【 静かの海に横たいて 】
◆vPz.0ntgWA




134 :時間外No.01 静かの海に横たいて 1/5 ◇vPz.0ntgWA:08/03/17 02:07:48 ID:Cegf/ica
「ねぇ、サユ姉ちゃん。起きてる?」
 歩がそう囁きながら、彼女に背を向けて寝転がっていた私の肩に右腕をかけた。風が凪いだとても静かな夜な
のに眠れないでいた私は、その声や腕の重みに少し安心するとともに、キュッ、と胸を締めつけられる感じがし
た。
「なぁに?」
 向き直らずそのまま尋ねる。歩は悲しそうに質問を返してきた。
「ほんとに明後日で、ぜんぶ終わるのかな」
「……もう十二時過ぎてるから、明後日じゃなくて明日だね。NASAだって確実だって言ってるんだし、ほんとだと思うよ」
「……だよね。ごめん」
 歩も私と同じ不安を抱いて寝つけずにいるらしかった。この夜の静けさのどこにも、終わりの予感は見当たら
ない。今までと同じように、すべてが続いてゆくようにすら思える。けれどたぶん本当に、明日で世界が終わ
る。地球に向かいつつある隕石の回避や破壊が不可能だ、という公式見解が発表されてだいぶ経つ。映像だっ
て、テレビで流れている。実感がわかなくても、漠然とした不安が心の片隅に巣食っている。
 でも、私の悩みはそれだけではない。もっと個人的で小さな、それでいて地球の終わりと同じくらいやり場が
なくて、どうしようもない悲しみ。
 私の頬に、歩の手が触れる。歩の小さな手の冷たさが伝わる。
「あったかい……」
 ひとりごちるように歩が言う。
「……サユ姉ちゃん」
「なぁに?」
 私の背中に体を寄せて、歩は答えた。
「大好き、だから」
「……うん」
 私だって、歩のことは大好きだ。たった一人の可愛い妹だから。しかし、どんなに深くてもそれは他の何もの
でもない、家族としての愛情だ。なのに私の「好き」と歩の「好き」はいつも少しずれていて、その差が歯がゆ
くて、切ない。互いに分かりあえない、それぞれ別の種類の苦しみが、同じように二人を縛る。それを終わらせ
るためにいろいろと考えてたどりついた答えも、あまりに救いのないものだった。
「サユ姉ちゃんも、アユのこと、好き?」
 ここで自分の気持ちを言葉にできたら、今日の私の計画もすべて不必要になるけれど、そんなことはできな

135 :時間外No.01 静かの海に横たいて 2/5 ◇vPz.0ntgWA:08/03/17 02:08:09 ID:Cegf/ica
い。歩の心を壊すことなく自分の気持ちを伝えられるほど私は器用じゃない。できることと言えば、ただ受け入
れるように見せかけるだけだ。
「好きだよ」
 ためらいがちにそう答えると、素直な歩はよかった、と一言だけ呟いた。そのまま私たちはなにも言わず、し
ばらくすると背後から寝息が聞こえてきた。元来歩は寝つきがいいのだ。残念ながら私はまだ眠れそうにない。
 寝返って歩に体を向ける。歩はとても無邪気で安らかな寝顔をしていて、こんな顔を見ることももうないのか
と思うと、寝るのが惜しくなってますます眠れなくなった。
 誰が、悪いんだろ。
 少し考えてみる。たぶん、誰も悪くない。歩にも父にも母にも責任はないし、責任を押し付けて貶めることも
ない。誰かが悪いとすれば、不器用なくせに歩に頼られる立場に回ってしまった私か、私たちの周りの巡り合わ
せを悪くした神様くらいだろう。でも誰のせいにもできないということは、かえって残酷だ。

 歩は生まれた時から父に憎まれていた。未熟児としての歩の誕生は、難産の末の母の死を伴った。大学からの
つきあいだった伴侶を失った父の喪失感は相当深かったらしくで、まるで人が変わったように不真面目になっ
て、酒の量も増えた。そのうち会社を辞めて、翻訳関係の在宅業務を始めたが、仕事も実入りもあまり多くはな
い。
 父の悲しみは年を重ねても薄れずに深まるばかりで、いつからか歩は父に暴力を振るわれるようになった。父
は歩の病弱さや成績の悪さに難癖をつけては気が済むまで殴ったり蹴ったりし、一方では私には相変わらず昔の
ように優しかった。歩が泣いているのを見るのは辛かったが、善人としての父の記憶が残っていた私は戸惑うば
かりで、あとで慰めたり、飴をあげたり、一通り泣き言につきあったあと一緒に寝たりしかできなかった。
 歩が私のことを姉以上に思っているらしいと分かったのは、去年そのことで相談を持ちかけられてからだっ
た。
「たぶんそれは、ほんとに好きってことじゃないと思うよ。姉妹っていうのと、守ってくれてるからっていうの
と、もっと甘えたり頼ったりしたいっていうのがごっちゃになってるだけで、好きっていうんじゃない。もちろ
んそれは悪いことじゃないけどね。歩はまだ子供だから、しょうがないよ」
 泣きじゃくる歩をなだめながら諭して、最後につけたした。
「今の関係のままでももっと甘えてくれてもいいし、もし歩の気持ちが変わらないなら私も考えるから。とりあ
えず今日はこれで終わりにしよ」
 落ち着き払っているように装ってはいたけれど、内心怖くてしょうがなかった。歩の切羽詰まった声や、ここ
まで彼女を追い込んだ父の暴力に怯えるばかりだった。

136 :時間外No.01 静かの海に横たいて 3/5 ◇vPz.0ntgWA:08/03/17 02:08:31 ID:Cegf/ica
 その夜、私は包丁を持って父の仕事部屋に行った。父は酒を飲んでいて、机の上にはビールの空き缶が並んで
いた。開きっぱなしのまま投げ出された辞書やノート、まだテキストファイルを開いたままのノートパソコンか
ら察するに、仕事をさぼって飲んでいるらしかった。父はイスをくるり、と回転させて私を見た。
「……お父さんのせいだよ」
 そう言っても、父は顔色一つ変えず私を見ていた。
「お父さんのせいで、歩がおかしくなっちゃった。お父さんのせいで……。歩がなにをしたって言うの?」
 詰問しながら包丁を首筋に突きつけて、父を睨みつけた。しかし次の瞬間、思わず包丁を落としそうになっ
た。
 父の表情が和らいだ。娘に殺されるというのに、長い間見ていないような笑顔を見せた。
 私は思った。父は殺されたがっている。父は本当は死にたくてしょうがないのだ。だから抵抗をしないのだ。
 とたんに、他のことにも思い至った。私が父を殺すと、私は歩と一緒に暮らせなくなるかもしれない。そうな
れば、歩には甘えたり頼ったりできる人間がいなくなってしまう。それに、ここで父を殺すことは、父を苦しみ
から逃れさせることになる。ここで父を死なせてはいけない。
 手を下ろして後ずさりをしてから背を向け、部屋から出た。帰り際に、佐由理、明日は部活もあるんだろうか
らゆっくり寝なさい、と言う父の声が聞こえた。私に対する優しげな口調は相変わらずだった。
 あれから結局、私は歩の想いに答えてもいないし、父の虐待も解決していない。とんだ偽善者だと自分でも思
う。でもすべて今日で終わる。決して理想的な形とは言えないけれど、終わらせてみせる。

 アメリカの方ではそうそうたるメンツが三日三晩に渡って大規模なロック・フェスティバルを行ったらしい。
中国では暴動が問題になっているらしい。世界のあちこちでなんらかの事件が起きてはいるけれど、もっと激し
い混乱が起きるのかと想像していた者からすれば、思いのほか平和だ。みんな割とあきらめがついているよう
だ。特にこののんびりした田舎町には、目立った変化はない。
 私と歩は同じ私立の一貫校に通っていて、私は高二、歩は中二だ。学校は休みということになっているけれ
ど、先生も生徒もほとんど集まっている。校門でしがみついていた腕を名残惜しそうに離す歩にiPodを貸し、そ
れから仲のいい女子二人と合流する。教室でクラスメートと雑談する。仲良しグループで席を固めて弁当を食べ
る。放課後はバスケ部に出る。授業がないことと、みんなの会話にやけに熱がこもっていること、写真を撮りま
くったり涙ぐんだり泣き出したりする生徒がいること以外は普段通りだ。
 部活を終え、保健室のベッドに寝転んで音楽を聴いている歩を迎えに行く。今日は保健室で一日過ごさず、少
しは教室に顔を出した、という歩の頭を撫でてやると、嬉しそうに笑った。校門を出てからは彼女と手をつない
で歩いた。

137 :時間外No.01 静かの海に横たいて 4/5 ◇vPz.0ntgWA:08/03/17 02:08:47 ID:Cegf/ica
 学校から十分ばかり歩いたところに海岸があり、そこには私と歩だけの秘密基地がある。崖に空いた、あまり
大きくなく、かと言って小さくもない洞窟。そこで私たちは日が暮れるまで時間をつぶして、家に帰る。大体は
歩とイヤホンを分け合って音楽を聴き、一緒に本を読んだり、ボンヤリ海を眺めたりする。
 洋楽嗜好の私と邦楽好きの歩は音楽の趣味が合わない。互いに好きなアーティストをけなし合ったりもする。
でも私も歩も好きなアーティストも少しはいる。例えば、sigur rosという、オーケストラみたいにスケールの大
きい音を鳴らすアイスランドのバンド。優しさと痛みを併せ持つ、どこか陰鬱なバンドで、明るい音楽が好きな
歩もどうして好きなのか分からないと言う。
 歩と並んで岩床に座り、sigur rosを聴きながら水平線を見つめる。風のない海は静かで、夏空を映したように
青かった。まだ日没まで時間がありそうだ。肩にもたれかかる歩の髪からシャンプーの香りが漂い、大気に発散
する。計画を実行するのもためらわれるほど、心地よい時間がゆったりと流れる。
「……静かだね」
 歩が嘆息を漏らすように言う。
「うん」
「ほんとに、終わるのかな」
「うん」
 生返事を返していると、歩は体を離して私を向いた。
「終わる前に、サユ姉ちゃんの気持ちが知りたい」
 突然の発言に驚いて歩を見る。歩は真剣な目つきでじっと私を見ていた。
「私の気持ちはずっと変わってないよ。サユ姉ちゃんは違うって言ってたけど、やっぱり私、サユ姉ちゃんが好
きだよ。気持ちが変わらなかったら考えるって、サユ姉ちゃん約束したよね?」
 ほとんどその場しのぎのようにした約束。私がずっとうやむやにしてきた間も、歩はずっとあの約束を信じて
いた。応えるつもりなんてどこにもなかったのに。
 違う。違うよ、こんなの。
 急にやるせない気持ちがこみ上げてくる。なにもかもが間違っているのだ。歩の歪な愛情も、死にたくても死
ねない父の悲しみも怒りも、そしてなによりも、誰にもなに一つしてあげられない私も、ぜんぶおかしい。おか
しな運命に踊らされている愚か者ばかり。
「ねぇ、サユ姉ちゃん、答えてよ。明日まで待ってたら答えを聞く前にぜんぶ終わっちゃうよ? そんなのヤだ
よ、私。……ねぇ、なにか言ってよ!」
 本当はもっとあとにしたかったけれど、今を逃すと私は計画を実行するチャンスを逃すかもしれない。今しか
ない。

138 :時間外No.01 静かの海に横たいて 5/5 ◇vPz.0ntgWA:08/03/17 02:09:09 ID:Cegf/ica
「……歩、目をつぶってくれる?」
「え?」
「いいから、目つぶってて」
 歩が目を閉じたのを確認して、鞄から包丁を取り出す。包丁を握る手が震える。
 空いている方の腕を歩の背中に回して抱き寄せるとと、歩も両腕を回してきた。歩になんて残酷なことをする
のだろうか。こんなに私を信じきっているというのに、彼女があまりにも報われない。そんな気持ちが沸き起こ
るけれど、そんなことを言っても、もう引き返せない。
「ごめんね、歩。私の気持ちも変わらないの。私も歩のことは好きだけど、やっぱり歩とは違う『好き』なの。
だから、歩の気持ちには、姉としてしか応えられない」
 歩は黙ったまま腕に力を込めて、もっと強く私を抱きしめた。
「ごめん。辛かったよね。私も歩の痛みを分かってあげられなくて辛かったけど、歩はもっと辛かったんだよ
ね」
 私も彼女を抱き返しながら、彼女の背中に包丁の刃を当てる。手の震えが激しくなるのを目をきつく閉じてこ
らえ、一気に突き刺す。
 歩の体が跳ね上がった。腕を離した歩から刃を抜いて、ゆっくり床に横たえる。彼女は目を見開いて、呆然と
こちらを見据えていた。
「どうし、て……?」
「歩、だいじょうぶだから、私も一緒だから」
 歩の表情と血に泣きそうになりながらもどうにか笑顔を作り、自分の腹に刃を当てる。息を止めて、腕の勢い
に任せる。
 想像以上に鋭い痛みが走り、思わず声を出してしまった。落ち着いて判断することができなくなりそうになり
ながらも、どうにか包丁を傍らに投げ出し、歩の側に寝転ぶ。
「ほら、おんなじ、痛み……。これで、歩の気持ちが、分かるから、だいじょうぶ……」
 二人とも息も絶え絶えで、目から涙があふれていたけれど、私はまた精一杯の作り笑いをして歩を安心させよ
うとした。歩も諦めがついたのか、口元をゆるませた。
 たぶん、もっと早くこうすればよかったのだ。父にも、私にも、世界の終わりにも、なににも歩が壊されない
うちに、私が彼女を寝かしつけて、私も一緒に眠りについて、痛みを分け合えばよかったのだ。そうすれば二人
きりで静かに終わりを迎えられた。行き場のない愛情も憎しみも不安も、ぜんぶ優しく終わらせられた。
 不意にsigur rosが聴きたい、と思ってやっとイヤホンが抜けていたことに気づいた。けれどそれももうよかっ
た。遠のく意識の中で、sigur rosが聞こえている気がしたからだ。



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