【 彼女の浜辺 】
◆F00SERh74E




55 :No.14 彼女の浜辺1/3 ◇F00SERh74E:08/03/16 19:14:41 ID:XP4qbfqC
 海岸沿いの道はひどく静かだった。海には船一隻見当たらず、空には雲ひとつ浮かんでいない。気味
が悪いほど良い天気だった。人家はとっくに消え去り、対向車が来ることもなかった。
 僕はかつて何度となく彼女を乗せてこの道を往き来した。けれども僕が最後にここを走ったのはちょう
ど一年前だ。そして二度と彼女が僕の車の助手席に座ることはないだろう。
 僕が小屋に着いた時、もう陽は傾きかけていた。僕は小屋の横に車を停め、ドアの前に立ってしばらく
小屋を眺めた。小屋はひっそりと静まりかえって、どこか色あせたように見えた。それでも僕に過ぎ去っ
た日々の断片を感じさせるのには十分だった。
 僕はカーペットの下から鍵を取り出し、ドアを開けた。小屋の中は大きな箱のように一つの部屋しかな
い。台所はあるが、タンクに水を溜めないと流しは使えない。ミネラルウォーターを持ってきたので飲み水
には困らないだろう。ガスはまだあるはずだから、コンロは使える。部屋には机と、木製の椅子がふたつ
あり、本棚とソファがある。隅にはベッドがある。二人が乗るとよく軋んだ。
 彼女は窓際に立っていた。
 彼女は少し物憂げに水平線を眺めていた。去年も一昨年も彼女はそうやって僕を待っていた。僕は
やあと声をかける。彼女はこちらを向いて力なく微笑んだ。
「来てくれたのね」
「ああ」僕は答える。「大事な日だからね」
「私にとってもあなたにとっても」
僕は頷く。彼女は窓辺を離れて、僕に荷物を渡すよう促した。
「コーヒーでも淹れるわ」
「お願いするよ」
 僕は椅子に座り、彼女が見ていた水平線を眺めた。空と海の境界線は、なぜだか僕をひどく寂しい気
持ちにさせた。波はとても静かだった。
 彼女は二人のカップを机に置き、僕の向かいの椅子に腰を下ろした。懐かしいカップだった。

56 :No.14 彼女の浜辺 2/3 ◇F00SERh74E:08/03/16 19:14:59 ID:XP4qbfqC
「こうしていると、あの頃に戻ったような気分になるわね」
 そうだねと僕は言ってコーヒーを啜った。彼女は続けた。
「このカップをここに持ってきた時のこと覚えてる?」
「ああ」
「路地から猫が飛び出してきて、あなたは急ブレーキを踏んだ。幸い猫も私もあなたも怪我はなかった。
私のお気に入りだったお皿は割れちゃったけど……」
「申し訳ないと思ってるよ」僕は言った。
「たくさんの食器が壊れちゃった中で、このカップだけは傷一つついていなかったのよね」
 彼女はそれだけ言ってからコーヒーを啜った。僕は何か気の利いた言葉を探した。
 窓からは西陽が差し込んで、僕の顔を少しだけしかめさせた。机の上を光と陰の境界線が走っていた。
「カーテンをかけましょうか」
 僕の様子を見て彼女が聞いた。
「いや、いい」僕は言う。「海を見ていたいんだ」
 彼女はおかしそうにふふっと笑った。
「今と全く同じやりとりを何回やったか覚えてる?」
「さあ」僕は窓の方を向いたまま答える。「わからないな」
「あなたっていつもそう。眩しいのなら目を逸らせばいいのに」
「そういう性格なんだ」
 僕達はしばらく黙り込む。心地の良い沈黙だった。久しぶりに煙草が吸いたくなった。
 彼女は僕の後ろの壁に掛けられた絵を見ているようだった。僕が描いた絵だ。彼女がここの近くのちょう
どよい浜辺を探し、椅子に座らせて僕が描いた。彼女は椅子に腰掛けて心から幸せそうに微笑んでいる。
僕も幸せだった。三年と二ヶ月も前の話だ。
「もう絵は描かないの?」
「描きたい物がないからね。それにこの絵は僕の生涯で最高の、そして最後の作品なんだ。それを汚したく
ない」
「そう」彼女は悲しそうに少しだけ目を伏せて言った。「あなたは変わってしまったのね」
「僕の身の回りを構成していた物の多くが壊れ、失われ、過ぎ去って行ってしまったからね」

57 :No.14 彼女の浜辺 3/3 ◇F00SERh74E:08/03/16 19:15:15 ID:XP4qbfqC
 太陽は水平線に足をかけようとしていた。光と陰の境界線は既に僕の頭上を通り過ぎ、あの絵だけが辛
うじて光の中にあった。
 彼女はすっと立ち上がり、ゆっくりと僕の背後へ回った。僕は振り返らなかったが、彼女が何をしようとし
ているのかはわかっていた。僕は彼女が絵を壁から下ろし、額から絵を取り出す頃合いを見計らって肩越
しにライターを渡し、灰皿を差し出した。
 彼女は火のついた絵を灰皿に乗せて僕の前に置いた。そして僕の肩に手をのせた。太陽はもう半分ほど
水平線に浸かっていた。
「悲しい?」彼女は問いかけた。
「それはもう」
「私だって悲しいわ。でも仕方のないことよ」
「わかっているさ」
 絵は今にも燃え尽きそうだった。彼女は黙っている。僕は言葉を探した。
「さよなら」
 彼女の声が聞こえ、僕の首筋に一滴の涙が落ちた。絵は燃え尽き、太陽は水平線に没した。
 暗闇が完全に世界を支配するまで僕は海を見ていた。あるいは何もみていなかったのかもしれない。
 翌朝僕は日の出とともに目を覚ました。夢は見なかった。僕は手ぶらで外に出て、ポケットから鍵を取り出
しドアを閉めた。
「さよなら」
 僕はそれだけ言って小屋を後にした。僕の声は空に消えた。
 五分ばかり走った所に彼女の浜辺はあった。僕は車を降りてポケットから小屋の鍵を取り出し、波打ち際
に投げた。
 僕が車を再び走らせてすぐ、後ろから大きな爆発音が聞こえた。

了。



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