【 ぺったんこ 】
◆nsR4m1AenU




129 :No.32 ぺったんこ 1/5 ◇nsR4m1AenU:08/03/17 02:03:24 ID:Cegf/ica
 外から蝉の声が漏れ聞こえる、保育所の調理室。
 午前の光が差し込む薄明るい中、数人ずつのグループがいくつかの調理台を囲んで作業をしていた。
 その中で、中学二年の直樹は絞り袋と格闘している。生クリームをあちこち飛び散らせ、必死の形相で握り潰
している。彼のブレザーもあちこちが白い。
 元はラーメンどんぶりをひっくり返した大きさのいちごゼリー。今は彼の生クリームで分厚く覆われ、単なる
白い塊となっていた。
 隣にいる幼馴染で中学三年の和佳子は、長い髪を乱しながら直樹の手をはたく。
「あんた何考えてんの!」
 そう叫ぶ和佳子へ直樹は噛み付くように言い返す。
「だから和佳子さん、さっきから『このくらい?』って何度も聞いたじゃん。そもそも忙しいから手伝えって突
然言われたけど、説明も何もなかったし。コツも要領もわかんないって」
「こっちだってフルーツカットで忙しいの! それに常識で分かるでしょ、こんなの」白い塊を和歌子は指差し
た。「飾り付けたおミカンや桃やパイナップルなんてひとつも見えないじゃない!」
 直樹をおしのけ、ぶつぶつ愚痴をこぼしながら、和佳子はゼリーから生クリームをすくい取りはじめた。その
豊満すぎる白いゼリーは、彼女のてきぱきとした動きにともなって少しずつ元のピンク色を取り戻していった。
 その様子を眺めながら彼は絞り袋を調理台の上へ置く。そばにはパイナップルの葉っぱや皮、それにみかんの
缶詰などが転がっていた。ため息まじりに背中を丸くしながら、直樹は指先についた白いのをひとなめ。
 瞬間、彼は目を大きくした。
 甘さ控えめ、なのにすごくおいしい。
 砂糖だけではなく練乳も混ぜた和佳子スペシャルレシピ、と直樹は聞いていたが、これほどとは思っていなか
った。そんな生クリームがどんどん彼女の手で削られていく。もったいない。もっと生クリームで豊満にすれば
いいのに。これと直樹の大好物の生パインは最高の組み合わせだ。ゼリーはいらない。生クリームと生パインだ
けで食べたいと思った。
「でも」
 そうつぶやいて和佳子の手元へ視線を向ける。彼女は飾り付けを全て取り去り、しつこく生クリームをこそぎ
取っていた。
 なぜあそこまでしつこく貧相にするのだろう、と直樹は少し首をひねった。ひょっとして、和佳子には縁の無
い豊かな膨らみが嫌いなのかもしれない。それとも生クリームで豊満に見せかけることが、自分自身に思い当た
るから嫌なのだろうか。
『うわぁ!』

130 :No.32 ぺったんこ 2/5 ◇nsR4m1AenU:08/03/17 02:03:39 ID:Cegf/ica
 突然のわめき声に直樹は顔を上げた。あたりをきょろきょろと見渡す。
 すると、少し離れた調理台で金物の音やひっくり返す音、『げ』とか『いやあ!』という、保育所のおやつ作
りボランティアとは思えない声をあげる一群がいた。彼らの足元では、砕け散ったいちごゼリーがキラキラと輝
いている。
「なんかさ、僕だけじゃないんだね」
 そう言ってから、直樹は少し顔をゆるめた。
 和佳子は手を止め、眉間の皺をさらに深くする。
「……だからね、直樹」和佳子の声と手元はわずかに震えていた。物凄い勢いで顔を上げ、「私たちだけでも、
まともにやんなきゃシャレになんないの!」と、叫ぶように言った。
 その目つきから、時代が時代なら相手を殺しかねないほどの怒りを直樹は感じた。が、怖くはない。女王様っ
ぽい所が彼女にはあるので、このくらいは慣れていた。それより、ボランティア部部長は色々と気を使うという
こと、そしてその部長という肩書きを背負っている和佳子が気の毒だ、と直樹は思った。

 他の部員が並ぶ前で和佳子は力なく一礼をする。顔を上げた彼女の頬に、髪の毛がひとすじ張り付いていた。
「ボランティア部で用意したお化けゼリーは六個でしたが」言葉を止め、和佳子は寂しげな笑顔を見せる。「今
日の仕上げで三個になっちゃいました。けど、なんとか大丈夫、ってさっき保母さんも言ってたし、とにかくご
苦労さまでした」
 部員達も遅れて「お疲れ様でした」とあいさつを返した。
「片付けも終わりましたし、各自いったん家へ帰りましょう。午後三時、このゼリーを保育所のみんなと一緒に
食べますから、その時までにまた来てください」
「はあい」
 そう言ってから、めいめいは散らばっていく。
 和佳子と直樹も、そばにいる保母さんへ挨拶をしてから調理室を出た。
 二人はひんやりした廊下を並んで歩く。直樹は横の和佳子へ顔を向け、つくり笑いをうかべた。
「部長さん、ご苦労さまでした」
 うやうやしく直樹は言った。
 上目遣いで気まずそうな和佳子は口をへの字に曲げる。
「うっさい。まあ、おっきな冷蔵庫へ入れたし、もう大丈夫でしょ。これ以上失敗することは無いし」
 そして下駄箱の前で足を止めた二人は、自分達の靴へと手を伸ばす。
「でもさ、和佳子さんっていつもこんなことしてたんだ。あんまりボランティア部のことを言わなかったよね」

131 :No.32 ぺったんこ 3/5 ◇nsR4m1AenU:08/03/17 02:03:54 ID:Cegf/ica
「まあ、ね」
 茶色いローファーを足元へ落とし、黒いタイツに包まれた足先を入れながら和佳子は言った。
「ちゃんと部長してるし。保育所ってことは子供に優しいんだ」
 何げな直樹のひと言で、和佳子は右足先を伸ばしたまま固まってしまった。 
 ゆっくりと解凍するするように、彼女は直樹へ顔を向ける。眉をひそめながらも口元で笑みを浮かべていた。
「直樹、あんた私をほめて何を期待してんの?」
 髪の毛が胸元へこぼれ、宝石のように輝く和佳子の瞳に見つめられる直樹。彼は自分の心臓が一段と高鳴るの
を感じた。
 少し顎をあげ、和佳子は靴先で軽くトントン、と音を立てながら玄関のドアへ手をかける。
 直樹に背を向けたまま、彼女はドアを開けた。一歩踏み出して和佳子は空を見る。
 日は高い。さんさんと降り注ぐ光は朝の青白さを含んでいる。その爽快な晴れ模様を見上げる彼女の頬は、桜
色に染まっていた。

 午後になって、和佳子と他の部員達は再び調理室へ集合していた。
「何よこれ!」
 直樹を含む数人の部員がとり囲む中、冷蔵庫の扉を開いた和佳子は叫んだ。
 冷蔵庫のすぐ下から静かに水っぽいものが広がり、和佳子の足を濡らす。それはリノリウム床の上でさらに広
がり、部員たちの足元近くでやっと止まった。
 イチゴの匂いがただよっているのに直樹は気づいた。よくはわからないが、これはゼリーがとけたものなのだ
ろう。
「ウソでしょ? 今からだとどうしようもないよ」
 そう言って振り返る和佳子の手には、午前中まで直樹たちが飾り付けていたゼリー、の成れの果て。大きなお
皿に生クリームとフルーツがもられている。
 周囲では誰もが口を閉ざし、お互いを見合っていた。眉をひそめ、口を曲げて気まずい表情をつくる。
 直樹は壁にかかる時計を見た。あと十分で午後三時。しかしこれはこれで、『こんなデザートです』と言い切
れば誰もが納得しそうだ。
 ただ、それはもう豊満ではなかった。ゼリー部分なくなって、ぺったんこになっている。
 保育所の子供は四十人だと、ボランティア部の全員が保母さんから聞いていた。
 つまり、これでは絶対に量が足りない。

132 :No.32 ぺったんこ 4/5 ◇nsR4m1AenU:08/03/17 02:05:05 ID:Cegf/ica
 散々話し合った末、和佳子は園長先生へ謝りに行くことに決め、早速出掛けていった。
 少しして和佳子は戻ってくると、部屋の入り口で直樹を見つけた。
 彼女は目を大きくした。出掛ける前、部員へ頭を下げて「今日は解散」と言っていたのだ。だからほかの部員
は誰ひとりとして残っていない。
「帰ってなかったんだ?」
「まあ、幼なじみのくされ縁だしね。どうだった?」
「うん、まあね」和佳子は首をかしげ照れ笑いを見せた。「まあ失敗もあるでしょ、気にしないでいいから、っ
て言われた。あと、生クリームとフルーツのデザートということで保母さんたちだけでいただきますから、とも
言ってたけど」
「それ、僕も食いたい。でも冷蔵庫でどうしてとけたんだろ」
「パイナップルが生だったでしょ? 酵素を持ってて、それがゼラチンを溶かすのよね。本で読んだことはある
けど忘れてたわ。火を通して酵素を破壊しないとダメなんだよね、確か」
 視線を直樹から外した和佳子はため息をついた。
「でもさ、どうして生パインだったの? ミカンやさくらんぼは缶詰だったのに」
 直樹の疑問に和佳子は答えなかった。くるりと回って背中を見せる。少し遅れて長い髪がふわっと流れた。
「ほら、もう帰るよ。また来月リベンジするから手伝いよろしく」
 華奢な背中を見せる彼女がそう言うと、今度は直樹がため息をついた。

 午後の熱を帯びた日ざしの中、二人は保育所の玄関から出ようとしていた。
 どこかから子供の声が聞こえてくる。それに気づいた直樹は耳をすませた。
『ぺったんこ』
『ぺたぺたぺったん』
『ぺたぺたぺったん ぺったんこ』
 腕組みをして考え込んでから、直樹は何か思い当たった様子で顔を上げる。
「これ、"ぺたぺたぺったんこ"っていう歌だよね? 僕も歌ったことがあるけど?」
「……あんた、それ、嫌味?」
 ドアを押し開こうとしていた和佳子は、肩越しに振り返って直樹を睨みつける。
 その表情から彼女は何を言いたいのか、直樹にはすぐに分かった。両手のひらを和佳子へ見せ、左右に振る。
「あ、いや、別にゼリーのことを言ったんじゃ」

133 :No.32 ぺったんこ 5/5 ◇nsR4m1AenU:08/03/17 02:05:22 ID:Cegf/ica
「じゃあ何?」
 直樹は言葉をつまらせた。他にたとえようとすると、彼女の胸元しか思い当たらない。そんなことを口にでき
る訳が無い、殺される。
 しかし何かを言わなければ。
 そして、いい逆転の方法を彼は思いついた。
「和佳子さん、缶詰の方が扱いやすいのにどうして生パイン?」
 そんな直樹の言葉に、一瞬、和佳子は驚きの色を見せた。だが、彼女ははすかさず
「ごまかすつもり? ぺったんこは何のたとえで言ったの?」
 歯を食いしばる直樹。彼も負けずに言い返す。
「そっちこそ。生パインにしたのはどうして?」
「だから直樹、ぺったんこって私の胸のことでしょ? 変態!」
「知らないって。だから生パインはどうしてだって聞いてんの!」

 薄紅色にそまりつつある保育所の玄関。同じ言葉でいつまでも、いつまでも二人はじゃれ合っていた。



BACK−雲の上と雲の下の無責任◆ecJGKb18io  |  INDEXへ  |  NEXT−静かの海に横たいて◆vPz.0ntgWA