【 無色の夜 】
◆p/2XEgrmcs




61 :No.16 無色の夜 1/4 ◇p/2XEgrmcs:08/03/16 20:51:06 ID:XP4qbfqC
 七月初めの、傘が役に立たない大雨の夜だった。僕たちは、強風に煽られて形を崩した
安物の傘を投げ捨てて、走り出そうとした。先んじてしまった僕は一度立ち止まり、追ってくる悠子の手をとる。
前を向き、自分が感覚する悠子は、手のひらにしかいなくなる。滑らかな肌は雨にふやけていて、
わずかに彫りこまれた皺を水が満たしている。思い切り握りしめたら、爛熟した果物でも潰すような手ごたえで
壊れてしまいそうだ。駅から遠ざかり灯りが減っていくにつれて、暗闇の不安と家に近づく安堵が相殺を始める。
 僕のアパートに着く。ひさしが壊れていて、ビニールの幌が張ってある。その下で鍵を取り出し、
部屋の玄関を開ける。扉を開いて中に入ろうとした途端、悠子が僕に抱きついてきた。おい、と制そうとするが、
彼女は僕に唇をぶつけてくる。雨のせいで冷たく、過剰に柔らかい。舌でやり取りをしながら、僕は目を瞑らず、
彼女の無心の表情を見てやろうと思いつく。しかし悠子はそれを見越してか、ぱっちりと目を開き、
僕の目を見つめてくる。二人で目を開けながら唇をまじえているのは、異常なまでに不恰好だった。
僕は耐え切れず目を瞑る。悠子は一瞬唇を離し、楽しそうに笑った後、もう一度唇を寄せてきた。自分の唇に、
それとよく似ている、だがそれより柔らかく甘い器官が当たってくる感触に、僕は自然に酔う。
小規模な射精が起こっているように思う。雲の中で雷が鳴るように、可視とは言えないくぐもった快感が
鋭くその部位を走り、頬がその余波で痺れる。悠子は、僕のその知覚を把握しているかのように舌を遊ばせ、
僕を撫ぜる。瞼の向こうで、雨音がはっきりと響いている。
 僕は長い一連の動作に飽き、悠子を引き離すと扉を開ける。彼女は僕を部屋の中に引きずり込む。
鍵を差しっぱなしにしたまま、僕たちを入れて扉が閉まる。灯りが点いていない部屋の中に進みゆく
悠子の後姿を見る。それから振り返り、扉を見る。
 暗闇に彩られた扉、ビニールを叩く雨粒の音、その二つから感じられる無表情。
 下らなく思えた。それほど無機的なものに触れることも。鍵を外に置かないためだけに、悠子に触れるまでに
扉を開けて鍵を抜き取り扉を閉めなければならないことも。
           

62 :No.16 無色の夜 2/4 ◇p/2XEgrmcs:08/03/16 20:51:43 ID:XP4qbfqC
          
 悠子に近づいていく。彼女は黒いTシャツを脱ぎ始めている。藍色の下着が胸を巻いている。
Tシャツから腕が抜かれたのを見てから、彼女の胴に腕を回す。雨に冷えた皮一枚の奥に、何が流れているのか
不安になるほどの体温がある。柔らかな熱。見たことのない内臓など、想像できない。暗闇の中で
腕だけが感じ取る、赤々と燃える体温。悠子の体にはそれこそ満ちている。
 悠子は僕の腕に阻まれながら、やや太いジーンズを脱ぐ。ベルトさえ緩めきれば、太いジーンズは彼女の
細い腰や美しい脚を締め付けられず、床に落ちる。そうして新たに現れた下着も、
胸のものと変わらない色合いであるようだ。
 肌を曝した悠子を抱き締める。彼女の柔らかさは、僕の衣服に濾過されてしまって、大して魅力的にならない。
こんなものではない、こんなに無様ではない、こんなにつまらなくない。以前にも得た甘い感触への渇望が、
脊髄を巡りだす。僕も羽織っていたシャツを、その下のTシャツを、ジーンズを脱ぎ、動作の間離れていたことを
詫びるように悠子を抱く。熱と柔らかさは、この時最も望ましい熱さ、柔らかさ、広さをもって僕に届いた。
悠子は、指で、というよりも、冷たさで僕を愛撫する。僕の抱擁に飽きているように、片腕をなおざりに
僕の腰に巻き、片手では僕の背を上から撫でていく。指は僕の左肩から肩甲骨へと落ち、中心へと移って
背骨の出っ張りで遊ぶと、腰の左側へと落ち、これで終わりだと僕に言い聞かせるように
手のひらが脇腹を覆う。それはお決まりの動作だった。
「どうしてこう動かすか、知ってる?」
 悠子は普段の口調で話す。僕は少しの焦りを隠して答える。
「いや、気になってたんだ。どうして?」
「何てことないの。黒子があるだけ」
「見ないで分かるの?」
「もう付き合って三年になるよ」
 それぐらい覚えられる。悠子はそう呟いた。それぐらい覚えられる、という呟きにだけ、
対象が僕と定まっている重みがある。僕は抱擁の力を強める。すると悠子は体の力を全く抜いて、
ずしりと僕の身体を沈める。その勢いに乗って、二人で寝転んだ。
           

63 :No.16 無色の夜 3/4 ◇p/2XEgrmcs:08/03/16 20:52:08 ID:XP4qbfqC
         
 出かけるときにもたついて、悠子が来ると分かっているのに布団を上げないでいた。
こんな運びになっては、その不精がかえって役立った。
 僕は、僕たちの身体からこぼれる湿気を布団が飲み込み始めているのを肌で感じる。
 身体にこびりついたままでいる下着をごちゃごちゃと脱ぎ捨てると、
僕たち二人は冷たく湿っただけの生き物として触れ合いを始める。肌に舌を這わせると、舌が冷たく濡れた。
悠子もまた僕の肌をついばむ。そうするうちに、雨とは違う湿りが、僕たちの身体からも生まれ始める。
 熱い体液の泥濘。そこに自分の器官を入れ込む時、僕というレセプターは狂い、全ての統御を失う。
それをいつか悠子に話した時、私もその時そんな感じ、と言われて、嬉しかった。
 今夜もそうだ。悠子を組み敷いてそうする時、悠子を見つめている時、僕は悠子の半身を見つめていたはずが、
熱や湿りが混ざり合うその瞬間には、彼女が寝そべる布団もまた彼女の身体なのではないかという混乱に
見舞われる。それに恐怖して目を瞑り、腰を振り始めると、僕たちの息遣いと雨音が、音量をそのままに
僕たちの身体を圧迫し始める。世界が迫ってくる。五感それぞれが感じていた情報が属性を喪って、
音も闇も、熱と柔らかさも、皆同じ言語になって僕の中に滑り込んできて、衝突する。
悠子は僕に最も近い位置にいて、息を荒くしながら僕を見ていてくれる。恐いね、と言ってくれている気がする。
 乱暴な快感に怯えていながら、その恐ろしい快感を供給しあう行為は、とにかく僕たちを二人にする。
他人であるのに、相手を情報の塊でなくさせる。その中で触れ合うのは、肌でも性器でもない。意識だ。
 いつか悠子は言った。下らないことが多いね、と。しがらみやおかしな不文律の中でしか人間は暮らせない。
一度壊してみたいね。たとえそれで満足出来なくてもいい。ただ思い切り壊してみたい。
 僕は快感を掻き分けるように悠子の腰に腕を回す。
 壊してしまおう、雨も空気も、自分の身体も。放っておいてもそこにあるものなんて壊してしまえばいい。
そんなものは、僕たちが望んでそこにある訳ではない。今、僕が望んでいるのは、悠子だけだ。
 悠子は僕の肩を掴み、強く握り締めてくる。僕は腰の動きを止めて、肋骨同士を組み合わせたくて、
悠子の体を強く抱き締める。悠子の手は僕の肩から離れ、僕の首へと回る。僕たちは、
人間が出来得る限りに密接な抱擁をしている。
 この時僕は、雨音と、呼吸と、暗闇を、完全に忘れた。

64 :No.16 無色の夜 4/4 ◇p/2XEgrmcs:08/03/16 20:52:28 ID:XP4qbfqC
    
 天気の良い朝になって、僕たちは一緒にシャワーを浴びる。狭いユニット・バスで二人、立っている。
昨夜の汗も汚れも、すっかり落ちた。
 僕たちは気軽に触れ合いながら、昨夜の激情を欠片も表さない。いつも僕は、この時間を不思議に思う。
決して不愉快なのではない。ただ、白い壁も温いしずくも、あれほど焦がれた悠子の肉も、
壊したいなどとは少しも思えない。
 濡れたまま僕たちはユニット・バスを出る。僕はバス・タオルを腰に巻き、玄関の扉を開ける。
鍵はそのままそこにあった。引き抜こうとつまんだ瞬間、冷たい水が指に沁みた。
銀色のつまみはきらきらと濡れていて、大雨が冷やした夜を保存しながら、朝の薄い光に輝いていた。
あの夜は、確かにあったのだ。今が、あの夜と違いすぎるだけなのだ。
鍵を引き抜き、部屋に入ると、簡単に身体を拭いた悠子が窓を見ている。僕は後ろから彼女を抱く。
「朝になる度、夜にあったことは本当のことかと思う。今お前と触れ合ってても、このままでいられればいい、
と思うだけなのに。何かをなくそうなんて、朝には絶対考えられない」
 何度もそうしてきたのに、僕は未だに不自然でならない。悠子は、
「壊した後に出来ることなんて、感動ぐらいだよ」
 と笑う。確かに僕は今、気だるさに甘えることぐらいしか出来ない。
 昨夜の冷えなど全く残っておらず、僕たちの身体には、触れ合いによる汗が浮かび始める。
夏が近づいているのだ。
 
<了>



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