【 ダイヤモンド・ガナッシュ 】
◆gNIivMScKg




11 :No.03 ダイヤモンド・ガナッシュ 1/5 ◇gNIivMScKg:08/03/23 00:09:26 ID:T77lkppG
 美しい宝石は人を惑わす魅力があるという。その魔力に取り付かれた人間は愚かな争いを繰り返し、皆、惨めな最期を遂げて
いく――そんなありふれた逸話は、宝石の持つ力を端的に表した訓話であり、言い訳であるのだと思う。
「だーから! これはアタシのだって言ってるでしょ!?」
「違うよ! 最初に取ったのお姉ちゃんじゃない! じゃあ最後のはわたしのだよ!」
 最も有名で、最も美しい宝石の一つとしてダイヤモンドが挙げられる。高い透明度と屈折率が産み出す光の散乱が、この世に
またとない輝きを作り出すのだとか。
「しつこいなあ。アンタは妹なんだからお姉ちゃんの言うことを聞きなさい!」
「お姉ちゃんこそお姉ちゃんなんだから、わたしに譲るのが当然でしょ!?」
 この美しい宝石――ダイヤモンドには、それになぞらえた様々な比喩がある。例えば、赤いダイヤといわれる小豆。先物取引
の対象として古くから扱われ、その生産の不安定さから価格の暴落や高騰を招き、人々を大いに惑わせたという。
 ウナギの稚魚は白いダイヤなどと呼ばれている。高級魚であるウナギは基本的には卵から養殖することができない。そのため
この白い稚魚を採集し、育てるしかないらしい。これらは高値で取引されることからダイヤの名を戴くことになったのだそうだ。
 そして、黒いダイヤといえば――
「ああ――――――――!?」
 部屋にステレオの絶叫が響き渡る。ふと、我に返って目の前のテーブルに目をやれば、つい先程まで二人の妹たちによって所
有権の争奪戦が繰り広げられていた褐色の球状体が、跡形もなく消えていた。そして、彼女たちの視線の先のソファーの上では、
我が家の駄犬、ミニチュアダックスのコジマさんがネチャネチャと気持ちの悪い咀嚼音をたてている。
「こらっ! コジマさん! ペッしなさい! ペッ!!」
 駆け寄り必死にその口を開けようとするが、逆に手を噛まれ悶絶している姉。一方で椅子に座ったままこの世の終わりのよう
なため息を盛大についた妹。……随分と身近に転がっているもんだ。逸話の光景ってやつは。
「あのなあ、お前ら。チョコレートごときで騒いでると戦後の子供みたいだぞ」
 大分前に冷めてしまったお茶を一口ずずっと啜る。こんな言葉で場が静まるとは思っていない。思ってはいないが、ここは何
かしら喋らないと兄としての威厳を損なうような気がした。ただそれだけである。
「ごとき!? ごときって言った!?」
「わかってない!! 全然わかってなーい!」
 それが突如、感情の矛先をこちらに向けてぎゃあぎゃあと捲くし立てる妹たち。藪蛇だったか、と臍を甘噛みしつつも俺に文
句言ったってチョコは還ってこないのに、とやや冷ややかに応じる。
 ――ともあれ、興奮する妹たちを放っておくのはやはり、こっちとしても本意ではない。なんとかなだめて話を聞いてみるこ
とにする俺は、案外、人間ができているのかもしれない。
「――つまり、あのチョコは駅前の洋菓子屋さんの一日十箱限定のトリュフであり、開店前から並ばないと手に入らない希少品

12 :No.03 ダイヤモンド・ガナッシュ 2/5 ◇gNIivMScKg:08/03/23 00:09:46 ID:T77lkppG
で、次はいつ買えるかわからない。だから、犬なんぞにくれてやるのは勿体無い、ていうかもっと食いたい、ということだな」
 うんうん、と合わせたように首を縦に振る二人。期待にきらきらと輝くその瞳は、まるで四つのダイヤモンドだ。
 確かにすでに社会人である俺にとっては、中高生には決して優しくないであろうこのチョコレートの値段も大した痛手にはな
らない。それに、久々に帰ってきた実家で妹たちに何か買ってやる、というのも悪くない考えだ。しかし、これを買うためには
朝早くから並ばなくてはならない、という由々しき問題が――――いや、それ以前に…………
 俺の逡巡に気付いたのだろうか。妹たちは不審げな顔をし、やがて表情を曇らせた。期待の眼差しが落胆のそれに変わるのが
見て取れる。
 ……女というのはなんて巧妙にできているのだろう。そんな顔をされては男として、一肌脱いでやろう、なんて気を起こさな
ければいけないような気がしてくるじゃないか。
「……わかった、わかったよ。一応当てはあるから。でも、あんまり期待するなよ?」
 そう口にするや否や、泣いたカラスがなんとやら。そして、ソファーの上で全て見透かしたようなコジマさんが一つ大きな欠
伸をする。やれやれ、男とはなんとお粗末にできていることか。彼女らのダイヤがその実、ジルコンであることを知っていてな
お、美しいと思ってしまうのだから。「女は愛嬌」とは「男は度胸」を引き出すための基本理念であるらしい。
 それにしても、また足を運ぶことになるなんてな。たかがチョコと言えど"黒いダイヤ"は伊達じゃない、ってことか?
「駅前……『クレーム・ド・ディアマン』、か……」
 ホント、宝石は人を惑わせる。

 自宅近くの停留所からバスで揺られることおよそ二十分。俺は駅の一つ前の停留所で降車した。三百円を払い、バスを降りる
と、見慣れた風景が目に飛び込んでくる。
「たかが数年で変わるはずないよな」
 誰にとも無く呟いた言葉に、何故かドキリと胸が鳴る。
 ……ここに居ても仕方ない。さっさと済ませて家に帰ろう。
 地面に張り付いていた足を引っぺがし、駅の方向とは反対に歩き出す。
 目的地の場所はわかる。思い出すまでもない。そう、あそこの薬局の看板の陰には小さな人形が隠れていて、頭を左右に振っ
ているんだ。その頭を小突いた先に見えるコーヒー専門店からは、いつも良い香りが漂ってきてフラフラと吸い込まれそうにな
ってしまう。その誘惑をなんとか振り切り、潰れて久しい生花店の角を曲がったすぐ先には――
「…………変わるはず、ないよな」
『creme de diamant』と大きく書かれた、小さな看板。大きめに採られた窓からはカウンターの商品ケースに並ぶ美しいお菓子
がよく見える。記憶の通りの、いや、記憶よりもほんの少し煤けた店の外観。ここから見る限りでは中に人影は見えない。
 俺は入り口の扉に『open』が掛かっているのを確認して、一息。そして、さらに一息して、ノブを捻ったのだった。

13 :No.03 ダイヤモンド・ガナッシュ 3/5 ◇gNIivMScKg:08/03/23 00:10:16 ID:T77lkppG
      
 ドアを開くと、取り付けられていた鐘がガランガランと鳴った。珍しく客は他にいないようだ。店内には静かな音楽が流れ、
白熱電球が優しい光を放っていた。木目の床板と真っ白な壁が、なんとも言えずこの雰囲気にマッチしていて、この空間自体が
一つの作品のようでもある。変わらないな、ホント。
「すいません! 少し待ってください!」
 と、カウンターの奥の作業場から元気な声が聞こえてくる。
 その声に急に鼓動を速める俺の心臓。落ち着け、俺はただの客だ。いやしかし、コネを頼ってきたんだからある意味ただの客
とも言えないのか? ていうか、今更どんなツラして会えばいいんだ? なんで来ちまったのかなあ……
 そんな頭の中の独り相撲の処理に手を焼いていると、やがて奥から白い人影が飛び出してきた。
「いらっしゃい――ま……せ」
 白いコック服に身を包んだ、小柄な女性。亜麻茶色の長めの髪を後ろで一つくくりにしたその姿は、記憶の中の彼女よりも少
しばかり大人びて見えた。
「…………ました」
 驚きに見開いたその眼をなるべく見ないようにして、俺は辛うじて返事をする。
 店員と客。ただそれだけの関係のはずなのに、どうしてこうも息苦しいのか。
 しばしの沈黙。二人の間を音楽だけが静かに流れていく時間――それを破ったのは、彼女の方だった。
「……お久しぶり。今日は、お菓子を買いに来てくれたのよね?」
 その言葉にようやく金縛りから解けた俺は、かいつまんで頼みを伝えた。……なるべく眼を合わせないようにして。
「うーん……聞いてあげたいのは山々だけどね。予約は受け付けられないの。いくら知り合いでもえこひいきしちゃうと他のお
客様に悪いじゃない?」
 "知り合い"という響きにチクリとする胸を無視して考える。ある程度予想はしていた返答だ。信用を考えれば当然とも言え
る。わざわざ朝早くから並んでくれる客を差し置いて、というのは当の俺としても悪いような気がしなくもなかった。
 それならば仕方がない。何か別のものを買って帰ってお茶を濁すことにしよう。限定のチョコレートじゃなくたって、ここの
お菓子は本当に美味しい。文句は言われるかもしれないが、すぐに受け入れてくれることだろう。
「じゃあさ、何か別のもの見繕ってくれな……」
 同じように視線をはずしながら話しかけて、止まる。俺の目はある一点を注視したまま動かなくなっていた。
 彼女の左手、薬指の白くて綺麗な光。まるでその魔力に取り付かれたように、俺は固まってしまう。
「あ……その、ね。私、結婚するんだ」
 その様子に気付いたのか、彼女は少しだけ遠慮がちに言う。
「お菓子の材料をいつも買ってるところの人でね、今年の秋くらいかな」

14 :No.03 ダイヤモンド・ガナッシュ 4/5 ◇gNIivMScKg:08/03/23 00:10:42 ID:T77lkppG
 ようやく石の魔力から解き放たれた俺は、ゆっくりと語る彼女の顔を見る。寂しそうな、嬉しそうな、複雑な表情だった。
 ――彼女は元々結婚する気はなかったらしい。今はお菓子作りに力を注ぎたいから、まともな結婚生活を送ることはできない
だろう、という理由で。しかし、相手はそれでも構わないと言ったそうだ。いつか余裕ができたときにでも一緒に暮らせたらい
い、それまで待つ、と。
「そんなこと言いながらこの指輪プレゼントしてくれるんだもの。参っちゃった」
 そう笑いながら、愛しげに左手のダイヤを眺める彼女。だが、その表情を再び曇らせると、今度は呟くように口を開く。
「……でもね、その言葉を聞いた時思ったの。私ってわがままだったなあ、って」
 俺を見つめる瞳は、俺と彼女の過去を語っているのだと、告げていた。
「…………そんなことはない、さ。俺が身勝手過ぎただけだよ」
 過去の話だ。まだ二人が高校生だった頃の。俺が野球少年だった頃の。馬鹿なガキだった頃の。
 いつの間にか心臓は落ち着きを取り戻していた。
「あの頃の私は、待てなかった。自分のやりたいことに打ち込むあなたを最後まで待てなかった。なのに、今は逆。逆なのに待
ってもらってる。……ずるいよね、私」
 取るに足らない失敗談なんだ、本当は。六番サード。俺のポジション。甲子園まであと少しを三年繰り返して、結局、一度も
行けず終い。そして大切にしていたはずの恋人にまで愛想をつかされた、なんていうほろ苦い経験。あの頃の俺はグラウンドの
ダイヤモンドばかりを必死に守っていて、もう一つのダイヤには気をかけられないガキだったっていうだけ。
「いいんだ。十人に聞けば十人から悪いのは俺、って答えが返ってくるのは自覚してるつもりだから」
 そう言って微笑んだつもりだが、上手くできていたかはわからない。ただ、うん、と力なく答えた彼女を見つめていた。
「…………あ! そうだ、なんか他のお菓子いるよね?」
 しばらくして、口を開いた彼女は記憶の通りの快活さを取り戻していた。その笑顔にほっとする。そう、この顔が好きだったんだ。
 そうだな、適当に頼む、と他人任せな台詞を言う俺に、相変わらずね、なんて微笑むその瞳が、ダイヤの光を宿す。
「あ、そうだ。あのね、ちょっとお願いしていいかな――――」

 テーブルの上。俺が開いた箱の中を二人の妹たちが身を乗り出して覗き込む。
「あれー? トリュフじゃないよ? 何コレ?」
「ははあ、さてはどうにもならなかったから別のを買ってきたな? 普通に考えたら無理に決まってるもんね」
「うるさい。わざわざ行って来てやったんだから文句を言うんじゃない」
 そこには小さなひし形のチョコレートケーキのようなものがあった。一口サイズのものが、九つ。
「まあいいや、いっただきまーす!」
「あっ! またお姉ちゃん先に食べたー!」

15 :No.03 ダイヤモンド・ガナッシュ 5/5 ◇gNIivMScKg:08/03/23 00:11:02 ID:T77lkppG
 なんだかんだで大人しくしていられない妹たちをぼんやりと眺めながら、その一つに手を伸ばす。……うん、うまい。
 口入れた瞬間から溶け始めるチョコレートの優しい甘さ。それを味わいながらふと、さっきのことを思い出す。

「――よかったら、さっき私が作ってたやつ、貰ってくれないかな? それなりに自信作なんだけど」
「ああ、別に構わないよ。けど、個数は偶数にしてくれないか? 妹たちの取り合いがうるさくてさ」
「あははっ。わかった、ちゃんと人数分入れとくね」
 そう言って奥の部屋に走っていったかと思うと、すぐに小さな箱を持って出てきた。
「これは?」
 箱を開いて見せてくれる彼女に訊く。数が奇数なのはあえて問わないが、これはなんというお菓子だろう? チョコレートを
使っているようだが、菓子にとんと疎い俺には、これが何なのかわからなかった。
「これはガナッシュ。んーと、簡単に言えばチョコと生クリームを混ぜたものかな。あのトリュフにも入ってるんだよ」
「へえ、そうなのか。あ、お代は……」
 財布を取り出そうとする俺にぶんぶんと手を振って答える。
「いいのいいの! これは別に売り物じゃないから。っていうか受け取れないよ! 感想が聞きたいだけだからさ」
「悪いな、ありがとう。あ、あと大したことじゃないんだけど……」
 こちらこそ、と言いつつ、首を傾げてこちらを窺う彼女は笑顔だった。
「ガナッシュってさ、どういう意味?」

「おいしーね、コレ!」
「ちょっと、口に入れながら喋らないでよ!」
 相変わらずぎゃあぎゃあと喧しく味わっている妹たち。それでも好評なようなのであえて何も言わない俺。そんな様子をソフ
ァーの上からつまらなそうに眺めるコジマさん。
 淹れたばかりのコーヒーを一口啜り、無意識に言葉をこぼす。
「『この間抜け!』か……」
 あの頃の俺にぴったりの言葉じゃないか。思わず苦笑してしまう。ひょっとすると、俺へのメッセージだったのかも……なん
て、そんなことあるわけないか。こんなこと考えてる俺が"間抜け"なのかもな――
「間抜け!? 間抜けって言った!?」
「誰がよー! お兄ちゃんの方が間抜けじゃないー!」
 しまった。また面倒なことに。誤解だ。これは誤解なんだ! お前らに言ったわけじゃないんだ――――!
 詰め寄る妹たちに必死に弁解する俺。一つくしゃみをしたコジマさんが「ガナッシュ」と呟いた――――ような気がした。 <了>



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