの好奇心に満ち溢れた顔を思い起こした。
「それでどうなったんすか?」
「すぐにばれた」
 私があっさりそう言うと、斉藤は「へえ」と失望交じりのな声を吐いた。
「定年も近いってことで、会社側が恩情を出してな。警察沙汰にはならなかったが……」
 私は片手で首元を切る真似をすると「ジェスチャーが古いっすよ」と斉藤が笑った。

71 :No.17 ダイヤの誘惑、水晶の価値 3/5 ◇ecJGKb18io:08/03/23 23:35:04 ID:DSEkF2jw
「とにかく、だ。馬鹿なことは考えないほうがいい。お前みたいな若造がそんなことしたら一発で逮捕だ」
「そんなもんっすかねえ。その徳さんとかいう人が頭悪かったんじゃないすか。年寄なんて大体機械音
 痴でしょ。俺ならもっとうまくやれると思うけどなあ」
 そうのたまう斉藤を見て、私は彼の頭を軽く小突く振りをして笑った。
「その事件の後、徳さんが俺になんて言ったと思う?」
「知らねっす」斉藤はすっかり興味をなくしたようで、短くそう言った。
「『ここの警備はダイヤモンドよりも固い』

 段々と闇に朝が滲んできた。ほぼ真っ暗だった景色も僅かに白み始めて、私はライトをハイビームか
ら一段落とした。
「ラジオつけていいっすか?」
 斉藤はそう言うと、私の返事を待たないうちにスイッチを入れた。年上の者に対する礼儀がなってな
いやつだ、と思ったが、口にはしなかった。それを口にすると、彼の外見にも口を出さなければならない。
 彼が適当にチャンネルを合わせると、朝に相応しいのんびりとしたクラッシック音楽が流れ始めた。
しかし彼は気に入らなかったのか、すぐにザッピングをしだして、機械的な、お堅いどこかの局のアナ
ウンサーらしき人物がやたらと噛みながら話し出したところでその手を止めた。
「停電ですって」
 斉藤の言う通り、大規模な停電が発生しているようだった。私は自分で音量を上げて耳を澄ますと、
かなりの地域で停電になっているらしいことが分かった。珍しいなと思った。
 ちょうど信号が赤になり、私はまた音量を上げた。
「あ、この辺もそうみたいっすね」
 そのまま走り続けて、目的地まであと一時間と少しというところまで来ていた。この調子だといつも
より少し早く納品出来るかもしれない。いつもは忙しない朝食を今日はゆったりと過ごせるかもしれな
いと思った。
「なあ、朝飯どうする? コンビニでもいいが、どこかのファーストフードでもいい」
 私が言い終わると同時に、斉藤は「あっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
「中央区ってセキュリティ会社があるところですよね!?」
「そうだが」
「停電っすよ、停電。今なら気付かれないんじゃないっすか」
 斉藤はすっかり興奮した口調で言った。彼の考えてることがすぐに分かった。

72 :No.17 ダイヤの誘惑、水晶の価値 4/5 ◇ecJGKb18io:08/03/23 23:35:19 ID:DSEkF2jw
「何を考えてるんだ。無理に決まってるだろう。車のセキュリティも半端じゃないんだぞ。それに徳さ
 んのことがあってからシステムも強化したらしい。新しい監査体制も取ったと聞いた」
「そんなことないっすよ。俺はこう見えても機械には詳しいんです。このくらいのセキュリティなんて
 万引きするよりも簡単に解除出来ますよ。今なら車のGPSだって向こうには伝わらないし」
「馬鹿な」私の言葉を無視して、斉藤は話し続けた。その中には機器の専門用語らしいものもあって、
私にはさっぱり分からなかったが、彼は本気で実行しようとしているようだった。
「ね、やりましょうよ! 今しかないですって」
 ふと徳さんの顔を思い出した。物欲、金欲に心を奪われた哀れな老人の顔を。
「大丈夫っすよ。買い取ってくれるとこなら心当たりがあります。指名手配になる前に海外へ逃げちゃ
 えばいいんすよ。これって千載なんとかのチャンスってやつでしょ!」
「馬鹿なことを言うな」
 私がそう言うや否や、斉藤は助手席からこちらに身を乗り出して、無理矢理足をねじ込んだ。そして
――――思いっきりブレーキペダルを踏んだ。
「おい!!」私は前のめりになりながら思わずそう叫んだ。
「聞いてください。これは神様がくれたチャンスなんですって」
 私は急停止した車内で、心臓が激しく脈打つのを自覚した。それが急停止によるものなのか、斉藤の
いう『チャンス』を目前にしたせいなのかは分からなかった。
「落ち着け、落ち着けよ斉藤」私は半ば自分に言い聞かすような形で言った。
「チャンスだと思わないっすか?」斉藤が真面目な顔付きで言う。
 チャンス、とはこういうものなのだろうか。確かにこれは千載一遇のチャンスなのかもしれない。運
んでいるダイヤモンドの百分の一にも満たない給料で働いてきた私にようやく訪れたチャンスなのかも
しれない。息子は独立したし、妻は私に愛想を尽かしている。もしかしたらこれは最期の岐路なのでは
ないだろうか。
 『人生なんてくだらないもんさ』という徳さんの言葉が脳裏に浮かんだ。それから計画を話すときの
子供っぽい顔が思い浮かんだ。
「……本当に出来るのか?」気付いたら私はそう口にしていた。
「出来ます。間違いなく」
 この若者の自信はどこから来るのだろう。多くの危うさをはらんでいながらも、私にそれがダイヤモ
ンドのように光り輝くものに見えた。
「後は柊さんの決断次第っす」

73 :No.17 ダイヤの誘惑、水晶の価値 5/5 ◇ecJGKb18io:08/03/23 23:35:42 ID:DSEkF2jw
――――――――
 家に帰ると、ちょうど妻が夕食を作っているところだった。
「ただいま」私がそう言うと、妻は私に背を向けたまま「おかえりなさい、遅かったのね」と言った。
 遅い、といってもまだ外は十分に明るい。仕事のせいで、私も妻もずれてしまっているのだ。
「ちょっとな。それより朝方に停電あったか?」
「いいえ。貴方が出ていってからすぐに起きましたけど、全然そんなことはなかったですよ」
「そうか」私は上着を椅子の背に掛けて、食卓についた。妻の後姿を眺めていると、随分と白髪が増え
ていることに気が付いた。
 妻は冷蔵庫からビールを取り出し、私の前に缶を一つ置いた。私は立ち上がり、冷蔵庫から缶をもう
一つを取り出して、食卓に置いた。
「お前も飲め」私がそう言うと、妻は「どういう風の吹き回しですか」と少しだけ笑った。
「あと、これも」
 私は椅子に掛かった上着のポケットから小さな箱を出した。
「なんです、これ?」
「結婚記念日だからな」
 妻が、正気か、とでも言いたげに私の顔を覗きこむ。「いいから開けろよ」私は投げやりに言った。
 妻は訝しがりながら箱を開けた。すると、何が可笑しいのかくすくすと笑い始めた。
「ダイヤの指輪だ。ヘソクリで買った」
「本物の? 水晶じゃなくて?」妻はそう言って、とうとう声を上げて笑い始めた。
「……あのときは金がなかったんだ」
 私は溜め息をついた。人も物も見掛けによらないらしい。今日で二度もそれを知る羽目になった。二
人分の缶のプルタブを開けて、片方を妻に渡した。
「明日からまた忙しくなるかもしれん。人が幾らか減りそうなんだ。今日が結婚記念日で助かった」
 一応、缶と缶を合わせ乾杯の儀式をすると、妻が笑いながら言った。
「結婚記念日は明日なんですけどね」
 私は慌てて壁に掛かっているカレンダーを見た。妻の言う通りだった。
 やはり、ずれてしまっているのだ。直さなければならないと思った。それでなくとも人は価値を見誤
るのだ。
「来年からは気をつけてくださいね」言って、妻が微笑む。
 私はビールをぐいっと飲んで、それから頷いた。           <了>



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